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第一章 東京という名前の檻(僕)

東京から逃げた。

逃げたというと少し大げさに聞こえるかもしれないけど、あの街で生きることが、もう耐えられなかった。


大学院の研究室で、僕は壊れていった。

論文を出せば無視され、報告をすれば小馬鹿にされた。

「やる気あるの?」「研究者って、そんな甘くないから」

そんな言葉を浴びるたび、自分の存在が否定されていく気がした。

その日も、研究室に行くフリをして、そのまま上野駅に向かった。

気がつけば、常磐線の成田行きに乗っていた。


我孫子で乗り換えて乗った成田線には、トイレがなかった。

途中、突然の腹痛に襲われ、あわてて降りた駅が「安食あじき」だった。

18時を少し過ぎた頃。空はもう藍色に染まり、駅の灯りだけが頼りだった。


無人の改札を抜け、駅前の右手にある古びたトイレに駆け込む。

個室の床には、濡れた吸い殻が一本落ちていた。

「なんでこんなところに……」と思いつつ、そんなことを気にしている余裕もなかった。


ひと息ついたとき、涙がこぼれた。

痛みや情けなさ、そして見えない不安が一度に押し寄せてきた。

ああ、僕は、本当に逃げてきたんだな、とそこでようやく実感した。


外に出ると、駅前のコンビニが目に入った。

セブンイレブン。東京にもよくある店なのに、ここではまるで別の国の明かりのように感じた。


店の外のベンチに座る。

スマホのバッテリーが切れかけていた。

このままどこに行くかも決められず、時間だけが過ぎていった。


「……大丈夫ですか?」


そう声をかけられて、顔を上げた。

若い女性だった。

キャップを深くかぶり、マスクをしていたから表情はわからなかったけれど、目だけが妙に真っすぐだった。


「……ええ、大丈夫です」

反射的にそう答えると、彼女は少し首をかしげた。


「このあたりって、あんまり人がベンチで座ってることないから。珍しくて」


そのまま彼女はコンビニに入っていった。

僕は、そのまま数分ベンチに座っていた。

すると、戻ってきた彼女が、小さな袋を差し出した。


「なんか、疲れてそうだったから。甘いやつ、いるでしょ」

袋の中には、チョコパンとスポーツドリンクが入っていた。


「……ありがとう」


自然とその言葉が口から出てきた。

久しぶりに、誰かに気をかけてもらった気がした。


「なんか実家で飼っている犬にあなた似てて。私実家は仙台なんだけどね」


「ああそうなんだ」

適当に聞き流していたら、沈黙が流れた。沈黙を打ち消す様に彼女は口を開いた。


「今日寝る場所ない感じですか?」


「今夜は……ホテルかネカフェでも探そうかと」


「安食にそんなのないですよ。タクシーもほとんど来ないし」


彼女は一瞬黙って、それから少しだけ視線を落とした。


「……今日だけなら、うち来てもいいですよ 実家の犬に似てるから 実家の犬に感謝してくださいね」

「……え?」


「だって、見てらんないくらい顔が死んでた。ま、変なことしたら通報しますけどね」


彼女は小さく笑って、それが妙に現実的だった。

僕は迷った。でも、未来への漠然とした不安と、誰かと一緒にいたいという気持ちに負けた。


彼女のアパートは、駅から10分ほど歩いた場所にあった。

二階建ての古びた建物。ベランダに並ぶ洗濯物が、春の風に揺れていた。


部屋は狭い1K。テーブルとベッド、あとはラグマットが敷かれただけの簡素な部屋。

「布団、あるんで。それ敷いて使ってください」

「本当に、ありがとう……」


その夜、僕はその布団で眠った。

彼女はベッドの上で、背を向けて静かに呼吸をしていた。


名前もよく知らない。

どんな人なのかも、全然わからない。

でも、あのとき、僕のことを見て、声をかけてくれた。

それだけで、少し救われた気がした。


こうして、僕の「逃げ場所」は、

彼女の部屋になった。


それが、春の終わりだった。

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