336 冥界の神々
轟音とともに、サッドネスの艦橋が爆発した。それだけではない。艦の内部からも、次々と爆発が起こり、赤い炎が噴き出す。空に浮かんでいたサッドネスは、大きく左舷に傾き、バランスを崩し、黒煙を吐き出しながら墜落していく。
「くそっ! 一体何が起こっている!」
異変に気づいたミッシーは、慌てて操縦桿を握りしめ、小型空艇を急旋回させた。地上へ落ちていくサッドネスを、必死に追いかけようとする。
「ダメです! もう追いかけても――――!」
ミッシーと共に空艇で併走していたエルフ兵が叫んだ。しかし、彼女は聞く耳を持たない。操縦桿を強く握りしめ、サッドネスを追いかける。焦るエルフ兵たちは、力を合わせてミッシーの空艇に追いつこうと、必死に操縦桿を操作する。
「母上が……!」
ミッシーは、震える声で呟いた。恐怖と不安が彼女の心を締め付ける。彼女の頭の中は、母親の姿でいっぱいだった。
その時だった。轟音とともに、サッドネスが地上に激突し、大爆発を起こした。
「…………」
その光景を目の当たりにしたミッシーは、操縦桿から手を離し、茫然自失となった。
「ミッシー!」
「あなたまで死んだら、ダメよ!」
次の瞬間、マイア・カムストックとニーナ・ウィックローの乗る空艇が、ミッシーの空艇に近づいてきた。二人の空艇は、ミッシーのものより少し大きい。マイアが慎重に幅寄せを行い、ニーナが素早くミッシーの空艇に飛び移る。彼女は、小型空艇の中で呆然としているミッシーを抱きかかえると、自分たちの空艇へと引き寄せた。
エルフ兵たちは、彼女たちの関係を知っていたため、ミッシーの救出を任せ、自らはデーモンの攻撃に備えた。
「私たちはミッシーを連れて、一旦オブシディアンに戻ります! エルフの艦隊は、すでに撤退命令が出ているはずよ!」
マイアは、エルフ兵たちに向けて叫んだ。
「はい! 姫様を、よろしくお願いします!」
修道騎士団クインテットが信用されているのか、それともソータの仲間が信用されているのか、マイアの言葉にエルフ兵たちは素直に従い、その場を離れていく。
マイアは、ミッシーを乗せた空艇を急旋回させると、旗艦オブシディアンへと向かった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
空は澄み渡り、無数の星が白銀の大地を冷たく照らす。まるで、天空の宝石が地上に散りばめられたかのようだ。デーモンとの激戦が続く中、テッド・サンルカルは、腕を組んだまま仁王立ちになっていた。
ここは、修道騎士団クインテットの旗艦、オブシディアンの艦橋。テッドの隣には、副官であるアイヴィー・デュアメルが立っている。
通信兵が慌てて情報を伝える。
「マイア様、ニーナ様、お二人とも、ご無事です。ミッシー・デシルバ・エリオット様も、ご無事とのこと。しかし……」
「……」
テッドは、地上に墜落し、炎に包まれるサッドネスの姿を見て、目を閉じる。そして、静かに冥福を祈った。
しばらくすると、彼は重い口を開く。
「オギルビーに繋いでくれ」
「かしこまりました」
アイヴィーは、ドワーフ軍の旗艦、イノセントヴィクティムに魔導通信を繋いだ。通信に出たオギルビーは、開口一番こう言った。
『全く、うまくいかないものだな……』
エレノア・デシルバ・エリオット。エルフの英雄である彼女の死は、三国同盟軍に大きな衝撃を与え、戦意を喪失させていた。三軍ともに、前線は大きく後退している。
「本来なら、撤退すべき状況だが……いや、そうもいかないか」
テッドが静かに呟くと、通信機からオギルビーの怒鳴り声が聞こえてきた。
『本来なら? 第二王子殿下、まさか、このまま戦い続けるつもりか!? 撤退して、体制を立て直すべきだ!』
「撤退して、どうするんだ……。この世界に現れた黒い立方体が、真の敵だ。地球と死者の都には、ラコーダ、ディース・パテル、ペルセポーネの三柱は現れていない。奴らが、この世界にやって来るのは時間の問題だ!」
『分かっている! だから、撤退するんだ! このままでは、エルフ軍は壊滅してしまうぞ!』
「……」
テッドは言葉を失う。彼は、エレノアの死がエルフ軍に与える影響が、計り知れないほど大きいことを理解していた。今は修道騎士団クインテットとドワーフ軍が前線で戦い、その背後にエルフ軍がいる。三軍は、徐々に後退している。しかし、エルフ軍だけは統制が取れていない。
将を失ったエルフ軍は、もはや軍隊としての機能を果たしていなかったのだ。
「分かった。状況を鑑みて、一旦、撤退を――」
その時だった。テッドは、背中に冷たいものを感じた。次の瞬間、前方から放たれた黒線が、オブシディアンの障壁を貫通した。けたたましい警報音が艦橋に鳴り響く。
「司令官! 右舷外壁が高熱で溶解しています! 備品倉庫で火災が発生しました!」
「被害状況は? いや、負傷者の救助を優先しろ! すぐに消火活動を開始!」
テッドは指示を出しながら、魔導レンズを操作する。艦橋の大型モニターに、外の状況が映し出される。星明かりだけで、周囲は薄暗い。どこから攻撃してくるのか、黒線を目で捉えるのは難しい。
「我が軍、ドワーフ軍、そしてエルフ軍、全艦に通信を開け」
通信士が、三軍の艦隊に繋がる回線を開いた。
「どうぞ」
「こちらテッド・サンルカル。三軍の艦隊は、これより撤退戦に移行する。敵は、超々遠距離から黒線による攻撃を仕掛けてくる。撃ち抜かれないように、高度を下げて後退するんだ。この黒線については、経験がある。俺がスタイン王国で戦った時、あの黒線は……」
彼は言葉を詰まらせる。艦橋にいる全員が、その意味を理解している。黒い立方体から、冥界の神々が現れるということを。この戦いを放棄すれば、世界を滅ぼす恐ろしい存在が、解き放たれてしまうのだ。彼らを、ここで倒さなければならない。何としても。
しかし、テッドは撤退を決断した。彼はスタイン王国での戦いで、あの黒線の威力を身をもって知っていた。ここで戦えば、全滅は避けられない。
「前方の障壁を強化し、後退速度を上げろ!」
再び、黒線がオブシディアンをかすめる。しかし、高度を下げると、攻撃は止まった。地平線から攻撃してくるデーモンたちから、見えなくなったのだ。
現在の飛行高度は、地上から二十メートル。巨大空艇としては、地面スレスレを飛行していることになる。
しかし、それは、地上のデーモンたちにとっては絶好の機会だった。彼らは一斉に、空艇に向けて魔法を放ち始めた。
だが、それは想定内の攻撃だ。空艇の腹部を守るように、幾重にも障壁が張られ、厚みを増していく。
魔法攻撃が効かないと分かると、生き残った羽根つきデーモンたちが飛び立った。そして、他のデーモンたちも、ぎこちない浮遊魔法を使って空へ舞い上がり、空艇めがけて突進してくる。
彼らは長い鉤爪で障壁に掴まると、口から酸を吐き出す。ただの酸ではない。冥導から生成された特殊な液体であり、魔素で作られた障壁を溶かすことができるのだ。
ひとたび障壁に穴が開くと、そこから他のデーモンたちが侵入してくる。
「ちっ……。サッドネスにも、このやり方で侵入したのか」
艦橋のモニターを見ていたテッドは、歯軋りしながら呟いた。
その時、アイヴィーが魔導通信機に向けて話しかけた。
「ヒロキ、オブシディアンの障壁内にデーモンが侵入しているわ。小型空艇で出撃できる?」
『ああ、いつでも出撃できる。外の映像を送ってくれ。デーモンがどの辺りにいるのか、確認したい』
「分かったわ。今すぐ送る」
アイヴィーは、短く指示を出し、佐山弘樹たちへ羽根つきデーモンの映像を送信させた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「よし! あの黒線さえなければ、俺たちでも戦える! 行くぞ! 雑魚デーモンどもを、蹴散らしてやる!」
オブシディアンの発着デッキで、佐山が檄を飛ばす。彼の前には、弥山明日香、伊差川すずめ、そして、人狼のエマ・ランベールとナブー・クドゥリ・ウスルの姿があった。
彼らは、佐山を隊長とする五人編成の小隊だ。
小型空艇のコックピット。操縦桿を握るのはエマだ。助手席には、恋人のナブー。後部座席には、佐山、弥山、伊差川の三人が座っている。
五人を乗せた空艇は、オブシディアンから飛び立ち、障壁の内側に侵入した羽根つきデーモンの群れに突っ込んでいく。
「エマ、左舷から敵が接近! 気をつけろ!」
ナブーの警告に、エマは素早く反応する。
「了解!」
彼女は華麗な操縦技術で空艇を右に傾け、急旋回する。間一髪で、羽根つきデーモンの攻撃を回避した。
佐山たちも黙ってはいない。後部ハッチを開け放つと、風を切る音とともに次々と魔法を繰り出す。
「摩擦ゼロ!!」
佐山の叫び声と共に、デーモンたちが宙に浮いたまま、動きを止めた。彼の魔法によって、摩擦力を失ったデーモンたちは、空を飛ぶことすらできなくなってしまったのだ。彼らは無念そうな顔で、雪原へと落下していく。
弥山と伊差川も、すかさず魔法を放つ。
「風よ、敵を切り裂け!」
「水よ、敵を飲み込め!」
二人の力が合わさり、鋭い風の刃と巨大な水の塊が、デーモンたちに襲いかかる。風の刃はデーモンたちの身体を切り裂き、無数の傷口から黒い血が噴き出す。それを水の塊が包み込み、一瞬で凍らせていく。
「うおおおおおっ!!」
佐山が咆哮すると、炎の渦がデーモンたちを焼き尽くしていく。彼はサラマンダーの力を借りて、強力な火炎魔法を使っていた。
三人の連携は完璧だ。あっという間に、デーモンの群れは半数にまで減らされていく。
「よし、この調子なら……!」
ナブーは、順調な戦況に安堵の笑みを浮かべた。しかし、それは束の間のことだった。
「っ!? な、何か来るわ……!!」
エマの背筋に、冷たいものが走る。獣人としての鋭い感覚が、何か危険なものが近づいてくることを察知した。
次の瞬間、二体の巨大な影が、空艇の前に現れた。それは、青白い光を放つ、まるで生きた雲のようなモンスターだった。
「くっ……なんでトロイダルが!? ダンジョンのモンスターが、地上に出現しているなんて!」
エマは咄嗟に操縦桿を操作し、トロイダルとの正面衝突を回避しようとする。しかし、トロイダルが放つ強力な磁力からは、逃れることはできなかった。
「うわあああっ!?」
小型空艇が激しく揺れる。操縦桿が利かなくなり、まともに飛行することさえできなくなった。磁力魔法の影響で、空艇の制御システムが狂い始めている。
「み、みんな、脱出するよ!!」
エマの獣人特有の鋭い悲鳴に、他の四人は一斉に脱出装置のスイッチを入れる。コックピットのガラスが吹き飛び、緊急用のシートが射出された。五人はとっさに浮遊魔法を使い、トロイダルから距離を取ろうとする。
しかし、磁力魔法の影響は、彼らの身体にも及んでいた。
「く……体が……、思い通りに動かない……!」
ナブーが苦しそうに呻く。強烈な磁場の影響で、彼の身体は自由を奪われ、生体機能に異常が発生していた。
そして、ナブーは意識を失ってしまった。
「ナブー!!」
エマは悲痛な叫び声を上げる。意識を失ったナブーの体が、人形のように力なく落下していく。
エマは必死の形相で、彼の後を追う。
「お願い、間に合って……!!」
彼女は、祈るような気持ちでナブーに手を伸ばす。
しかし、磁力魔法の影響で、思うように体が動かない。ふらつきながら空を舞い、必死にナブーを追いかけるエマ。
オブシディアンの巨大な障壁が、刻一刻と近づいてくる。このままでは、ナブーは障壁に激突してしまう。
エマは渾身の力を振り絞り、なんとかナブーの手を掴んだ。
「っ……! 捕まえたわ!!」
彼女は浮遊魔法で落下速度を緩めると、オブシディアンの障壁へと向かう。そして、間一髪でナブーを抱きしめ、彼を救い出したのだった。
「はぁ……はぁ……」
エマは荒い息をつきながら、上空を見上げる。そこでは、佐山、弥山、伊差川の三人が、必死にトロイダルと戦っていた。
「佐山くん、弥山さん、伊差川さん……!! 頑張って……!!」
エマは祈るような気持ちで、仲間たちの奮闘を見守る。しかし、彼女の足は震え、立っていることさえ難しい。
トロイダルの力は、想像を絶するほど強大だった。
最初に撃ち落とされたのは、伊差川すずめだった。
「うわあああっ!?」
青白い閃光が彼女の身体を貫き、真っ二つに引き裂く。彼女は悲鳴を上げながら、そして、銀色の血をまき散らしながら、落下していく。
「伊差川さん!!」
弥山は、悲痛な叫び声を上げた。彼女は怒りに燃え、風の精霊シルフィードの力を解放する。
「風よ!! 私に力を貸して!!」
弥山の身体を、凄まじい風が包み込む。彼女の髪が激しくなびき、まるで風の精霊そのもののようだった。
しかし、次の瞬間。
「――がああああっ!?」
トロイダルが放った磁力魔法が、弥山を直撃する。強烈な電流が彼女の全身を駆け巡り、意識を奪う。彼女はそのまま、力なく地上へと落下していった。
「弥山! 伊差川! くそおおおっ!!」
二人の親友を失った佐山は、怒りの咆哮を上げる。怒りと悲しみに震える彼は、炎の力を一点に集中させた。
「これで終わりだあぁぁっ!!」
凄まじい火炎魔法が炸裂する。トロイダルの一体が、爆音と共に粉々に砕け散った。
しかし、佐山もまた限界だった。
「……がは……ぁ……」
強力な磁力魔法によって、彼の身体は自由を奪われている。意識は朦朧とし、視界がぼやけていく。
もう一体のトロイダルが、ゆっくりと佐山に近づく。そして、容赦なく攻撃を放つ。
磁力の奔流が、彼の身体を貫く。
「があああああっ!!」
佐山は苦痛に歪んだ表情で叫ぶと、意識を失った。そして、巨大なトロイダルの体内に取り込まれていく。
ほんの数分の出来事だった。
気がつけば、エマはたった一人。仲間は、全員倒れてしまった。
「そんな……どうして……」
エマは泣き崩れた。
深い絶望が、彼女の心を覆う。
その時だった。
「えっ!? この気配は……」
エマの背筋に、冷たいものが走る。今まで感じたことのない、悪意に満ちた気配。それは、あまりにも巨大で、邪悪で、底知れない力を感じさせるものだった。
意識を失っていたナブーも、その気配に反応して目を覚ました。
「ま、まさか……」
「エ、エマ、これは一体……」
二人の視線の先、南極点の方向に、巨大な黒い影が三つ。
エマとナブーは、直感的に理解した。
ついに、奴らが来たのだと。
ラコーダ、ディース・パテル、ペルセポーネ。
三柱が、ついに姿を現したのだ。
「…………」
エマは、声も出なかった。圧倒的な存在感に、彼女は恐怖で凍り付いてしまった。
「も、もう……ダメかもしれない……」
彼女は力なく呟くと、意識を失い、その場に倒れてしまう。ナブーは慌てて彼女のそばに駆け寄り、抱きかかえる。そして、浮遊魔法を使って空へと昇っていく。オブシディアンに帰還するためだ。
遠くから、デーモンの軍勢が雄叫びを上げる。それは、勝利を確信した、喜びの咆哮だった。
一方、三国連合軍の兵士たちは、大きく戦意を喪失していた。
敗北は、もはや避けられない。窮地に立たされた同盟軍。
果たして、この絶望的な状況を、誰が打破できるのだろうか。
戦乱の渦中にある、異世界の南極大陸に、暗い影が忍び寄っていた。




