7 フルール・ド・リス
あの夜、私を隠れ家まで送ってくれたスズハネは、またしばらくしたら連絡するとだけ言って出て行った。それからもう一週間たつが、何の音沙汰もない。
「もしかして、何かあったのかしら」
カウンターテーブルを拭きながら呟けば、カウンター裏でグラスを片付けていた男が顔を出した。
「用がなければ、数か月顔を出さないこともありますから。心配しなくていいと思いますよ」
ヘーゼルアイにそばかすが印象的な彼の名前はカミル。優し気な顔立ちをしていて、物腰柔らかな青年だ。カミルは、私が隠れ家として使わせてもらっているこの店で、バーテンダーとして働いている。面倒見の良い性格で、居候の私の世話も率先して焼いてくれていた。
「数か月も放置されたらたまらないけれど……。よし、拭き終わったわ。次は何をすればいいかしら」
居候という肩身の狭さもあって、数日前から店の仕事を手伝わせてもらっている。といっても、私が出来ることといえば簡単な掃除くらいだった。一応貴族の出なので、家には使用人がいた上に、家が取り潰しになってからはほんの一か月ほどで牢屋行きだった。要するに、ろくに家事などやったことがないのだ。
「そうですね、掃除はもう十分ですし……。あ、そうだ、おつかいを頼んでもいいですか?」
「おつかい?ええ、構わないわ」
スズハネが来ない間も、ずっと店の中に籠っていたわけではない。カミルに連れられて何度か買い物に出ていた。まともに一人で下層部を歩いたことは一度もないが、ちょっとしたおつかいくらいなら問題なくこなせるだろう。
「それで、何を買ってくればいいのかしら」
扉近くにあるコート掛けに掛かっていた黒い外套を羽織りながら尋ねる。フードを目深に被り、カミルの方に向き直った。中央部と比べれば、下層部は良くも悪くも無法地帯だ。軽い事件や犯罪はひっきりなしに起こるが、自由な気風でもあり、露店の並ぶ通りなどはいつも活気に溢れている。とはいえ、騎士団がまれに巡回を行うこともあるから、外に出るときはこうして顔を隠しているのだ。
「昨日、救急箱を確認したら包帯が残り少なかったので、診療所で買ってきてくれると助かります。あと、何か美味しそうなものを二人分。帰ってきたら昼食にしましょう」
「それは名案ね。何かカミルの口に合いそうなものを探してくるわ」
カミルから貨幣が数枚入った革袋を受け取り、扉を開ける。階段を上って地上に出れば、そこは狭い裏路地だ。路地を出てすぐの大通りでは、食べ歩きや持ち帰りに適した食べ物が様々売られている。
(せっかくなら温かいものを食べたいわよね。先に診療所に向かいましょう)
診療所には、最初お世話になって以来一度も足を運んでいない。道順はあいまいだが、まあどうにかなるだろうと歩き出す。下層部の道は中央部よりずっと複雑で入り乱れている。それでも、なんとなく見覚えのある道を進んでいけば、無事診療所までたどり着くことが出来た。
「こんにちは、へレスさんはいらっしゃるかしら」
扉を開けて中を覗き込めば、薬特有の匂いが鼻を抜けた。私の呼びかけに応え、奥にいた女性が振り返る。
「あらまあ、ヴィネじゃない!」
「お久しぶりです、へレスさん」
へレスさんは、ただでさえ大きな目を見開くとこちらへ駆け寄ってきた。
「驚いたわ~、意外と元気そうね。今日はどうしたのかしら?」
「ええ、おかげさまで。今日は包帯を買いに来たんです」
へレスさんに用件を伝え、包帯を受け取る。どうせなら少し話したいという彼女に促されるまま椅子に座った。
「そういえば、昨日スズハネも訪ねてきたのよ。仕事以外でここに来ることなんて滅多にないんだけど~」
「そうなんですね、彼はいったい何の用で?」
へレスさんが悩まし気に眉根を寄せる。どうやら、あまり明るい話題ではなさそうだ。
「それがね、うちに来る患者さんの中で、変わった症状を訴えたり、若いのに急死した人はいないかって」
へレスさんの話を聞いてピンときた。スズハネはおそらく、女性失踪事件の犯人が話していた、注射薬について調べているのだろう。
(それなら、私にも教えてくれれば良かったのに…)
彼にそんなことをする義理がないのはわかっていたが、一緒に調査にあたっていた身としては気になる話だ。あの時は人手が増えて助かると言っていたのに、役立たずならいない方がましとかそういうことだろうか。落ち込む私をよそに、へレスさんはどこか不機嫌そうに続けた。
「おかしなことを聞くと思わない?イドラ様のご加護がある以上、病気だとか急死だとか、あるはずないのに」
「それは、そうですね……」
「飢えや怪我じゃないなら、黒い雪くらいよね~。寿命を迎える前に死ぬ理由なんて」
「それはそう──」
曖昧に頷こうとして、ハッとした。記憶を手繰り寄せ、あの男の発言を反芻する。
──女を殺すのに、使えって…僕に薬をくれたんだ。それを打てば、心臓以外は綺麗なまま殺せるからって…。
黒い雪、年に一度、死神が降らせる死への誘い。黒い雪に触れた者は、徐々に体を蝕まれ、動けなくなり、最後には心臓が破裂して死に至るのだ。そう、心臓が。
「そう、そうだわ。黒い雪よ、どうして気がつかなかったの」
「? ヴィネ、どうかしたの~?」
「ごめんなさい、私、急いで行かなくちゃ」
私は慌てて立ち上がると、勢いよく診療所を出た。ひたすらに走って、隠れ家の前まで来て気が付く。
「急いで帰ったところで仕方ないわよね、スズハネはいないんだし…」
それに、カミルからお昼を買ってくるように頼まれていたのだった。なんだか気勢を削がれた気分で踵を返し、露店や酒場の立ち並ぶ大通りまで歩く。相変わらずこの辺りは、人がごった返していた。
(カミルはよく食べるし、お腹に溜まるものがいいわね)
少し見て回ってから、持ち帰りも出来る酒場に入る。ここにはカミルと何度か立ち寄ったが、外れがなくて気に入っていた。大きめのミートパイと、バゲットを選ぶ。二人で食べるなら十分だろう。
「たった一泊で金貨三枚!?高すぎるんじゃありませんこと!?」
背後から聞こえた大声に思わず振り返った。そこでは、紫色の髪をした女性が腕を組んで店主をにらみつけていた。
(そういえばここ、二階に宿も併設されているんだったわ)
「そうはいってもお客さん、もう泊ったんだから払ってもらわないと困るよ」
「そ、そんな……だいたいこんなオンボロ宿でしたのよ!?金貨三枚は取りすぎじゃありませんこと!」
女性がより一層語気を強めて言えば、店主は諦めたようにため息をついた。
「分かったよ、じゃあ金貨一枚。いっとくが、これ以上したら赤字だ」
「ふふ。聞き分けの良い方は嫌いじゃなくてよ」
女性は薄い唇で満足そうに笑みを作った。そんな様子につい感心してしまう。
「すごいわ、ああやって値切るのね……」
「バカか?アンタ」
いきなり背後から聞こえた声に思わず跳ね上がる。同時に取り落としかけたバゲットを、声の主は片手でキャッチした。
「ス、スズハネ!?どうしてここに」
「アンタに用があってな。カミルに聞いたら、外に出てるって言うから、こうしてわざわざ探しに来たんだよ」
「そ、そうなの。それにしても、さっきのはどういう意味?いきなりバカなんて」
「どういう意味って……やっぱりアンタお嬢様だな。あれをどう聞いてたら、値切ったなんて話になるんだ?」
「え、だって実際、金貨三枚を一枚まで負けてもらってるのよ?すごい違いじゃない」
つい首を傾げれば、スズハネは大きなため息をついた。その目には明らかに呆れの色が浮かんでいる。
「いったい下層部のどこに、一泊で金貨一枚も取る高級宿屋があるんだ」
「でも、中央部では金貨一枚は特段高い方ではないわ」
「中央部ではそうだろうな。ここは下層部だ、この程度の宿なら銀貨一枚でもおつりがくる」
「ということは彼女、騙されているの?」
「あの女、見るからに世間知らずのお嬢さんだろ。まさしくいいカモだよ、周りを見てみろ」
言われてみて見渡せば、酒場で飲み食いしている客の多くが、薄笑いを浮かべながら彼女を見つめていた。明らかに馬鹿にしたような笑い声も聞こえる。
「……気に入らないわね」
「は?」
手にしたままだったミートパイをスズハネに押し付ける。そのまま騒動の中心へと近づいていった。