第10話 氷の女マリア
マリア視点
私は、冷たい人間だ。
放課後の静かな校舎。階段の踊り場にある大きな窓から見上げた空は、冷たそうな色をしていた。この真っ青な空のように、私は冷たい人間なんだ。
ふと、その空を走る二人分の人影が見えた。超能力学校にだって、自由自在に空を飛ぶ事の出来る人間なんて、一人しかいない。幼馴染のハサンが、リンを連れて空中飛行しているのだ。私は、その光景を見ながら、遠い昔の出来事を思い出していた。
★
「ねえ、ハサン。私を連れて空飛んでよ」
「ああ、いいぜ。マリアならどこにだって連れて行ってやるよ」
子供の頃、ハサンが空を飛べるようになってから、私は彼に頼んで、自分を連れて空を飛んでくれるように頼んだんだ。当時のハサンの飛行はまだ完全なものではなく、地面から空に向かって舞い上がるというようなことはできなかった。高所から降りる時に、ゆっくりと降下することができるという程度で、その日もいつものように三十メートルほどの高さの樹から緩やかに飛び降りる予定だった。ただ、いつもと違うのは、その日は私が居たことくらいだ。
「じゃあ、いくぞ、マリア。しっかり掴まってろよ」
「うん!」
私は、ハサンの背中に乗っかり、彼の腰の辺りに足を挟み込むように引っ掛けた。ハサンの肩の上から前に伸ばした両手をハサンがしっかり掴んで、おんぶスタイルで地上に降りようとしたのだ。
ハサンが躊躇なく飛び降りる。
旋回しながらゆっくりと地上に降りようという話だったのだが、
「うわぁ」
ハサンの声とともにグラリと世界が揺れた。
一瞬逆さまになって、すぐに元に戻った。
腕が痛い。何が起きたのかわからなかった。
人間が生身で飛行するには、とても繊細な念動力のコントロールが必要となる。高度な技術すぎて、ワンダ先生やバルザック先生にも、ハウエル先生にさえできないことなのだ。
それまでのハサンは、自分自身の体しか操ったことがなかったから、私という人間を背中に乗せる事自体が計算外だったということだろう。
私は、空中でバンザイをする形になり、ハサンは、逆さ吊りの形になった。二人を繋ぐのは、ハサンが握り締めている私の両腕だけ。
「ちょ……ハサン! 冗談やめて!」
地上までには、まだ二十メートル以上高さがあった。落ちたら大怪我をする高さ。それでもその時は、まだ緩やかな落下だったのだが…………。
「キャア! やだ! やだぁ!」
幼かった私が恐怖から、足をばたつかせて暴れてしまって、完全にバランスが崩れた。
「マ、マリア……」
「やだ! やだ! 助けてぇ!」
そして、重みに耐え切れなくなったハサンと私は、湿った地面を目がけて自由落下してゆく。
「うぁあああああ!」
体が浮き上がる感じがした。髪の毛が逆立っている感覚があった。スカートを穿いていたので、下着が見えてしまって恥ずかしいとか、場違いなことを考えた。腕にちぎれるような痛みを感じたと思ったら、骨の音がした。
そして何かが土にぶつかる音がしたと思った次の瞬間、視界いっぱいに広がったのは、真っ青な空だった。
私が落ちたのは土よりもやわらかい場所、ハサンのお腹の上だった。おんぶされていたはずの私は、ハサンに抱っこされるような形になっていた。
「いてててて……ごめん、マリア……」
耳元でハサンの掠れた声がする。苦しそう。私もハサンも生きていた。
「はぁ……」
私は安堵の溜息を吐いたのだが、その瞬間、両腕に激痛が走った。
「……いっ! 痛い! 痛いよぉ! うわぁああん」
思わず、大声を出して泣いてしまった。我慢できない痛みだった。
「マリア? マリア? どうしたの? どこが痛いの?」
私を庇って背中から落ちたハサンは、無傷の様子だったのだが、私の腕がひどいことになっていた。涙で潤んだ視界に映った自分の両腕を見て、ぎょっとした。ぐにゃっとなっていた。だらりとなっていた。ありえない方向に曲がっていた。
「うわぁああああん」
それでまた泣いた。
「マリア、腕が……腕が……」
痛かった。泣き叫ぶことしかできない。
「待ってて、今、今すぐに先生を呼んでくるから」
そう言って、ハサンは走って行ってしまった。
「あ……」
正しい判断だったと思う。先生を呼びに行くのは正しい。だけど、私は一人残されてしまって、とてもとても寂しかった。私を連れて一緒に先生の所へ行くという選択肢もあったはずだけど、どちらも正しい判断だ。
「うあああああん」
自分の泣き声だけが、妙に大きく響き渡って、更に不安になったのを憶えている。
結局、校長先生である私のお父さんを連れてきたハサン。
お父さんは私に駆け寄って、私と同じ視線になるようにしゃがみ込み、いくつか言葉をかけてきた。その言葉は自分の泣き声でかき消されたかのようで、何も聴こえなかった。いや、正確に言えば、聴こえてはいたのだが腕が痛くてちっとも頭に入らなかったんだ。
何が何だかよくわからなくて、とにかく痛みで泣き叫ぶ中、うん、うん、と頷いたところ、お父さんの平手がハサンを殴った。
びっくりして、私は泣きやんだ。
後になって聞いた話では、あの時お父さんは、
「ハサンにやられたのか? ハサンにやられたんだな? そうなんだな?」
というようなことを何度も訊いていたらしい。ハサンには悪い事をしたな、と思う。私が頼んで空を飛んでもらって、私が暴れたから落ちてしまって、私が怪我したのは自業自得なのに……。
更に後になってわかったことがもう一つある。実は、あの時、ハサンも胸の辺りの骨を折っていたらしいのだ。それでも、痛いなんて一言も言わないどころか、お父さんに顔が腫れるまで殴られたのだ。「ハサンにやられた」と言ったと同じような私の頷きを見て、ハサンがどう思ったのか、その時の私には想像することもできなかった。今だって、想像できない。したくない。
その後、家に帰った私は、もうハサンは私と遊んでくれないんだろうな、と何となく思ってしまっていたのだが、私とハサンの怪我が完治しないうちに、ハサンは何度も遊びに来た。
病院のような所を抜け出して私の家に来るハサンは、その度お父さんに怒鳴られ追い払われた。
「マリア、もうハサンとは遊ぶんじゃないぞ」
お父さんは真剣な顔でそう言った。私はその時初めて、お父さんに逆らったんだ。
「ううん。ハサンと遊ぶ。遊びたい。友達だもん」
正直、わけがわからなかったと思う。自分を怪我させた人間を友達だと言って、遊びたいと言ったのだ。親の目線から見れば、ハサンに脅されているのかも、とでも思ったかもしれない。
腕が治るまでは、外に出ることは禁じられた。外に出られないのは面白くなかった。だから、言いつけを破って、今度は私から家を抜け出して、ハサンに会いに病院に行った。
着いた先には、既にお父さんが待ち構えていて、今度は私が叩かれた。ハサンの目の前で叩かれた。叩かれたというのに、私は、ハサンに対する負い目のようなものがなくなったような気がして、とても嬉しかったのを憶えている。
もちろん痛くて、涙が出そうになったけど……。
★
「――マリア姉さま」
そんな声が、私を現在に引き戻した。きれいな声だった。
「え?」
振り返ると、デヴがいた。
「姉さま、何を見てたの?」
そう言うとデヴは、今まで私が見ていた窓の外を見つめた。
そこにハサンとリンは、もういなかった。随分長い時間回想していたらしい。
「何も無いけど……」
そう言ったデヴに、私は言うのだ。
「いいえ、空があるわよ」
そして私は廊下を歩き、図書室へと向かう。デヴが私の後ろを付いて来ていたので、
「悪いけど、一人になりたいの。付いて来ないで」
「はい、マリア姉さま!」
「……また、明日ね」
私は、普段は言わないようなことを言った。
「…………はい!」
感激したようなデヴの声が響いた。
今日の私は少しおかしい。昔のことを思い出してノスタルジーにでも浸っているのだろうか。ついデヴに優しくしてしまった。普段はもっと冷たくするんだけど。
廊下を歩き、図書室へと急ぐ。超能力学校の副校長であるハウエル先生と会う約束の時間は、もう過ぎてしまっていた。
私はマリア。氷の女。私は冷たい人間だ。出席番号は、六番目。