4、変わらない
スペス国の国王であるフィニス・テンペスタスは自身の執務室で仕事をしていた。そのとき、ドアが叩かれる音がした。誰とも約束はなかったはずだ。訝しげに思いながらも、警備が止めなかったということは問題がない人物なのだろう。フィニスは入室の許可をした。
返事の後にすぐに扉が開かれた。アエラスの姿を認めて、フィニスは目を見張る。アエラスはすでに帰ったはずだった。
「失礼します、陛下。今すぐ受理してほしい書類があるのですが」
「アエラス、急にどうした。そんなに急ぎのものなんてあったか?」
「はい」
頷いたアエラスは、に躊躇なく書類を突きつけてくる。そこには「養子縁組届」と書かれている。
「は? え? どうした、アエラス」
フィニスの戸惑いや驚きをアエラスは気がついているはずだ。それなのにアエラスは口元に笑みを浮かべながらフィニスへ書類を押しつけてくる。
「見ての通りです。ルースという少年を私の養子にします。よろしくお願いします」
「あ、ああ」
勢いに押しきられてフィニスは書類を手に取った。書類に不備がないか確認をする。
アエラスはフィニスの二つ年下だ。幼なじみのような関係であったアエラスがこのように強引に動くのは、数えるほどしか見たことがない。
「まあ、承認しない理由もないし構わないが。後悔はしないな?」
「はい。それに、これは『養子』の手続きです。『後継者』の手続きではありませんので。まあ、そちらの手続きもする可能性は高いですが」
王の印鑑をもらった書類を手にし、すぐにアエラスは帰ろうとする。思わずフィニスはアエラスを引き留めた。
「待て、アエラス。お前は、今も結婚する気はないのか?」
その言葉を口にしてすぐ、フィニスは自身の失敗を悟った。アエラスの表情からは、怖いくらいに感情が消えた。彼の周囲からは風が巻き起こり、部屋の中を荒らす。アエラスは怒りや絶望がこもった金の瞳をフィニスへと向けた。アエラスは絞り出すように声を発した。
「俺がなぜ結婚をしないか、お前が一番知っているだろう? 俺が彼女以外の人間と結婚することはない。……お前には、お前だけにはそんなことを言われたくなかった」
「……悪い、失言だった」
フィニスの焦った表情を見た、アエラスがため息をついた。彼は自身のスカイブルーの髪をくしゃりとかき混ぜる。
次にアエラスがフィニスに向き直った時には、彼の悲しみと怒りが混ざった表情は消え去っていた。彼の表情には、穏やかな笑みが浮かべられている。
「申し訳ありません、陛下。取り乱しました。もし部屋の補修が必要でしたら、後で請求ください。それでは、書類の受理、ありがとうございます」
自身の言いたいことだけを言ったアエラスは、足早に部屋を出て行った。それを見送ったフィニスは、ため息をついた。一人になった部屋でポツリと言葉をこぼす。
「あいつは、変わらないな」
変わらない。アエラスはずっとそうだ。好きだった彼女にずっと囚われている。彼女、エリーはアエラスを選ばなかったというのに。
フィニスは、アエラスが無意識のうちに放った風魔法によって荒らされた部屋を見ながら苦笑した。
「それにしても……。流石、かつて『天才』と呼ばれた男だ。あいつが魔法の道へと進んでいたら、この座はあいつのものだったのに」
アエラス・クレアティオ。魔法の天才と呼ばれていた。王に近いと言われていたが、アエラスはこの座を欲しがらなかった。彼が欲しかったのは、本当に彼女だけだったのだ。
「彼女のために、あいつは『天才』の称号さえ捨てたというのに」
アエラス・クレアティオが『天才』というのは、過去の話へと成り下がった理由は一つではない。それでも、フィニスに責任の一端がある。フィニスは橙色の髪をかき上げた。自分がしっかりしていれば、アエラスは「天才」のままだったかもしれない。
世間的なアエラスの評価は「今でも優秀なのは間違いない。それでも、優秀なだけ」というものだ。
そんなアエラスが、いきなり養子をとるといい、フィニスの部屋に押しかけてくるほど、急いで話を進めた。それは、彼女と魔法以外の何にも興味がなさそうにしていたアエラスの行動にしては極めて珍しい。
「養子の少年が、アエラスの何かを変えるだろうか」