第8話 サヨンの恋
サヨン視点
恋というものを知っているだろうか。
こんなことを言うと「当り前だろバカ野郎」とかそんな罵声が飛んできそうだが、俺はつい最近それを知ったのだ。
知ったことを誰かに話して共感して欲しいという子供じみた発想にまで俺を引き戻すほどにそれは衝撃的な出会いだった。
尖った唇、短い黒髪、不正を許さない鋭い目つき、すらりと引き締まった体つき。俺は彼女に恋をした。
最初に聞いた彼女の言葉は、どう考えても暴言だった。
「故郷に帰れ、クズ共」
どういう経緯でそんな言葉を発することになったのかは不明だったが、帰る故郷が無い相手と、この超能力学校が故郷の人間に対してそんなことを言ったものだから、俺には彼女が、この超能力学校の外から来た人間だということが容易に推測できた。
「ジュヒ、てめぇ!」
ジュヒという名らしい。そのジュヒに今にも殴りかかろうとする男がいた。俺は飛び出してその女の子を守ろうという思考を展開させたのだが、彼女が少しも怯えないので、足を止めて様子を見守ることにしたのだ。
「あら、暴力? 脳の髄まで腐ってるのね。殴れば? 殴ったりしたらあたしも本気を出させてもらうけどね」
「く……チィッ、つまんねえな! 行くぞ、おまえら」
見るからに小物の不良といった容貌の男達はゾロゾロと昇降口から出て行った。
大勢の男達を、ジュヒは一人で追い払ってしまったのだ。
もう一度ジュヒの方に目を向けると、ジュヒは、床に倒れている一人の男子生徒に駆け寄って、手を差し伸べていた。男子生徒は怪我をしていた。おそらく、先刻の不良共に袋叩きにされていたのだろう。
そして、その男子が「ありがとう」と言いながら伸ばした手を、ジュヒは、
バシン!
思いっきり叩き落とした。
「え……」
「甘ったれるな! 女に手を引かれて立ち上がるなんてお前もクズだ!」
そう言うと、不良達と同じように、昇降口を出て、女子寮の方面に向かって歩き出した。余程興奮していたのだろう。上履きのままだった。
俺も急いで靴を履き替え、昇降口を出ると、女子寮へ向かって歩いていくジュヒの背中を見つめた。しばらくすると、ジュヒは足元に視線を落とした後、上履きのまま外に出るという重大なミスに気付いた様子で、こちらに戻って来た。
擦れ違う。擦れ違った時の彼女のはにかんだような表情を見た時、俺の中の何かが崩壊し、弾け飛んだのだ。
その後男子寮に戻った俺は、のぼせたようなボンヤリとした意識を持ち帰り、同室のラニに不審な顔をされながら布団の中でのたうち回った。その時になって、ようやくそれが「恋」であることを悟った。それから数日間の俺は、正直どうかしていたと思う。
俺は、千里眼と透視能力を持っていた。
ミキトが未来視を持ち、ラニが過去視を持つように、俺は現代視とも言える目を持っていたのだ。
この「本来見えないものを見る目」というのは、持ち主に向けて常に誘惑を放っていて、その誘惑との戦いに勝ち続けなければ人間として生きていられない。
何故かというと、他人のプライバシーを覗く能力になり得るからだ。
興味から他人の秘密を探る人間は、もはや人間ではない。
ラニは、この誘惑に敗北し続け何度も他人の過去を覗いているようだが、俺は、その誘惑には一度しか負けたことがなかった。
その一度というのは、三年前、つい興味本位で気になる人の裸を覗いてしまったことだ。思春期ならではの衝動。俺は若かった。そして、そのことをその相手、ソフィアに正直に告白すると、泣きながらぶん殴られて、それでも許してくれた。
ジュヒと出会ってから、俺は葛藤の末、千里眼の誘惑に二度目の敗北をすることとなる。そこからはもう、転落し続けた。
常に第三の目はジュヒを追うようになった。いわゆるストーカーと何ら変わらない。最低最悪の覗き魔。しかも、散々ジュヒのプライバシーというものを覗いておきながら、着替えの時や、入浴の時等はその第三の目を閉じるという妙な紳士ぶりを発揮するという中途半端さ。
寮に住む生徒は男子も女子も、ほとんどが二人部屋か三人部屋を割り当てられているのだが、ジュヒは一人部屋だった。
その部屋でいつも寂しそうにしているジュヒを、俺が助け出してあげたいとか、そんな気持ち悪いことを思うほど、俺は焦がれてしまっていたらしい。
はっきり言ってジュヒは、学校で浮いていた。彼女は、普通のクラスに居るには勿体ないほどに優秀で、その上誰よりも正しかった。
融通の利かない人でトラブルの原因になることもとても多かったが、常に弱い者の味方に立ち、悪を懲らしめていた。俺の彼女に対する想いが彼女を美化して盲目になっていた可能性も無いではないが、とにかく、彼女は素晴らしい女性だった。
いじめが横行していた彼女のクラスを更に大きないじめで鎮圧したり、遅刻者、居眠りをする生徒を徹底的に糾弾。恐怖からだろうか、皆がジュヒの側についた。
しかし、やはり彼女は孤独だった。結局、ジュヒに付いた人々は、大きな権力に群がってきただけの者達。彼女の正義というものを一つも理解していない。それがわかっているジュヒは、自らクラスメイトとの深い交流を断ってしまうのだった。
学校が終わると、寮の部屋で一人溜息を吐いているジュヒ。そんな彼女を俺は抱きしめたい。
彼女を見ているうちに、そんな風に思うようになった。
少し時が過ぎ、彼女が選抜学級に入ってきたのは、つい半年前のことだった。
「新しく選抜されたジュヒです」
張りつめた空気と共に、ジュヒは選抜学級にやってきた。控えめな拍手で迎えられたジュヒがまず睨みつけたのは、一番後ろの席に座るルネだった。
ルネが机に伏せて眠っているのはいつものことなのだが、彼女にとっては、最初の挨拶で自分のことを見もせずに眠っている人間がいるのは許せないだろう。
「ルネ、起きて」
前の席に座るキリがジュヒの剣呑な視線に気付き、ルネのおでこをパチンと叩くと、ルネがパチンと目を開いて、「はぅ! 何よぅ、もう……」と不快そうにしていた。
次にジュヒが睨みつけたのは、マリア。マリアは窓の外をずっと眺めていたのだが、視線に気付いてジュヒを睨み返す。目を逸らした方が負けとでも言うように緊迫した十数秒の攻防があって、敗北したのはジュヒだった。
「よろしくお願いします」
誤魔化すように深々と教室中の皆に頭を下げ、ジュヒは選抜学級の一員となった。マリアとの睨めっこで敗れたことが彼女の選抜学級内での立場を弱いものにしたのは言うまでもなく、ジュヒの存在は、選抜学級の一生徒という枠の中に収まってしまった。
しかし、俺にとってはジュヒが頂点に立とうが立つまいがどちらでも良いのだ。
どんな立場でいても、俺がジュヒをこの世界の誰よりも好きであることに変わりはないのだから――。
更に時が流れて、選抜学級にジュヒが入ってきて三ヶ月が経った頃、少し彼女が変わったように感じた。何がどう変わったのかはわからなかったが、何となく違和感のようなものを感じたのだ。そこで俺は、また最低最悪の覗き行為をする。常に彼女を監視して、何がどう変わったのかを見極めようとした。そしてその結果、俺は……彼女の気持ちを知ってしまった。
悔しいことに、彼女はミキトが好きだった。ミキトといえば、カンニングしたり居眠りしたりの常習犯だ。言ってしまえば不良とも言える存在。
「何故?」
思わず声を漏らすほど、それは不可解な選択だった。
ミキトを見る彼女の目は、他のものを見る目よりも輝いていて、それはきっと、俺がジュヒに向けている目と同じものだと思う。
冷静になって、彼女がミキトを好きな理由を考える。
ジュヒとミキトが隣の席だったから?
ミキトもジュヒも外部から入った生徒だからシンパシーを感じているのだろうか?
どうして俺じゃないんだろうか?
何でだ。
どうして。何故。どうして。
冷静になれなかった……。
ところで、この超能力学校で生まれた者や幼い頃からこの学校で育った者と、途中から入って来た生徒。超能力学校の生徒には、大きく分けてこの二種類の生徒が存在する。
前者を内部生と呼び、後者を外部生と呼ぶ。両者の間には、確かに確執があった。
さきほどの過去回想登場したジュヒが昇降口で追い払った不良達は内部生で、いじめられていた男子は外部生であった。やはり外から入ってくる方が少数派で立場も弱い。
現在の選抜学級で言うと、内部生は、ハサン、マリア、ソフィア、ユーナ、ラニ、俺、そしてリンの七人で、外部生が、ミキト、ジュヒ、ルネ、キリ、デヴ、ファファの六人だ。
選抜学級においては、そのような区別は特に意識されることもなかったし、俺も意識していなかった。リンとファファは仲良しだし、ハサンとミキトなんかも大親友だ。
話が少し脱線してしまった。戻そう。今は俺の好きなジュヒの話だ。
どうしてジュヒがミキトを好きかなんて考えても、俺はジュヒではないのだから、それを知る事はできない。もしも俺がジュヒに対して抱く感情と同じようなものを、ジュヒがミキトに対して抱いているのであれば……俺にとっては絶望に近い。
そう気付いた日から、ジュヒの日常を覗くのを完全にやめた。次第に彼女の中で大きくなっていくミキトを見たくはなかったのかもしれない。こわいものから目を逸らしてしまう自分の弱さが憎い。
しかし、それでも、俺のジュヒへの気持ちは変わることなく横たわり、むしろ膨らんでいってしまったのだった。
恋から逃げる事は、どうしてもできなくて、どうしようもなかった。
――そして今日、俺はジュヒに告白する。
「相談したいことがあるんだ」
「ええ、わかったわ。放課後、教室で」
そんな風に、簡単にジュヒを呼び出した俺は今、誰も居ない教室で、彼女を待っている。どんな風に打ち明けようかと考え始めたちょうどその時、がらり、と引き戸が開いて、ジュヒがやって来た。
「待たせちゃったかしら」
「いや、むしろ少し早すぎたくらいだ」
「え? 約束は放課後だから……早すぎるってことはないはずだけど…………ん? サヨン? どうしたの? 黙っちゃって。相談したいことって、何?」
俺は意を決して、伝える。
「俺……さ、ジュヒのこと、好きなんだ」
言った。直球で。まっすぐに、彼女の鋭い目を見つめて。
「え……?」
「ジュヒ、好きだ!」
言えた。
「……何……サヨン? 何言ってるのよ……」
予想外だったのだろう。普段は見せないような表情をするジュヒが、綺麗だと思った。
「他に好きな奴いるのか? いないなら、俺と付き合って欲しいんだ」
「ごめんなさい、サヨン……あたし、他に好きな人が、いるの……だから、ごめんなさい……」
そうだよな。やっぱり、そうだよな。
「そっか……じゃあ、仕方ないな」
笑顔を作ってそう言った俺は、ジュヒの左横を通り過ぎて、ジュヒが入ってきた戸を抜けて、走った。このまま寮に帰るんだ。泣いちゃダメなんだ。
俺はクールで、涙なんか流さない強い男なんだ。
ああ、でも、何か、涙出てるよ……。
――ごめんなさい。
走る俺の耳に、ジュヒの声が幻聴のように聴こえた気がした。悔しい。
ちくしょう、ちくしょう、ミキトの野郎……。
寮に帰ると、部屋にルームメイトのラニの姿は無かった。俺はすぐにベッドに飛び込むと、女々しくも布団をかぶってむせび泣いた。そして、そのまま眠ってしまったらしい。
俺はサヨン。失恋した。出席番号は、十一番目。