337 遅きに失す
俺はゲートを抜け、異世界の南極へと転移した。眼下に広がる光景を見て、息を呑んだ。一面の銀世界。その上空で、激しい戦いが繰り広げられている。
空には、閃光と爆発の光が走り、轟音が雪原にこだまする。魔力と冥導が激しくぶつかり合い、渦巻いている。
これほどの大規模な戦闘は、今まで見たことがない。
俺は咄嗟に、仲間たちに念話を送った。
『ミッシー、マイア、ニーナ、無事か!?』
返事はなく、ノイズだけが聞こえてくる。まさか……。いや、きっと大丈夫だ。そう信じよう。
『ファーギ、ドワーフ軍の状況はどうだ?』
『……ああ、ソータか。無事だったんだな』
ファーギの声は弱々しく、どこか虚ろだった。
『ファーギ、一体何があったんだ? みんな無事なのか?』
『……ミッシーの母親、エレノアが戦死した。ミッシーはショックのあまり気を失ってしまい、まだ目を覚まさないんだ。マイアとニーナが付き添っているが、意識が戻る気配はない。ヒュギエイアの水を使っても、効果がない。精神的なダメージが大きいんだろう』
胸が締め付けられる。
エレノア・デシルバ・エリオット。ミッシーの母親であり、エルフの英雄。そんな彼女が、戦死するなんて……。
『……すぐに、そちらへ向かう。後のことは任せてくれ。俺にできるだけのことはやっておく。できるだけ、多くのデーモンを倒しておく』
『好きにすればいい。もう、ワシらに構うな』
ファーギの声は冷たく、怒りに満ちている。
『ファーギ、すまない。俺は判断を誤った。お前たちを置き去りにしたことは、本当に間違いだった。後悔している』
『……』
ファーギは何も答えない。いや、答える余裕がないのかもしれない。
『ワシは今、地上で戦っているんだ。リアム、メリル、アイミー、ハスミン、ジェス。みんな、死んでしまった……。ワシも、もう限界かもしれない』
『な、なんだって!? すぐに、そこへ行く! どこにいるんだ? 教えてくれ!』
『……』
念話が途切れた。今度は、いつもの切れ方ではない。ファーギも、倒れてしまったのか……。
眼下の雪原には、黒い絨毯のようにデーモンの大群が蠢いている。その中から、仲間たちの遺体を見つけ出すのは至難の業だ。しかし、彼らに渡した永遠回廊結晶は感じ取れる。地上に、六つの結晶が静止している。それは、ファーギたちだ。
俺の心の一部が、ぽっかりと空虚になった。感情が麻痺し、友の死さえも実感できない。
すまない。先にやらなければならないことがあるんだ。
戦況は、刻一刻と悪化している。
俺は再び、南極点の方向を見つめた。そこには、先ほどまでなかった巨大な黒い影が、三つ。
黒い立方体――地球で魔導バッグに収納したものと同じだ。そして、その前には、因縁の敵たちが立っている。
冥界の王ラコーダ。黒霧界の支配者、ディース・パテルと、その妻であるペルセポーネ。
……くそっ、三柱とも、ここに現れたのか。
黒い立方体の側面から、四方八方へデーモンたちが溢れ出す。見たこともないデーモンもいる。早く、あの立方体を破壊しなければ。
次の瞬間、無数の黒い光線が、三国の艦隊に向かって放たれた。
地球の時と同じように、時間停止魔法を使おう。この世界の時間の流れを止めれば、その間に何かできるはずだ。こんな侵略を、このまま許すわけにはいかない。
『ソータ、時間停止魔法が妨害されました! 三柱のうち、誰かがあなたの魔法を妨害しています! おそらく、ペルセポーネでしょう! 今、気づかれたら反撃される危険性があります!』
『はあ?』
クロノスの警告に、俺は愕然とした。しかし、ここで退却するわけにはいかない。俺はもう一度、時間停止魔法を試みた。もちろん、根源を込めて。
しかし、世界は静止しない。時間停止魔法は、失敗に終わった。
クロノスの言う通り、ペルセポーネが妨害したようだ。俺の視界がズームされ、ペルセポーネの赤い瞳と、俺の視線が合った。
待てよ……。俺は十八番目の素粒子、根源を使っている。なのに、なぜ黒霧界の迎魔の力で、時間停止を阻害されるんだ?
たしか、ラコーダに時間停止魔法を教えたのは、ペルセポーネだったな……。つまり、彼女は迎魔を使った時間操作の達人なのか?
ディース・パテルの妻、ペルセポーネ。彼女が、俺の時間停止魔法を無効化し、仲間たちを窮地に追い込んだのだ。
黒線は容赦なく、三国連合艦隊の障壁を貫通し、巨大空艇を次々と撃ち落としていく。
爆発に巻き込まれれば、即死だ。だが、それよりも悲惨な運命が、彼らを待っている。墜落しても生き残れば、地上で待ち構えているデーモンの大群に襲われることになる。
仲間たちを助けに行きたい。しかし、その前に、攻撃の元凶を断たなければならない。
黒い立方体を守るラコーダ、ディース・パテル、そしてペルセポーネ。俺は、奴らのもとへ転移しようとした。その時だった。背後から、ゾッとするような気配を感じた。咄嗟に振り返るが、遅かった。
「――いつの間に」
ペルセポーネが、俺の背後に立っていた。
鋭い痛みが走る。何かが、視界の端を飛んでいくのが見えた。それは、俺の右腕だった。ペルセポーネが放った黒線が、俺の右肩を斬り落としたのだ。
切断面から、赤い液状生体分子が噴き出す。極寒の空気に触れた瞬間、凍り付いていく。キラキラと輝く赤い粒が無数に舞い上がり、雪原へと降り注いだ。
「……ぐっ」
痛みは一瞬だけだった。クロノスが、瞬時に痛覚を遮断してくれた。
俺は左手でファイアボールを生成し、黒い立方体めがけて放つ。
しかし、全力では撃てない。全力で撃てば、南極大陸が消滅してしまうだろう。異世界の環境バランスを崩してしまう。
超高温の青いファイアボールは、黒い立方体に着弾する直前、黒線によって消し去られた。俺の近くにいたはずのペルセポーネが、黒い立方体の前に立ちはだかっている。転移した気配すら感じ取れなかったのは、彼女の魔力消費効率が百パーセントだからだろう。
ペルセポーネは、不敵な笑みを浮かべている。まるで、俺の行動をすべて見透かしているかのように。
『ペルセポーネから、スキル〝未来視〟を感知しました。解析できません。解析できません。効果は、数秒先の未来が見える、というものです』
『エリスが使っていたスキルよりも強力なやつか? 一体、何なんだ、そのチートスキルは。それで、ファイアボールを打ち落としたのか』
次の瞬間、俺は腹部に衝撃を受けた。黒線が、俺の腹を貫通している。
「……くそっ」
思わず呻き声が漏れる。しかし、俺はすぐに反撃を開始する。だが、ペルセポーネは、俺の攻撃をすべて軽々と回避していく。
仕方ない。傷口から噴き出した液状生体分子の量が、多すぎる。俺は念動力を布のように広げ、液状生体分子をすべて回収する。そして、腹の中に戻す。極寒の風に晒され、凍結してしまう前に。
しかし、それでも液状生体分子の損失は大きい。急いで、ヒュギエイアの水を飲まなければ……。
俺はポケットから小さなガラス瓶を取り出すと、一気に飲み干した。傷口はすぐに塞がり、失われた腹部の組織が再生していく。同時に、切り落とされた腕も再生し始めた。
だが、その間も、ペルセポーネの攻撃は容赦なく続く。
俺の頭と腹を狙って、黒線が次々と飛んでくる。彼女に未来が見えるのなら、せめて混乱させてやるしかない。俺は、次にどんな動きをするのか、意識に留めるだけに集中する。そして、実際に動くときは、意識とは違う動きをする。何度も何度も、フェイントを繰り返すのだ。
よし、うまくいった。ペルセポーネの攻撃が、外れ始めた。
しかし、膠着状態が続く中、ラコーダとディース・パテルの猛攻によって、仲間たちの戦況は悪化していく。
早く、奴らを止めなければ。
……もう、時間がない。
俺は、テッド・サンルカルに魔導通信を送った。
『テッド、戦況はどうなっている?』
『最悪だ……! 艦隊は壊滅寸前だよ! このままでは、全滅してしまう! 撤退するしかない!』
テッドの声は絶望に震えていた。撤退すれば、被害は抑えられるかもしれない。しかし、敵に背中を見せた瞬間、追撃されるのは避けられない。
「……テッド、できる限り持ちこたえてくれ! その間に、俺が何とかする!」
俺は決意し、黒い立方体へと向かった。
しかし、またしてもペルセポーネが立ちはだかる。彼女は、浮遊魔法を使い、器用に空を移動する。
「はじめまして、ソータ・イタガキ。挨拶もなしに、どこへ行くつもりかしら?」
ペルセポーネは挑発的に笑う。しらじらしい。そう思っていると、背後から再び黒線が飛んでくる。くそっ、今度はどこから、どうやって狙ったんだ?
「うおおおおおっ!」
俺は咄嗟に身をかわし、黒線を避ける。そして、怒りの咆哮と共に、渾身のファイアボールを放った。
この距離では、彼女も避けられないだろう。
しかし、彼女は驚く様子もなく、涼しい顔でファイアボールを黒線で消し去ってしまう。そして、再び黒線が襲いかかってきた。
「ぐあああああっ!」
今度は、左腕が吹き飛んだ。
……くそっ。頭を狙って即死させないということは、完全に俺を弄んでいるな。
痛みは一瞬で消える。クロノスが、しっかりと痛覚を遮断してくれる。しかし、片腕を失うと、動きが制限されてしまう。時間稼ぎは、もう許されない。三国連合軍は崩壊寸前だ。黒い立方体から出現するデーモンの群れを、なんとしてでも阻止しなければ。
『クロノス、デストロイモードに移行する』
『再び長時間の睡眠が必要になりますよ? 本当に、それでいいのですか?』
『構わない。奴らを倒せれば、それでいい』
クロノスが心配そうに止めるが、今はそんなことを言っている場合ではない。全力を出すべき時だ。デストロイモードは、俺の切り札であり、同時に諸刃の剣でもある。その力の代償は、大きい。前回は、十日間も意識を失っていた。
『……分かりました。ソータ、どうかご無事で』
クロノスは祈るようにそう言うと、デストロイモードを起動した。
「おおおおおっ!」
雄叫びと共に、全身が光に包まれる。根源が溢れ出し、周囲の空間が歪んでいく。
「な、なによ、あの力は……!?」
ペルセポーネの顔が、恐怖に歪む。今まで見たこともないような、圧倒的な力の前に。
俺は、その一瞬の隙を逃さなかった。転移魔法で、彼女の懐に飛び込む。そして、魔法を発動させる。
獄舎の炎。
ペルセポーネを中心に、根源でできた障壁が展開され、内部は蒼い炎で満たされる。容赦のない炎が、彼女を焼き尽くしていく。
「ぎゃあああああっ!」
ペルセポーネの悲鳴が響き渡る。そして、彼女の身体は、灰となって消え去った。一瞬の出来事だった。
「ペルセポーネッ!」
地の底から響き渡るような、怒りの咆哮。ディース・パテルだ。最愛の妻を失った彼は、理性を失い、怒りに任せて俺に襲いかかってきた。彼の放つ、圧倒的な殺気。俺は背筋に冷たいものを感じた。
しかし、俺もまだ倒れてはいない。俺の魂は、激しい戦いを求めて高鳴っていた。
デストロイモード。今の俺なら、神すらも倒せる。
この一撃に、すべてを賭ける。
「うおおおおおおおっ!」
雄叫びと共に、俺は炎の奔流を解き放つ。
ディース・パテルの全身から、禍々しい迎魔が溢れ出す。怒りに我を忘れた彼は、ただ破壊のみを求める獣と化していた。
「貴様っ! お前は一体何者だ? ソータ・イタガキか? それとも、クロノスか? いや、もうどうでもいい! ペルセポーネを返せぇぇぇ!」
彼は獣のように咆哮する。彼の周囲の空間が、黒く歪み始める。現実世界を破壊しようとする、恐ろしい力だ。
しかし、俺も黙ってやられるわけにはいかない。俺は根源を全身に巡らせ、身構える。
「うおおおおおっ!」
叫びと共に、ファイアボールを放つ。しかし、ディース・パテルはそれを素手で弾き飛ばした。激昂した彼は、もはや痛みも熱さも感じないのか。
次々とファイアボールを放つが、彼の操る黒い渦が、すべてを飲み込んでしまう。
そして、黒い光線が、カウンターのように俺に襲いかかる。避けようとするが、間に合わない。
「ぐっ……!」
全身に激痛が走る。黒い力が、俺の細胞を蝕もうとする。
だが、俺は屈しない。今はデストロイモードだ。
「はぁぁぁぁぁっ!」
凍てつく南極の空気の中、俺の身体は熱く燃え上がっていた。
ディース・パテルとの死闘は、地上から大気圏まで及んだ。凄まじい衝撃波が、大地を揺らし、空を引き裂く。
黒き渦と蒼き光が激しくぶつかり合い、眩い光が夜空を彩る。それは、神にも等しい力を持つ者同士の、壮絶な戦いだった。
俺は渾身の力を振り絞り、ディース・パテルに攻撃を浴びせる。炎、雷、そして念動力。ありとあらゆる攻撃を、彼に叩き込む。
「うおおおおおおおっ!」
猛烈な攻撃に、ディース・パテルも黒き渦で対抗する。黒く歪んだ空間が、俺の攻撃を飲み込み、跳ね返す。
一歩も譲らぬ、凄まじい攻防が続く。
その時、俺はチャンスを見つけた。ディース・パテルが、黒い立方体から、ほんの少しだけ離れたのだ。
彼は妻を失った怒りと悲しみで我を忘れている。しかし、それでも黒い立方体を守ろうとしている。ならば、彼が立方体から離れている今が、攻撃のチャンス!
俺は覚悟を決め、全身の力を込めた一撃をディース・パテルに放つ。
「これで終わりだぁぁぁっ!」
根源による雷光と炎の渦が、彼の身体を貫く。扱いなれていない素粒子だが、力任せに使った。凄まじい衝撃波が、容赦なく彼の肉体を破壊していく。
「ぐあああああっ!」
ディース・パテルは悲鳴を上げながら、空高く吹き飛んだ。そして、バランスを崩しながら、雪原へと落下していく。
今だ!
俺は転移魔法を使い、黒い立方体の前に移動する。
「こいつを、破壊する……!」
勝利を確信し、俺は叫んだ。そして、至近距離からファイアボールを放とうとした。その時だった。背後から、鋭い殺気を感じた。
「っ……!?」
振り返ると、そこにラコーダの姿があった。彼は、不敵な笑みを浮かべて、俺を待ち構えていた。
「愚かだな、ソータ。勝利を確信するには、まだ早すぎるぞ」
ラコーダの低い声が響く。その言葉に、俺は背筋が凍りついた。
――ズドォンッ!!
次の瞬間、俺は強烈な衝撃を受け、吹き飛ばされてしまった。
なんとか浮遊魔法を使って体勢を整える。しかし、その時、ラコーダの身体から、強烈な時間誤謬の力が放たれた。時間そのものを捻じ曲げ、操る力だ。その力は、俺の想像をはるかに超えるものだった。
「……!?」
俺は、目の前で起こった信じられない光景に、言葉を失った。はるか遠く、三国同盟軍の空艇が、一斉に朽ち果て始めたのだ。
金属部分は錆び付き、木製の部分は腐り、窓ガラスは粉々に砕け散っていく。まるで、一瞬で千年の時が過ぎたかのようだ。そして、みるみるうちに空艇は崩壊し、次々と地上に墜落していく。轟音と共に、大爆発が起きる。衝撃波が、南極大陸を揺るがす。
「う、うそだろ……」
俺は、信じられない思いで呟いた。
ラコーダは、時間操作魔法を使って、同盟軍の空艇を未来へ飛ばし、一気に老朽化させてしまったのだ。兵士たちは抵抗する間もなく、空艇と共に地上に叩きつけられていく。
地上では、デーモンの大群が待ち構えている。
黒い影が、空から落ちてきた兵士たちに襲いかかる。
圧倒的な数の差の前に、彼らは為す術もなく、喰い殺されていく。
エルフ、ドワーフ、そして人間の悲鳴が、虚しく響き渡る。
雪原は血で染まり、あたり一面に肉片が散乱する。
まさに地獄絵図だった。
そして、朽ち果てた空艇の中に、見覚えのある二隻を見つけた。
ドワーフ軍の旗艦、イノセントヴィクティム。
そして、修道騎士団クインテットの旗艦、オブシディアン。
どちらも無残に破壊され、地上に墜落していた。




