第11話 キリの長い一日 学校生活編
キリ視点
ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ、ピピ……ガチャ。
目覚まし時計を、目を閉じたまま静かに止めて、起き上がる。薄暗い部屋で目を開ける。
「ん……んぅ…………」
一つ大きく伸びをして、
「おはよう! ルネ!」
大きな声でそう言った。
私の名前はキリ。私の朝は、ほとんど朝には目覚めないルームメイトに大声で挨拶することから始まる。
さあ、今日もいつもの日常だ……といきたいところだけど、私自身の心境が日常とは違うものだった。カーテンを開けると、曇り空。今にも雨が降り出しそうだった。
「んみゅう……眩しいよぅ……」
珍しく朝早くに目を開けたルネがそう呟いて、また布団をかぶって眠りに落ちたようだ。
「はぁ……催眠能力か……」
溜息ばかりが出てしまう。
今、私はとても大きな悩みを抱えている。それというのも、昨日の授業中のことだ。
――私やキリのように催眠の力で力を増幅させるとか。
ワンダ先生はそう言った。ワンダ先生に催眠の力があるのは知っていたけど、まさか、私にもその能力があるなんて思ってもみなかった。
ところで、習慣というのは恐ろしいものだ。こんなに思い悩んでいるのに、私は顔を洗い、歯を磨き、朝食を摂り、また歯を磨いて、ルネを布団から引っ張り出して、ルネの顔を洗ってやり、ルネの歯を磨いてやり、ルネを着替えさせ、ルネの腕についつい鼻歌混じりで注射をした。ルネは、いつも眠っているので、食事ができない。栄養を摂取するための注射をするのは、ルームメイトである私の役目だ。
「催眠かぁ……」
昨日から、何回も虚空に向かって呟いてしまっている。
催眠能力というものを自分が持っているとして、どういう風に使えば良いのかわからない。昨日、ワンダ先生に呼び出された先でズバっと言われたのは、
「キリは、自分が何もできないっていう自己催眠をかけてしまっているから何もできないのよ」
という言葉。それは、ずっしりと私にのしかかった。
確かに、私は、自分が何もできない人間だと思っていた。それがまさか、催眠になって、足かせのようになってしまっていたなんて……。
私は今、私の能力と初めて向き合おうとしている。
「催眠ねぇ……ねぇ、ルネ、どう思う?」
返事が無い。眠っているようだ。
「ねぇ、ルネ、聞いてるぅ?」
ルネの頬をびよんびよんと引っ張って語りかける。返事が無いのはわかっている。だけど、これも私の習慣の一つだ。
「ルネったらぁ……はぁ……」
そして一人で溜息を吐いて、虚しくなるのだった。
と、その時――!
「あの、キリ……?」
「え!」
急に話しかけられて驚いて振り返る。
そこには、委員長のソフィアがいた。
「あ、あのね、ノックしたんだけど返事が無くて、声が聴こえたから勝手に入っちゃったんだけど、その……なんか、ごめんね」
私の手はルネの頬を引っ張ったまま、止まっていた。というか、私自体止まっていた。思考も動きも完全に停止。
見られた。すごく恥ずかしい場面を見られてしまった。ノックされていたことにも気付かなかったなんて、大失態だ。いつもこの時間にソフィアが来ることはいつもと同じで、しかも、その扉を開けることだって、容易に想像が付くことなのに……。
「ねぇ、キリ……。ほっぺ、放してあげたら? 痛そうよ?」
「え? あ、うん……あの、ソフィア……いつから見てた……の?」
私は、ルネの頬から手を放した。
「『ねぇ、ルネ、聞いてるぅ?』の辺りから……」
一部始終じゃん……。
「恥ずかしい……」
「別に気にすることないわよ。確かに引っ張りたくなるようなほっぺしてるしね、ほら」
ソフィアはそう言いながら笑って、ルネの頬を引っ張った。これで共犯、とでも言うように。
ルネは相変わらず全く起きない。
「さ、もう行きましょう。遅刻するわよ」
「うん」
扉が開いて閉じた。
寮の玄関を出て、ソフィアと私とルネの三人で登校する。ルネを先頭にして、その後にソフィアと私が並んで歩く。
当然ルネが自分で歩けるはずがないから、ソフィアと私が念動力で歩かせている。はじめは何度もルネを転ばせてしまって、登下校の時には、ルネがボロ雑巾のようになっていたのだが、今では一度も転ぶことなく彼女を学校まで運ぶことができるようになった。
眠り続けることで運動不足になってはいけないから、筋肉に負荷をかけることも忘れない。
それにしても、ルネは何でこんなにも眠り続けているんだろう。その理由を私は知らないし、学級委員長であるソフィアですら知らない。しかも、以前は一日の三分の一は起きていたルネも、今ではたったの三時間しか起きていられなくなってしまった。
ルネはいいよな。眠ってばかりだから、能力のことで悩むことなんかないだろうし。
「ねぇソフィア……」
私はソフィアに悩みを相談してみることにした。
「あのさ、私は、どうすればいいのかな?」
「どうって?」
「催眠能力なんて、欲しくなかった」
「どうして? 『P計画』には必要な能力よ」
「私は、P計画なんてどうでもいい……。普通に生きて死ぬことができれば……いいのに」
「キリ……」
「私は、特殊な力なんていらなかった。超能力の才能だっていらなかった! だけど、超能力のおかげで、ルネ達、選抜学級の皆に会えたっていうのもあって、それに今さら超能力を憎んでも仕方ないのは、わかるし……でも、他人を操るような力を私が持っているなんて、そんな力、一番憎みたいのに……」
「キリ、あのね――」
「わかってる! 人を操るだけが催眠能力の使い方じゃないことくらいわかるよ……だけど――」
どしゃ。
「あ……」
私が心を乱してしまったせいで、ルネが転倒した。失態だ。
「ルネ!」
「ルネ、大丈夫?」
返事が無い、気持ち良さそうに眠っている。
私とソフィアは、安堵の溜息。
「ごめんなさい」
私がそう言うと、ソフィアは、
「いいえ、私のせいよ。ごめんなさい」
そう言った。ソフィアのせいであるはずがなかった。
その後は無言で、いつものように三人で教室に入った。
☆
私は、悩み続けていた。朝からの授業が頭に入らず、何度も先生に怒られた。
昼休みになった。
気分を落ち着かせるためにも、私は毎日のように通っている大好きな図書館に行く必要があった。
図書館だけとても古い建物で、今の時代では貴重な木造建築だった。
昔っぽい匂いが、私は好きだ。もちろん、匂いよりも貴重な本が多いからこそ通っているのだけど……。
図書館は、図書室という呼ばれ方をすることもあるけれど、校舎とは別の建物なので、私は図書館と呼んでいる。図書館に入るには、校舎二階から伸びる木造の狭い通路を通り抜けるか、一度校舎の外に出て、図書館の玄関から入るしか方法が無い。しかし、図書館の玄関の鍵は閉め切られていることが多いので、事実上、入口は狭くてボロボロの木造通路だけだ。
実は、超能力学校内の、どの場所よりも警備が厳重なのが、この図書館。『P計画』の極秘資料とかがあるからだと思う。図書館に限らず、そういった機密情報とも言えるものが置いてある場所は、常にハウエル先生の監視下にあって、不思議なことに超能力による透視もできない仕組みになっているらしい。
歩き慣れた図書館に続く通路を歩く。ぎしぎしと木が鳴いた。いつか体重の重い人が通ったら、穴が開いたり、崩落したりしそうだ。あ……体重の重い人っていうのは、別にデヴのことを言っているわけではないからね。
図書館の中に入ると、いつもの薄暗い空間が迎えてくれた。
何の本を読もうかと思ってうろついている間に、昼休みが半分終わってしまった。悩んでいる時というのは、読みたい本すら決まらないらしい。
私がようやく一冊目の薄い本を本棚から取り出した時、
「あ、や、やぁ、キリ、偶然だなぁ」
私を呼ぶ声が聴こえた。
「え?」
誰かと思って振り返ると、ミキトくんがいた。
「ミキトくん? ……ミキトくんも本読んだりするんだ」
意外だと思った。彼が本を読んでいる場面なんて、見たことがない。
「ま、まぁな」
今日も、どこかおどおどした様子だった。
「どんな本が好きなの?」
「ええと……どんな本……か……。キリは、いつもどんな本を読むの?」
質問をしているのは私なんだけど。
まぁ、ミキトくんの本の趣味に興味があるわけでもないから別にいいけど。
「うーん……何でも読むけど、神話の本とか、恋愛小説とか」
「れ……恋愛? 恋愛か……」
何故「恋愛」という言葉に過剰に反応したんだろう。そんなにおかしいだろうか。
私だってミキトくんと同じ十七歳、年頃の娘だ。恋愛に興味を持っても何もおかしくはないじゃないか。
「意外かな?」
「いや! そんなことはないよ! 恋愛、恋愛は、いいよね」
「うん」
「キリは、好きな人いるの」
「好きな人? いないなぁ」
確かに私は年頃で、恋愛小説を多く読んではいるけど、実際の恋愛とは縁遠い。私なんかが、誰かに恋をされるような女なはずがない。私のことを好きだと言ってくれる人なんて、いない。いるわけない。
「そ、そうなんだ……」
そんなことを聞いて、どうしようというのだろう。
「あ、あの、さ、キリ」
「何?」
いつも以上におどおどした様子で、ミキトくんは視線をグラグラさせる。
「あの……えっと、その……キリ」
「だから何?」
「好き……」
「え?」
「好きな人いるの?」
「だから、いないってば」
「ああ、いや、違う、違うんだ、何言ってんだ……俺……。落ち着け、俺」
深呼吸していた。一体何に緊張しているんだろう。明らかに不審だ。
「どうしたの? ミキトくん、今日は、なんかいつも以上に変だよ」
「え……俺って、いつもそんなに変かな……?」
「うん」
正直、いつもおどおどして落ち着かないし、優秀な人が揃う選抜学級にあって、私が自分の方が優位だと思える数少ない人間だ。
「そ、そうか……」
ショックを受けている様子だった。ちょっと言い過ぎたかな。「変だ」なんて言われたらやっぱりショックだよね。もしも私がそんな風に言われたら、やっぱりショックだと思う。
「あ、ごめん。変だなんて言っちゃって。思ってても言わない方がよかったかな」
「あ、いや、まぁ……」
歯切れ悪かった。ふと壁にかけられた時計に目をやる。
「あ、ミキトくん。もう昼休み終わるよ? 早く戻らないと遅刻しちゃう」
「え? あ、ああ、そうだな」
「行こう」
私は、持っていた何気なく手に取った恋愛小説をスカートのポケットにしまった。狭い通路を小走りで抜けて、ミキトくんと一緒に図書館を出た。
そこから校舎二階にある美術室に向かう。次は美術の授業だからだ。
結局、美術室に着くまで、ミキトくんは一言も言葉を発する事はなかった。私も、ミキトくんのことはどうでもよくて、まだ私の中で眠っている催眠能力というものについて考えていた。どうすれば催眠能力を失うことができるのか、と。そんなことは無理だと知っていながら……。
美術室に入ると、既に皆がいて、自分の絵に筆を入れていた。
美術の授業は、本来、実際に絵を描いたりせず、ひたすら絵画を鑑賞するだけのはずだったのだが、ルネの今にも動き出しそうな絵を見てしまったワンダ先生が独断で授業方針を変更してしまった。ワンダ先生の先祖に有名な彫刻家がいるらしく、芸術家としての血が騒いだのだという。
「――何でもいいから、好きな絵を描きなさい!」
ワンダ先生はそう言って、真っ白な紙を私達十三人に配った。それ以来、美術の授業はただ自分の描きたい絵を描くだけのものとなった。それはそれでとても楽しくはあるのだけど、何でも自由に描いていいとなると、迷ってしまう。やっぱりテーマを決めてもらった方が私にとっては楽なのだ。
「リン、何を描いてるの?」
デヴがリンに話しかける声が聴こえてきた。
リンは普段の生活と同じように快活に色鉛筆を動かし続けている。
「これ? これはね、猫岩」
「猫岩……ああ。通学路の途中にある猫の形をしてる岩ね」
「うん」
「リンは、本物の猫、見たことある?」
「それが……無いんだ……」
「可愛いわよ。信じられないくらい可愛いわよ」
超能力学校では動物禁止だから、リンは知識でしか動物を知らない。少し可哀想に思えたが、超能力学校で生まれたリンにとってはそれが当り前のことなのかもしれない。
「デヴ姉ちゃんの絵は?」
「私の? 私のはこれよ……私の生まれ故郷の絵なんだけど……」
デヴの絵は、白かった。昔、図書館の図鑑で見たことがある雪とか氷河とか、そういったものだ。きっと雪が降っている時の絵。超能力学校のあるこの島では、雪なんて降らないので、私は雪を見たことが無い。
「リンは、雪って見たことある?」
「ううん」
首を振った。
「でも、なんかあったかそうだね。白くて、ふわふわふかふかで」
「実はね、雪って冷たいのよ」
「え? そうなの?」
そうなんだ……私もてっきり温かいものだとばかり思っていたのに……。何となく現実とイメージが違うと、がっかりしてしまう。
リンとデヴが話している場所の、そのすぐ横にはルネがいた。ルネは、何の音も聴こえないかのような集中世界に飛び立って、筆を動かし続けている。
彼女は、美術の授業でだけは寝ることが無い。絵の具の匂いで起きるのかと思って試してみたことがあるのだけど、そういうわけでもないらしい。
とにかく、美術室という空間に居る時のルネは、普段からは考えられない真剣さで、時折何かを呟きながら、高速で筆を動かす。話し掛けても反応はしないし、以前ジュヒが、絵を描くルネに偶然触れてしまったところ、線が乱れたのに怒ったのか、赤い絵の具のついた筆でジュヒの顔に十文字を描いたという事件もあった。
私の絵も含めて、真面目に絵を描いている全ての人の絵は、もう完成寸前だった。
真面目に描いていない人というのは、ハサンとリンのことだ。二人は、もう何枚も絵を描いていたのだが、それは作品と呼べるものではなかった。
リンは未だ幼いから仕方ないかもしれないけど、ハサンは、もう十九歳にもなるんだから……。まぁ彼のそんな自由なところに憧れている私もいる。
それぞれの絵には、皆の特徴が表れているように思う。
ハサンは落書き、リンはお絵かきなので、よくわからないけど、
ルネは、美しく鮮やかで、今にも動き出しそうな写実的な絵を描くし、
寒い国出身のデヴは故郷の銀世界を描いている。
何となくはっきりしない未来を見ることができるミキトくんは未来を描いた抽象画。
ロリコンのラニは、きっとナルシシストなのかな、妙に綺麗な自画像を描いた。
ユーナは、何となく孤独を感じるような青く冷たくて悲しい絵を描いて、
千里眼のサヨンは宇宙の絵を描いた。
委員長のソフィアは教室の絵。
上手い上手くないは関係なく、性格のようなものが滲み出しているようにも感じられる。
ならば暗い絵を明るい色で誤魔化したような絵を描いたファファや、
夢の世界のような天国の絵を描いたジュヒ。
氷の背景に、何となくあたたかい人物画を描いたマリアは、どうなのだろうか。
絵の通りの人間なのだろうか……。
魔女でも暮らしていそうな薄暗い図書館の絵を描いた私は、確かに薄暗い女だけど……。
「はぁ……」
筆を置いて溜息を吐いた私。その私の肩に、何か温かいものが触れた。ワンダ先生の手だった。
「キリ、これで完成?」
「完成? いえ、まだ……少し休憩です……」
完成と言ってしまっても良かったけど、その絵には何かが足りないように思えた。ただの薄暗い図書館。いつも通っている場所の空気を上手に再現できているとは思うけど……。
「うーん……キリの絵もソフィアの絵と同じように、何かが足りないのよね」
「ソフィアの絵と、同じ……?」
「うん……はっきり言うとね、背景なの」
「え? でも、私のはともかく、ソフィアの絵には、人が描かれて……」
「……今度ソフィアの絵をよく見てみるといいわ。一人も、表情がある人がいないから。ルネの絵のように物語があるわけでもないし」
「表情……?」
「そういう絵が好きという人も当然いるんだろうけど、私が好きじゃないからねぇ」
何だ、ワンダ先生の好みだけの問題なのか。
「そう、ですか……」
「ねぇ、キリ。この後、私と特別授業しない?」
「この後? 放課後ですか? 特別授業?」
「そう。特別授業。催眠についての個人授業なんだけど……受けてくれるかな?」
本音を言えば、どうしようかな、と迷った。でも、もう逃げられないと思った。自分の能力と向き合わなくては、私はこれ以上先に進めない。だから私は長い長い沈黙の後、「はい」と答えた。