092 アラスカ獣人自治区
温暖化の影が及ばない時代であっても、アラスカの夏は時に気温が三十度を超える猛暑に見舞われる。
その大地を悠々と流れるユーコン川は、カナダから続く大河であり、その全長は三千八百十八キロメートルにも及び、日本列島を縦断する長さに匹敵する。
ユーコン川の畔に位置するカナダのドーソンシティは、本来ならば避暑地として、また自然を満喫できるアクティビティの拠点として賑わうはずであった。
しかし、今年は様相が異なっていた。
近郊に新たに野外フェス会場が設営されたことで、町はかつてない活況を呈していたのだ。
街の歴史上、類を見ないほどの人々が行き交う喧騒の中、突如として腹の底に響くような銃声が鳴り響いた。
RCMPのブランは眉をひそめる。
「近いな……いったい何をしでかしているんだ、あの馬鹿は」
最近取り付けた日本製のエアコンで、部屋の中は快適。当然窓は閉め切っているのだが、外から聞こえてきたのは、特徴のあるレミントンM1100の発射音。相棒が持つ散弾銃のものだ。
観光客が多いというのに、さすがに街中でぶっ放すとは困ったものだ。最近目撃されるようになった、燃えるネズミが出たのかもしれない。小さい上にすばしっこい厄介なやつだ。
そんな思いを胸に、ブランは重い腰を上げた。
人口二千足らずの観光地には、警察署などない。交番のような小さな建物で事足りるのだ。それだけドーソンシティーの治安がいいという証左でもある。
「ロベール、今の銃声は何だ?」
ブランはレミントンをぶっ放した相棒に、無線で問いかける。
『例の火ネズミだよ。追いかけてるんだが、かなりの数だ。レミントンくらいじゃ追い付かねえから、殺鼠剤を持ってきてくれないか? ……お? 妙な人間が大勢いる。うお、臭えな。獣? 狼人間? コスプレにしちゃ、リアルすぎるな。ハロウィンまで三ヶ月も先だぞ?』
「コスプレ? 面倒そうな連中だなそいつら。どこから来たのか聞いたか?」
『いや、どこの言葉か分からねえし、武装しているせいで近づけねえ。衣服はここより田舎から出てきた田舎者って感じだな。うっおおっ!? ――ちょっと待てっ! 緊急事態。精肉店が襲われた! ああ、なんて事だ……ジャックが殺されちまった』
「お、おい、応援を呼ぶか?」
『待てっ! こっちに来るな! ごがああああああああ!!!! ぎゃあああああ!!』
無線機から、獣の唸り声と共にロベールの断末魔が聞こえてきた。ブランは震える手で通信機のチャンネルを切り替え、周囲のRCMPに応援を要請する。
ただ、ここはほとんど事件が起こらない平和な地域で、警察組織はかなり距離を置いて点在している。しかも警察署という形ではなく、日本で言う交番のような小さな建物である。
手の震えを抑えつけて、応援を呼び続けるブラン。
応答は……ない。無線機の出力を上げ、チャンネルを変えつつ、片っ端から救援要請を打診していく。おかげでいくつかのRCMPから返信があった。しかし、距離があるため、到着まで二時間近くかかるという。
「参ったな……。ここで生まれ育って四十五年。こんな訳の分からない事件が起きるとは思ってもみなかった……」
窓の外を見ると、犬や狐の獣人が走り回っていた。コスプレなんかではない、本物の獣人たちだ。体格は人と同じで服装もちゃんとしているが、耳の位置が頭上にあったり、しっぽが生えていたりする。
その手には鉈のような刃物や、戦斧、弓、槍、そんな武器を持ち、町の人々を襲っている。コスプレで遊びに来た若者では決してない。
『こちらアラスカ米軍基地。ウォルター・ビショップ准将だ。そちらで何が起こっている?』
突如聞こえてきた通信にかぶりつくブラン。彼は震える声で、町が襲撃され、住人が虐殺されていると報告する。
それを聞いたウォルターは、援軍を送ると言って通信を切った。
「仕事柄、町の人を守らなきゃいけないんだが、数が多すぎる。俺一人の手に負える相手じゃねえ……、申し訳ないが、生き残ることを優先させてもらうぜ?」
ガンロッカーを開けて、レミントンM1100と散弾を鷲掴みにしてポケットに入れていくブラン。
そして彼が外に出る事はなかった。
ここは一応RCMPの建物であり、一般家庭のように薄い壁ではないのだ。どうやら援軍が到着するまで、ブランは立てこもりを選択したようだ。ワニ顔の獣人に殺害され、喰われていく町の人々を見捨てて。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
野外フェス会場は、ドーソンシティーから少し離れた場所に建設された。そこに集まった三万人の観衆は一般人ではなく、全て実在する死神の構成員。
地面には大きな魔法陣が描かれ、たくさんの生け贄が捧げられていた。
その魔法陣の上にゲートが開き、獣人自治区から獣人たちがどんどん出てきている。
老若男女の獣人たち。その数はすでに百万人を超えようとしている。
そして、ドーソンシティーは獣人によって占拠された。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
日が沈まない白夜の中、カナダのドーソンシティーを闊歩するエリス・バークワースとリリス・アップルビー。リリスは青い瞳に腰まである金色の髪の毛、身長は百八十センチ、体重五十五キロと、枯れ枝のように細い体躯だが、男女関係なく振り返る美貌を持っていた。
「アラスカも暑くなったわねぇ……。エリスは地球に来るの初めてで、分からないわよね。ほんとはここ、もっと涼しくて過ごしやすいのよ?」
リリスの正体は、神と神の間に生まれた子と言われている。リリス曰く、淵源の吸血鬼だそうだ。太陽の光も、白木の杭も、冷たい流水も、弱点と言われるものは何も効かない。彼女は不老不死として、悠久の時を生きている。人ではない、人に似た生命体である。
彼女は実在する死神の一員でもある。
「ベナマオ大森林ほど暑くないわ。この辺りなら、獣人のみんなが暮らしていけるだけの土地がありそう。ビッグフットが居住地区を作っているのよね? そこが無きゃ仲間の獣人たちが生活に困窮しちゃう。でも、ここで国を作るわけではないわ。あくまでも準備して戦いに行くための中継点。あたしが使える施設は何処にあるの?」
「大丈夫よ。もう用意してあるわ。ビッグフットの最高経営責任者、ネイト・バイモン・フラッシュとは懇意にしているし、四百㎢の森を平地にして、街を作っちゃってるからねっ」
ビッグフットという会社が、アラスカの広大な森を潰し、アンガネスという住宅地を急造している。涼しい場所で暮らせば温暖化は怖くない、という売り文句でアメリカ政府が許可をした宅地開発だ。
広大な森を潰すなんて、温暖化をさらに加速させるのでは? という話は、握り潰された。海水面が上昇して人類が住めなくなるまで、あと三十年かかるという数字が出てきたからだ。
この数字はSNS、アメリカ、果ては世界中で議論を巻き起こし、徐々に沈静化。あと三十年間で温暖化を止めよう、そんな流れに変わっていった。
そんなのウソだ。せいぜいあと三年だという科学者の声は、不安を煽る煽動者と見なされた。そのうえ科学者の暴露記事がリークされ、彼らは信用を失っていった。
こんな事が出来るのは、裏社会を牛耳る実在する死神たちの仕業である。
科学者の上げた声は本物だったのに。
白い猫獣人エリスと、スーパーモデルのようなリリス。言語魔法を教わったエリスは英語でリリスと会話している。側にはリリスにも懐いている鉄の猟犬、マルブートの姿がある。
野外フェス会場から溢れ出してくる獣人たち。
もちろん全員がデーモン憑きではない。働き盛りの男性獣人が、主なデーモン憑きであった。
実在する死神の係員が、タブレットを渡して、行き先の案内をしている。そのおかげで、獣人たちはスムーズに流れていく。
人口二千人のドーソンシティーは、獣人で溢れかえっているため、エリスとリリスも案内を手伝い始めた。彼女たちは獣人たちを笑顔で森の中へ誘っていった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
獣人たちはユーコン川に浮かぶ大型の輸送船に乗り、やがて新しく建設された街へと案内されていた。
アスファルトの道路、信号機、横断歩道、街灯、それに、大きなマンションがいくつも建てられていた。戸建ての住居もある。
公園が程好く整備され、買い物をするための通りには、お店が軒を連ねていた。
「すごい……」
エリスは高台から街を見下ろし、ため息交じりの声を出した。隣にはリリスと、その護衛たち。街の全景が見たいというエリスのリクエストに応え、この高台に電気自動車で登ってきたのだ。
しばらくすると空が騒がしくなってきた。その方向をエリスが見ると、こちらへ向かってくるヘリコプターが目に入った。
「うるさい空艇ね……。地球の技術はこんなものなの?」
「あれはヘリコプターって言うの。地球で空を移動する手段の一つよ?」
エリスは騒音に耐えきれず、頭の上の耳を塞いでいる。リリスの説明が聞こえたのか不明だ。音と姿がどんどん大きくなってきたヘリは、CH-53Kキングスタリオン。米軍の大型輸送ヘリだ。
エリスが突風に飛ばされそうになりながら耐えていると、キングスタリオンはゆっくりと着陸した。
その中から出てくる男が一人、エリスに声をかけた。
「アンガネスへようこそ。こんにちは、いや、今は夜かな? どうも白夜には慣れなくてね……。初めまして、私はネイト・バイモン・フラッシュ。知ってると思うけど、ビッグフットのCEOだ。……んーと、君がエリスかな?」
車から降りた男は高級スーツ姿。場違い感だらけで、一ミリもアラスカの地に馴染んでいない。
身長は百八十五センチ、体重七十五キロで細マッチョの体型をしている。茶色い髪の毛を七三できっちり分けたビジネスマン風。高そうな黒い靴を履いていた。
しかしその正体は、太古から地球に存在している、バイモンと呼ばれる悪魔。異世界のデーモンとは違う、地球の邪悪な存在である。
彼は地球の滅亡を、ビジネスチャンスと捉え、異世界への進出を狙っているのだ。
「パンフレットはもらっているかな? 君たち獣人が百五十万人も来ると聞いているけれど、こちらはそれ以上の三百万人分の受入れ態勢が整っている。獣人の種類で住む区画が違ってくるけれど、衣食住すべて揃っている。係のものから渡される端末で、住まいが分かるようになっているので、よろしく頼む」
薄っぺらな笑顔の裏に、悪意を感じるリリス。彼女と彼は決して仲がいいわけではない。今回は地球滅亡という、どうにもできない自然現象から逃れるために、手を組んでいるだけなのだ。
「初めましてエリス。今回は君がいなければ、異世界へ移住することは叶わなかったからね、とても感謝しているよ。ありがとう」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
輸送船から降りた獣人たちは、始めてみる街並みに驚きつつ、あっという間に散っていった。それもそのはず、街の作りは獣人自治区に似せて作られ、馬型ゴーレムが馬車を曳いていた。もちろん魔石ではなく、バッテリーで動いているものだ。動力源が魔石から電気に変っただけで、石畳の道路や建物の造りはさほど変わりがない。
獣人たちは、慣れないスマホのような端末を、おっかなびっくり操作しながら、割り当てられた家屋へ入っていく。彼らはデーモン憑きではない獣人だ。
三百万人を住まわせることが出来る都市だ。必要になる電力はとてつもなく多いが、近場にある核融合発電所で潤沢に賄われている。
城壁こそないが、街の周囲には広大な農地が広がり、二足歩行のアンドロイドが農作業をやっている。食糧の自給すら考えた街づくりのようだ。
「エリス! 探しましたわ!」
丘から降りたエリス一行に声をかけてくるドリー・ディクソン。厚化粧で薄手のワンピース、クネクネ走ってくる身長三メートルのゴリラ獣人はなかなかの迫力だ。彼は引き続き、この街の区長として仕事をすることが決まっている。ドリーが国王や国家元首でないのは、この街があくまで腰掛け程度でしかないからだ。体制を立て直し次第、反転攻勢を仕掛け、彼はあくまでも獣人自治区での建国を目指している。
獣人の王国建国のために。
しかしドリーの心は揺らいでいた。この街は、獣人自治区と比べ物にならないくらいきれいに整備されている。馬型ゴーレムの曳く馬車の他に、鉄の箱形馬車が走り、歩道では二足歩行のゴーレムが掃除をしている。断然こっちの方が暮らしやすいのだから。
「ドリーさん、この街の庁舎はあちらです」
ドリーはいちおうこの街のことを聞いていたが、予想を上回るきれいさでテンションが上がっていた。ずっと住みたいと考えるほどに。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
アンガネスの新庁舎にある会議室。スクール形式に並べられたテーブルには、高級オフィスチェアが揃えられている。白を基調にした明るい会議室はガラス張りで、廊下を歩くものから丸見えになっていた。
あれから十日経った。その会議室に、主要人物が勢ぞろいしていた。
区長のドリー。
猫獣人エリス。
狐獣人ブレナ。
吸血鬼リリス。
魔女シビル・ゴードンが飼っている、鉄の猟犬マルブート。
それと悪魔のネイト・バイモン・フラッシュ。
ビッグフットは、温暖化の進む地球で成長し続ける数少ない企業。ITから農業、軍需から民需と、手掛けていない産業はないと言われている。最先端の技術の信頼性、食品の安全性などにおいて、他社の追随を許さない多国籍企業であった。
ここに居る人物はお互いの素姓を知っている。ある程度まで。
でなければ協力関係など結べない。
ビッグフットのCEO、バイモンが壇上に立った。
彼がこれから話すのは、地球の技術と異世界の技術を掛け合わせた、新型兵器を持って、獣人自治区を奪還するというもの。
ビッグフットは米軍から兵器の生産を受注する企業でもあり、IT関連では世界のビッグスリーに名を連ねている。
「これを見てくれ」
庁舎の三階、天気もよく窓から光が差し込む明るい会議室で、バイモンの隣に立つ秘書が、アタッシュケース開けた。中に入っていたものは、ガラス瓶に入った赤い液体。
それを取りだしたバイモンは、人差し指と親指に挟んで一同に見せる。
「なんなのかしら? それ」
お姉声で問いかけるドリー。バイモンはそれを太陽にすかしてみている。
「リキッドナノマシンだよ……ようやく完成した」
「それを使うとどうなるの?」
聞こえてないような態度のバイモンに、少し声音が大きくなるドリー。
「ドリー区長、ブレナ、こっちに来てくれるかな? これで君たちは強くなれる」
壇上へ誘うバイモン。隣の秘書は一歩下がり、軽く頭を下げた。
バイモンの持つ赤い液体、リキッドナノマシンと何か関係がある話だと分かっている。ドリーとブレナは少し警戒しながら壇上に立った。
「ここにどうぞ」
二人が椅子に座ると、近くの秘書が注射を打った。もちろん中身はバイモンが見せた赤い液体、リキッドナノマシンだ。ドリーとブレナは、突然何をされたのか今ひとつ理解できていない。
「えー、これまでのリキッドナノマシンは、人類が異世界で生き延びるために作られた。身体の機能を上昇させ、様々な病原菌に耐えることが出来るように調整されている」
一呼吸置き、バイモンは周りを見渡す。
「欠点の一つ、リキッドナノマシンの異常増殖。このおかげで、被験者が破裂して死んでしまう事故が多発した。日本では人工知能を使って制御に成功したと聞いたが、そんなものはウソに決まっている。だが、ビッグフットは成功した。この二人を見ろ……」
赤いリキッドナノマシンを注入された、ドリー・ディクソン、ブレナ・オブライエンの二名に変化はない。
「二人ともまだ自覚してないようだね。もっと魔力を感じるんだ。ベランダで風を感じてみよう」
バイモンは二人の手をとり、三階にある広いベランダへ連れて行く。
「うわあぁ!」
「この風、魔力を感じますわ!」
明るい日差しの中に出ると、ブレナとドリーの感嘆する声が響いた。バイモンはそれを見つめながら話を続ける。
「二人とも風魔術は使えなかったよね? 今感じている風の魔力で、身体を浮かせてごらん。魔術ではなく魔法で」
「え、獣人は魔法なんてろくすっぽ使えないわ」
「スキルなら自信がありますわ?」
そう言いつつ、ドリーとブレナはおっかなびっくり風の魔法を使った。
「大丈夫。リキッドナノマシンを投与したから、もう魔法が使えるはず。今なら空を飛ぶことくらい、どうと言うことは無い」
部屋の中では、エリスとリリスが、三人のお遊びを興味深そうに見守っている。
ブレナとドリーはしばらくの間、飛んだり跳ねたりしていたのだが、ドリーの滞空時間が数秒間延びた。
「何と言うことだ! 魔法なんて諦めていたのに、俺は今滑空したぞ!?」
いつものオカマキャラを忘れ、地声で話すドリー。
その近くでは、広いベランダを縦横無尽に飛び回るブレナの姿があった。
その表情は喜びではなく無。心ここにあらず、別の何かを見据えているようであった。
しばらくして会議室に戻った三人は、本題に入った。
「ご存じの通り、私は地球産の悪魔でしてね、よく呼ばれる名前はバイモン。さて……エリス、ドリー、ブレナ、君たちに憑いている異世界の悪魔と話がしたい。姿を見せてくれないかな?」
白く明るい会議室で、バイモンの落ち着いた声が行き渡った。
不意打ちを食らった三人。デーモンを憑依させていると知られていたからだ。
その行方をおとなしく見守っていた真祖リリス・アップルビーは笑みを浮かべ、その笑みはいつの間にか耳まで裂けていた。




