7、流れに身を任す生き方
「アエラス様」
「何?」
「結局のところ、どうしてあの子、ルースを拾ってきたのですか」
屋敷が寝静まった夜。アエラスの執務室は未だに電気がついていた。アエラスは、ルースの先生となってくれる人をリストアップしているところで、ニクスの言葉で一瞬だけそちらを見やり、すぐに書類に目を戻した。
「どうしてか? うーん……。あの目が気に入ったからかな」
「目、ですか」
「うん。あの翡翠のような瞳。そしてその中に宿る強い意志。自分は、こんなところで終わらないって言わんばかりの瞳に目を奪われたんだ」
ルースの瞳の持つ輝きは、あまりにも強烈だった。その瞳を見た瞬間、アエラスは確信をした。この子は化けると。それで思わず手を伸ばしていた。アエラスの言葉ではまだ足りなかったのだろう。ニクスが訝しげな表情を浮かべている。
「それだけですか?」
「うーん、あとは死ぬ前に誰かを助ける経験をしてみたかったのかもしれない。エリーが私を救ってくれたように、誰かに手を差し伸べたかったのかも」
エリーの名をだした途端、ニクスは納得したように頷いた。ニクスは、アエラスがエリーに抱く感情全部ではなくても多くを知っているからだろう。
「それでは、ルースに言わなかったのは?」
「結局のところ、ルースを拾ったのは私の気まぐれで自己満足だ。それをいつかは伝えるとしても、十歳の子に伝えるにはまだ酷すぎる」
アエラスの言葉に、ニクスは納得していなさそうな顔をしている。
「ルースは聡明で大人びていると思うので、その懸念はいらない気がしますが」
「そうかもしれない。でも、大人びているからって正直に伝えればいいわけじゃないと思う。大人扱いをすると、『大人にならなくちゃ』って思ってしまうでしょう? 子ども扱いをするって大事だと思うんだ。あの子が今までどんな生活を送ってきたか分からないけれど、無理に大人になろうとしてほしくないから」
アエラスの言葉にニクスは瞠目した。そして囁くような声を出した。
「あの子に、ご自分がほしかったものを与えようとしているのですか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
アエラスが曖昧に返事をするとニクスは黙り込んでしまった。思った以上に部屋の空気が重くなってしまったため、雰囲気を変えるようにアエラスは冗談めかして声を出す。
「それに、幻滅されるのは、もうちょっと大きくなってからがいいかな。こんな適当な人間を見せるのは教育上よくないでしょう?」
そこまで言ったアエラスは、自分の脳裏にとある言葉がよぎった。思わず顔を覆う。その口元に笑みが浮かんでしまっていることに、ニクスは気がついているだろうか。
「どうしたのですか、アエラス様」
「今年が、十二年目だよね。エリーがこの国を出てから」
「ええ、そうですね」
「彼女の予言は、このことを伝えていたのかもしれない」
「予言ですか……?」
アエラスは微笑を浮かべながら、ニクスの方に視線を向けた。しかし、ニクスのことはアエラスの目にはあまり映っていない。アエラスの脳裏に浮かんでいるのは愛する彼女の落ち着いた笑みだった。
「『十二年後の今日、あなたはある人物と出会う。その人物との出会いは、あなたを大きく変えるでしょう』って。彼女がこの国から去るときに」
ニクスがアエラスの言葉に息を呑んだ。そして、絞り出すように声を出す。
「それは、おそらく今日のことでしょうね。エリー様がおっしゃる『ある人物』は、ルースのことでしょうか」
「彼女が何を見ていたかは分からない。それでも、日付を考えるとその可能性が高いね」
エリーは予言をすることがあった。それは、当たることも外れることもあった。彼女がいうところによると、予言により人が行動を変化させれば、予言が当たらないことがあるという。
「エリーは言っていた。この予言は、外さないと」
この世には、変えられないものもある。良いことも、悪いことも。エリーの言葉を思い出した。アエラスは寂しげな瞳で窓の外を見上げる。
「彼女は、何を知っていたんだろうか。何を考えていたんだろうか。私には全く分からない」
「エリー様は、不思議な方でしたね」
エリーがアエラスに残したものは多い。彼の胸を巣くう鈍い痛みであり、今も忘れられない、予言する発言のときに浮かべる憂いを帯びた笑みである。
逆に、エリーが持っていったものも多い。アエラスの心を奪い、脳の記憶に容量があるとするなら、それの大半はエリーに使われている。そして、アエラスは魔法の分野で『天才』と呼ばれていた。呼ばれなくなった理由はいくつもあるが、その一部にはエリーが関わっている。勿論、アエラスはエリーに非は少しもないと思っているが。
アエラスは何も後悔していない。エリーを好きになったことも、『天才』ではなくなったことも。そもそもアエラスは何も望んだことはなかった。知識も、周囲からの賞賛も。何も要らなかった。ほしかったのは。手に入れたかったのはエリーだけだったというのに。
「エリーにもう会えないなんて、信じられないよ」
「アエラス様……」
アエラスが驚くほど、自分の口から出た言葉は悲痛にまみれていた。
アエラスは思考の波にのまれる。
エリーはすでに亡くなっている。それなのに、アエラスが生きながらえていたのは、なぜなのだろうか。
「もしかしたら、エリーの予言を嘘にしないためだったのかもしれない」
アエラスはエリーの予言を覚えていた。未来への予言。それを無意識のうちに守るため、アエラスは死のうとも思わなかったのかもしれない。今も変わらずに生きている。
「それでも、ここからはどうなるか分からないな」
エリーは、ルースとの出会いがアエラスを変える、ということを示唆していたのだとして。それでも、アエラスは無理に変わる気なんて、全くないのだ。ある意味で、ルースを拾ったという行動自体がアエラスらしくなかったのだから、エリーの予言は事実になったとアエラスはみなす。
そして、アエラスは人が変わろうとすると、相当な神経を使うことを知っている。エリーに失恋した日から無理矢理、自身の人格を塗り替えるように、自分の存在をなくすように変わったアエラスだから分かる。変わるのは、苦痛を伴う。
だからこそ、エリーの予言の延長だとしても、これ以上能動的には動かない。
「死なないでくださいね、アエラス様」
ニクスの言葉で、アエラスは自分の思考から戻る。自分はどんな表情をしていたのだろうか。ニクスを前にしていることも忘れて独りごちたアエラスに、ニクスはどんな感情を持ったのだろうか。自身の側近に対し、笑みを向けた。
「死なないよ。私は流れに身を任せて、なるようになるだけだ」
アエラスは、そういう生き方をしてきた。ほとんどの物に執着を見せず、与えられたもの、目の前の道を淡々と歩んできた。彼が例外的な判断をしたのは、エリーに関することがほとんどである。だからこそ、急にルースを拾ってきたのも、「アエラスらしくない」と言えるのだ。