第二章 無名という名前(彼女)
朝、目が覚めると、見慣れない布団がひとつ、私の部屋のラグマットの上に敷かれていた。
その上に、見慣れない誰かが寝息を立てていた。
──ああ、昨日の人だ。
薄くカーテンを透けて入る朝の光が、彼の横顔にかかっていた。
駅前のベンチで、顔をぐちゃぐちゃにしてチョコパンを食べてた。
あのときの表情が、今も少し残っている気がして、目を逸らした。
私だって、そんな人間を部屋に入れるなんて、普通じゃないってわかってる。
でも、あの夜の彼は、どこか自分と似ていた。
仙台の実家の犬に似てると言ったが自分に似ていた。
何も持たずに、誰かに何も言えずに、ただ逃げてきたような──
そんな目をしていた。
「おはよう」
そう言うと、彼が少しだけ驚いた顔をした。
なんでもない会話なのに、どこかぎこちなくて、だけど心地よかった。
「名前、聞いてもいい?」
不意にそう訊かれて、一瞬だけ言葉が詰まった。
名前。
それを名乗ることに、私はずっと躊躇いがある。
だって、名前を名乗るたびに「仕事は何してるの?」って聞かれるから。
「芸能関係です」なんて言ったら、きっと同じ質問が飛んでくる。
「テレビに出てる?」「何に出てるの?」って。
「あんまり人に名乗ることないから恥ずかしいね」
そして、名乗った。さやか。
芸名じゃない方の、ほんとうの私の名前を。
彼も名乗ってくれた。
どこか照れくさそうに。
その名前を、私は頭の中でそっと繰り返してみた。
不思議と、すっと馴染んだ。
午後になって、彼は「少し散歩してきます」と言って出て行った。
部屋には私ひとり。
ベッドに寝転んで、天井を見ながら思った。
なんで私は、彼を部屋に入れたんだろうって。
誰かに頼られるのは、怖い。
でも、誰にも頼られないのは、もっと怖い。
私の心のどこかが、あの人を必要としていた。
自分でも理由はわからないけれど。
夜、彼が戻ってきた。
コンビニ袋を提げて、「これ、少しだけど」と言ってレトルトカレーを差し出した。
「ごはん炊きますよ」
炊飯器に米をセットしている彼の背中を見ながら、私は静かに座った。
炊けるまでの時間、何も言わずに過ごしたけれど、
言葉がないことが、こんなに安心に思える時間があるんだと、初めて知った。
私は、まだ彼に何も話していない。
自分が何をしているかも、どんな毎日を過ごしているかも。
彼が知ったら、どう思うだろう。
それが怖くて、言い出せないままでいた。
でも──
今はまだ、知られなくていい。
私と彼は、ただ「名前を名乗った」だけの関係でいい。
それで、十分だった。