第1話「名も知らぬ少女と、午後の出会い」
雨が降ってくるなんて、聞いてないんだけどな。
傘も持ってない。天気予報、はずれかよ……。
濡れた前髪を鬱陶しくかき上げながら、僕は人気のない路地裏を足早に歩いていた。
通学路とは少し外れた場所。
じとっと肌にまとわりつく、梅雨らしい重たく湿った空気。
この辺に雨宿りできそうなとこなんて――と、視線を巡らせたとき。
ふいに目に入ったのは、どこかクラシカルな雰囲気を纏った木製の看板だった。
――喫茶 ノクターナ。
……あれ。
この名前、どこかで――いや、違う。「どこか」なんて曖昧な話じゃない。
思い出した。
子供の頃、よく来ていた場所だ。
母に連れられてきたり、時には一人でふらりと立ち寄ったり。
僕の、小さな世界の中にあった、あの喫茶店。
いつの間にか足が遠のいて、存在すら忘れていた。
けど、今。
こうして目の前に立ってみると――心の奥が、じんわりと疼いた。
「……懐かしいな」
思わず、口に出ていた。
落ち着いた装飾が施された木の扉にそっと手をかけると、ほんのわずかな力で開いた。
カランカラン――。
鳴り響くドアベルの音が、耳の奥に染み込む。
まるで、ずっと前から知っている旋律みたいに。
胸が、少しだけ痛くなった。
こんなにも懐かしい感覚、久しぶりだった。
「いらっしゃい」
低く、穏やかな声が店内に響いた。
ふと顔を上げると、カウンターの奥で皿を拭いていた男がこちらを見ている。
その姿は、記憶の中とまるで変わらなかった。
落ち着いた雰囲気と、どこか職人っぽい無口な空気。
子供の頃の僕が、少し怖がりながらも慕っていた、あのマスターだ。
「……マスター」
自然と、その呼び名が口をついて出た。
自分でも少し驚いた。けど、なんだろう……
口に出した瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。
やっぱり、ここは――あの頃のままなんだ。
軽く頭を下げて中に入ると、ふと店内の奥――窓際のテーブル席に目が止まった。
ちょうどひとりの女の子が、手に布巾を持ってテーブルを拭いていた。
「――あっ、いらっしゃいませ~」
控えめだけど、どこかあたたかみのある声。
シンプルなエプロン姿のその子は、制服じゃない分、落ち着いた雰囲気があって。
それがまた、妙に大人びて見えた。
(バイトの子……かな?)
でもどこか、見覚えがあるような――。
そんなふうに思いながらも、僕は一瞬、息をのんだ。
肩までの髪は、少しだけくせっ毛で、ところどころ跳ねている。
それが店内のやわらかい照明に透けると、どこか水色がかった光を帯びて見えた。
(……きれいな髪だな)
そして、ふと目が合った。
その瞳は――青と緑、まるで宝石みたいな、透き通ったオッドアイ。
どこかで……見たことがあるような。
でも、はっきりとは思い出せない。
(なんか……すごく、懐かしいような……)
彼女はふわっと微笑んで、また元の作業へと戻っていった。
その横顔を、僕はぼんやりと見つめ続けた。
濡れたシャツが、ひやりと肌に張りつく。
体温がじわじわ奪われていくような感覚に、思わず身震いした。
「すみません、あの……タオルとか借りられませんか? 席、濡らしちゃいそうで」
思いつきで、とっさに声をかける。
少し間があって、彼女がこちらを振り返った。
「あ……はい、ちょっと待っててくださいね」
小走りにカウンターの奥へと消えていった彼女は、すぐに戻ってきた。
手には布を持っていて――
「……あれ、それって……」
思わず指をさしかける。
それは、さっきまで彼女がテーブルを拭いていた布巾に見えたから。
けれど彼女は、ふふっと小さく笑って言った。
「冗談です。こっちはちゃんとしたタオル。私の私物ですけど、どうぞ」
そう言って差し出されたそれは、少し色褪せたピンク色のタオルだった。
そして――ほんのりと、優しい香りがした。
柔軟剤の匂い。どこかで、嗅いだことがあるような。
「……ありがとう」
タオルを受け取って、ゆっくりと顔を拭う。
その間も、どこかで記憶を探るような自分がいた。
ふと視線を上げると、彼女はじっと僕を見ていた。
透き通ったその瞳で、まるで何かを確かめるように――
けれど僕が気づいた瞬間、彼女はすっと目を逸らして、何事もなかったかのように仕事へ戻っていった。
(……あれ。もしかして――)
言葉にはできない。でも、胸の奥がそっと引っかかる。
忘れてた何かに、指先が触れかけたような――そんな感覚。
席に着いたあとも、しばらくの間、僕の視線は自然と彼女の後ろ姿を追っていた。
カウンターの奥で、器用にカップを並べている小さな背中。
なれた動き。落ち着いた所作。
――初めて会った気がしない。
そんな気が、していた。
けれど、名前も思い出せない。昔の記憶を辿っても、輪郭だけが曖昧に滲んでいて。
「おまたせしました。こちら本日のブレンドになります」
彼女が運んできたカップからは、ふわりと香ばしい香りが立ちのぼった。
コースターの上にそっと置く手が、とても丁寧で……その所作すら、なんだか懐かしく感じた。
「雨、大丈夫でしたか?」
不意にかけられたその声に、僕は目を上げる。
彼女は、すぐそばに立っていた。
「あ、うん……大丈夫。急に降ってきたからびっくりしたけど」
「ふふ、私もすぐ近くにいたんですけど、ちょうど降り出す前にお店に戻ってきたんです。いいタイミングでしたね」
自然な微笑みに、なぜか心の奥がくすぐられる。
この感じ……本当に、どこかで――
「あのさ、もしかして……前に会ったこと、ある?」
気付けば、そんな言葉が口をついていた。
彼女は一瞬、目を見開いていたけれど、――すぐに笑って、首を振った。
「どうでしょう。もし覚えてくれていたら、嬉しいですけどね」
からかうように言ったあと、彼女は小さく頭を下げて、またカウンターの奥へと戻っていった。
(……絶対、どこかで会ってる)
でも、思い出せない。
それがなんだか悔しくて、僕はコーヒーを口に運んだ。少し熱い。だけど、なんだかほっとする味だった。
そのあと、マスターが静かに出てきて、僕の目の前に水のグラスを置いた。
「……ずいぶん、久しぶりだな、ルイくん」
その一言に、僕は手がぴたりと止まる。
「……えっ」
マスターはグラス越しに、ちらりとカウンターの奥を見た。
ちょうど、彼女が器を片づけているのが見えた。
その視線はほんの一瞬。でも、そこに確かに何かがあった。
懐かしさ以上の、なにかを“知っている”ような、静かなまなざし。
「覚えてないかもしれんが、あんたは昔、よくここに来てたんだ。小さい女の子と一緒に、な」
その言葉に、頭の奥がチクりとした。
小さな手。冷たい川の水。柔らかな笑い声――
そして、ターコイズブルーの髪。
ふと見れば、彼女の後ろ姿がそこにあった。
その光景に、まるでパズルのピースが、一つずつ、はまり始めていくような感覚が広がっていく。
マスターが再びカウンターに戻っていくのを視界の端で見送りながら、僕は未だに、さっきの「ティアナ」に似た子のことで頭がいっぱいだった。
ターコイズブルー髪。青と緑の不思議な瞳。どこか夢を見ているような、懐かしさが押し寄せる。
――まさか、本当に?
考え込んでいると、すぐそばから視線を感じた。横を見ると、さっきの店員の女の子がじぃっとこちらを見ている。
(……そんなに見つめられたら、こっちが照れるって)
(こんな可愛い子にそんな目で見られるの、人生で何度ある?……いや、まず理由が知りたい)
思わず、こっちも見返そうと顔を向けた途端、彼女はぷいっと顔を背けた。
「……はっ!申し訳ございません! ご注文はお決まりですか?」
取り繕うような早口で、けれどその頬がかすかに赤く染まっていた。
それがまた、なんというか、胸の奥に優しい痛みのようなものを残す。
「そうだなぁ…」
(もし、僕の知ってる”あの子”なら――)
「店員さん、何かおすすめありますか?」
「えぇと……私のおすすめは、たまごサンドイッチとアイスティーですね」
「じゃあ、それで」
(……やっぱりか。確定、とは言えないけど……ほぼ間違いない)
注文を終えて彼女が戻ろうとした時も、僕は自然と視線で彼女の姿を追っていた。
(……何か、昔話でもしてみるか)
そう思っていると、彼女がこちらに戻ってきた。
「なんですか?私の顔に、何か付いてますか?」
「いやぁ……なんか、昔一緒に遊んでた人に似てるんだよね」
「……」
「”ティアナ”って人、知ってます?」
その瞬間、彼女の体がぴくりと震えたのを、僕は見逃さなかった。
視線を逸らすように、ほんの一瞬だけ俯いた彼女の横顔に、
何かが浮かんで、そしてすぐに消えた。
(やっぱり……)
「あぁ、あの時は小さかったからなぁ……数年ぶりか」
彼女は黙ったまま、手元をいじるようにエプロンの端をつまんでいた。
「ほら、一緒にここに来てたでしょ?」
その言葉に、彼女はそっと目を閉じる。
まるで、心の中にしまっていた箱の鍵を、静かに開けるように――
その言葉に、彼女は目を伏せたまま、小さくうなずいた。
そのままポツリと――けれど確かに、つぶやく。
「……もうそんなに経つんですか……」
その声がほんの少しだけ震えていた。寂しさを含んだ、どこか切ない音。
「ん?何か言った?」
「い、いえっなんでもないですっ」
彼女は慌てて首を振って笑った。けれど、瞳の奥にある感情までは誤魔化せていない。
「にしても懐かしいなぁ。昔はよく遊んでたよね」
「この近所の川で水浴びとかもしたっけ」
「そうそう……あの時、私……溺れちゃって。あなたが助けてくれて、とても嬉しかった」
「そうだったね。ティーは怖がりだから、ずっと僕の腰につかまってたもんね」
「……あっ、その呼び名、まだ覚えてくれてたんだ……!」
驚いたような、でも隠しきれない嬉しさがにじんだ声だった。
その響きが、まるで胸の奥に残っていた記憶ごと、あたためてくれるようだった。
胸の奥に、やわらかい何かが広がっていくのが分かった。
「子供からの長い付き合いだからね。忘れるわけないよ」
「じゃあ、注文されたの、作ってきますね!待っててください!」
彼女は急いでカウンターへと戻っていった。
背筋をピンと伸ばしていたけれど、その足取りには、どこか照れ隠しのようなリズムがあった。
(やっぱり、ティアナだったんだ)
ずっと会いたかったわけじゃないけど、どこかで心に残っていた名前。
彼女が”あの頃のまま”ここにいてくれたことが、僕には、少しだけ嬉しかった。