第五章 さよならを知らないまま(僕)
地震があったのは、三月十一日の午後だった。
コンビニに立ち寄って、缶コーヒーを買い、アパートへの帰り道。
電柱がぐらりと揺れ、地面が波打つように感じた。
安食という町の、静かさが音を立てて崩れた。
足元を確かめながらアパートへ戻ると、彼女はベッドの端に腰を下ろしていた。
小さく肩を震わせて、スマホを何度も見ている。
テレビもラジオもないこの部屋では、スマホが唯一の情報源だった。
「……実家の仙台は大丈夫かな」
彼女がぽつりと呟いた。
「連絡がつかない。ニュースでは、すごい揺れって言ってた。津波も……」
僕は何も言えなかった。
心の中で「大丈夫だよ」と繰り返したけれど、声にはならなかった。
そんな無責任な言葉、彼女に向けて吐けるものじゃない。
その夜、ふたりでコンビニへ行った。
照明は半分落とされ、商品棚も空っぽに近かった。
パンと水と、レジ横に残っていたおにぎりを少しだけ手に取り、
レジの前で何人かと無言の列に並んだ。
戻る途中、街の灯りがすっかり消えていた。
安食の夜は、もともと静かだけど、その夜はとくに異常だった。
風の音と、自分の足音しか聞こえない。
アパートの窓から見えた星空が、やけに鮮明だった。
彼女が帰省することを決めたのは、それから1週間後のことだった。
「実家、無事だった。でも、心配だからお母さんの側にいようとおもう」
「…うん」
それ以外の言葉が見つからなかった。
彼女は、僕が止めることを望んでいない気がした。
「向こうにずっと住むかどうかは決めてない。決めるまでは部屋にいていいから」
僕は無言で俯く。
僕も行っていい?そんなことが言えたらよかったのかもしれない。
だからせめて出発の日、駅まで送っていこうとしたら、彼女は首を振った。
「ひとりで大丈夫。なんか、そういうの……逆に寂しくなっちゃうから」
僕は玄関で立ち尽くしていた。
彼女は手を振らなかった。ただ、小さく会釈をして、振り返らずに階段を降りていった。
彼女の残した布団と、使いかけの化粧水と、ドライヤー。
どれも彼女そのもので、触れるたびに、胸が詰まる。
彼女がいた部屋で、彼女のいない日々が始まった。
僕は、彼女が何をしていたのか、結局最後まで知らなかった。
でも、知らないままでよかったのかもしれない。
誰かの過去を完全に知ることなんて、本当は誰にもできない。
ただ、あの安食の春の日々だけは、本当にあった。
誰にも見つからなかった僕と彼女が、
確かに隣で呼吸していた時間だった。
彼女が去った翌日、僕はアパートの部屋を見渡して、深く息を吐いた。
この部屋は、彼女の名義だ。
家賃も、契約も、鍵の管理も。僕はただの居候だ。
場所には思い出が宿る
彼女がいない、この家の孤独には僕は耐えられなかった。
この部屋を僕も出ることにした。
どこに行くかは決めていなかった。けれど、もうこの場所に居続けることが苦しくなってしまった。
それが僕の弱さだ。
彼女にLINEを一言いれた。
「僕も部屋を出ることにするよ」
彼女は
「そうなの 気をつけてね」
とだけ返ってきた。
荷物は少なかった。リュックひとつに収まる程度だった。
彼女がくれた黒いマグカップだけ、そっと新聞紙に包んで鞄に入れた。
電車を待つホーム。駅は静かだった。
ふと見上げた空は、あの日と同じように晴れていた。
だけど、もう彼女はいない。
さよならも言わずに始まり、
さよならの言葉を交わすことなく終わった。
でも、それでよかったのかもしれない。
誰にも見つからなかった春が、ただそこにあった。
僕と彼女の、たったひとつの、秘密だった。