プロローグ 黒い雪の降る日
神に守られる国、ルビオン。
人っ子一人いない裏路地を、私は必死に駆けていた。暗闇に紛れて降る季節外れの雪が肌に溶けていくのを感じたところで、ようやく足を止め物陰に隠れる。そっと息をひそめて、少し遠くから聞こえてくる話し声に耳を傾けた。
「まだ見つからないのですか」
「だ、大司教様、罪人は、下層部に逃げ込んだようで…これ以上の捜索は困難です」
「ならば下層部まで追いなさい」
「そんなこと、この雪ではとても…」
「いいから行きなさい!神に仇なす罪深き者を、見過ごすわけにはいきません!!」
若い女──大司教リリアーナ──と騎士の言い争う声が聞こえてくる。もし仮に下層部まで追ってこられたら、逃げ切ることはまず不可能だ。いまだ諦める様子のないリリアーナの声に、どうしたものかと唇を噛んだ。
「そのくらいにしておいた方が良い、大司教殿」
「…シリウス、様」
「この雪のなか下層部に出たんだ。そう焦らずとも、彼女が逃げ果せることはないさ」
「ですが─」
「それに」
反論しようとするリリアーナの声を遮り、シリウスと呼ばれた男は低い声でこう続けた。
「いくら大司教殿といえども、うちの部下を使い捨てるような真似はよしてもらいたい」
男の殺気は、目の前にいない私すら身震いするほどのものだった。向こう側の喧騒が一気に静まり返ったのを感じる。
「そこまで言うなら、いいでしょう。今日のところは引き上げます」
「それはよかった。感謝するよ、大司教殿」
いくつもの足音が遠ざかっていくのが聞こえる。少しして彼らが離れていったのを確認すると、私は壁を背にずるずると座り込んだ。裸足で走り続けたせいか、足の裏がじくじくと痛む。それに呼応するかのように、心臓が早鐘を打ち始めた。視界がどんどん歪んでいく。
「と…さ、…ごめ……なさ…」
街灯に照らされてはらはらと降り落ちる、真っ黒い雪を見ながら、私は意識を手放した。