第三章 夜の音、誰かの秘密(僕)
彼女の部屋に転がり込んで、三日が経った。
朝はベッドの上で背を向けて寝ている彼女を横目に、僕は布団から起きて、そっと湯を沸かす。
日中はとにかく外を歩くしかない。何もない街で、何もすることがなかった。
駅前にはコンビニが一軒あるだけで、商店も飲食店も見当たらない。
空き地と畑と、点在する古びた住宅。
この街は、静かというより、まるで時間が止まってしまったような場所だった。
だから、歩くしかなかった。
アパートの窓から見える一本道をまっすぐ歩いて、用水路沿いを辿りながら、たまに自販機を見つけて缶コーヒーを買う。
誰ともすれ違わない午後の道を、ひとりで過ごす。
彼女は、昼になると部屋を出ていく。
「ちょっと出てくるね」とだけ言って、どこかへ行く。
帰ってくるのはいつも夕方、同じ時間だった。
手ぶらで戻ってくる日もあれば、小さな紙袋を抱えている日もある。
僕はその行き先を訊かなかった。
気にならなかったわけじゃない。でも、それを口にするのは、何か境界線を越える気がして。
彼女も、僕の一日を訊いてこない。
ただ、それぞれの沈黙を、干渉しないまま並べていく日々だった。
夜になると、彼女はよく窓辺に座っていた。
薄暗い空き地を見下ろしながら、イヤホンを耳に差し、スマホを見ている。
風の音と、時折通りすぎる電車の低い響きが、部屋の静けさに混じっていた。
ある晩、ふと目を覚ますと、彼女がいなかった。
ベランダの戸が開いていて、外から小さな光が漏れていた。
そっと近づくと、彼女が手すりに寄りかかってスマホを操作していた。
画面には、明るく笑う自撮り。
でもその表情が、どこか不自然に感じられた。
僕が気配を漏らすと、彼女は気づいて振り返った。
「……起こしちゃった?」
「ううん。喉乾いて」
「そっか」
それだけ言って、彼女は画面を閉じ、ベッドへ戻っていった。
僕はそのまましばらく、空を見上げた。
街灯もほとんどない空に、星が少しだけ見えた。
次の日、僕は道端の草むらに落ちていた週刊誌の切れ端を拾った。
裏表紙の裏、アイドル特集の小さな記事。
ぼやけた横顔。その目元が、どこか彼女に似ていた。
名前はわからない。芸名もわからない。
でも、僕にはそれがなんとなく彼女だとわかった。
あの夜、ベランダで光に照らされていた顔と同じだったから。
部屋に戻っても、何も言わなかった。
彼女も何も言わなかった。
ただ、僕が炊飯器をセットしていると、背中越しに小さな声がした。
「ねえ、たとえばさ。誰かが過去を隠してたら……それって、裏切りだと思う?」
「……思わないよ」
僕は、少し間を置いてから言った。
「誰だって、全部を見せられるわけじゃないと思うから」
彼女は「ふーん」とだけ言って、洗濯物を取り込みに窓際へ向かった。
その背中が、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。