333 ネクロポリスの南極
凍てつく風が吹き荒れる死者の都の南極大陸。暗闇の中に、巨大な氷の山がいくつも浮かび上がっている。
その荒涼とした景色の中、金色の髪をなびかせる女性が立っていた。真祖リリス・アップルビーだ。透き通るような青い瞳は、遠くの地平線を見据えている。
彼女の隣には、娘のダーラ・ダーソンと、魔女マリア・フリーマンの姿があった。三人は、静かに黒い立方体の出現を待っている。
やがて、遠くから複数の足音が聞こえてきた。振り返ると、リリア・ノクスとエドワード・シャドウフレイム、そして六炎影の六人が、歩いてくる。彼らは、リリス直属の部下たちだ。
「ご苦労様でした」
リリスが静かに言葉をかけると、リリア、エドワード、そして六炎影の六人は、深く頭を下げた。
その後、短い作戦会議が行われた。魔女マリア・フリーマンだけがバンパイアではない。そのためか、彼女だけが寒さに耐えかね、歯をガチガチと鳴らしていた。
「さあ、行きましょう。あの黒い立方体へ」
作戦が決まったようだ。リリスの指示に従い、リリアとエドワードは六炎影を引き連れ、ゆっくりと立方体へと近づいていく。
彼らの身体は、スキル〝影渡り〟によって影と化し、スキル〝霧散遁甲〟によって霧に包まれる。極寒の地でも、凍えることはない。音もなく、完全に姿を消しながら、立方体へと近づいていく。
その時、立方体の側面にあるドアが、不意に開いた。
そこから姿を現したのは、黒いスーツを纏った男。
アダム・ハーディングだ。死者の都の神であり、リリスを生み出した創造主だと、彼は言っている。しかし、実際はリリスがそう信じ込まされているだけで、彼女はアダムの子ではない。
「愚かな娘よ、よくぞ参った」
アダムは不敵に笑い、静かに呟いた。
「スキル〝肥大化〟」
アダムの足元から黒い影が溢れ出し、白い雪原をみるみるうちに覆い尽くしていく。次の瞬間、リリアたちのスキルが暴走を始めた。
影と霧が大きく膨張し、轟音と共に爆発する。まるで、意思を持った影や霧が、彼らの命を奪おうとしているかのように。
南極の夜空に、悲鳴がこだまする。リリアと六炎影の姿が、次々と影と霧に飲み込まれていく。七人の配下は元の姿に戻り、もがき苦しみながら灰と化してしまう。あまりにもあっけない最期だった。
「まさか、あの影でスキルを暴走させるとは……」
かろうじてスキルの効果範囲から逃れたリリスは、愕然としていた。アダムのスキルは、彼女の予想を遥かに超えていた。
エドワードはとっさに炎の盾を展開する。しかし、影の浸食は止められない。抗うように炎を燃え上がらせるが、やがてそれも影に飲み込まれ、エドワードの身体は灰となって崩れ落ちてしまった。
「母上さま! スキルを使うのは危険です!」
ダーラが必死に訴える。リリスは娘の言葉に従い、スキルを使うのを止めた。バンパイアのスキルを使えば、アダムに付け入る隙を与えてしまう。
「ええ、魔法だけで戦いましょう」
リリス、ダーラ、マリアの三人は、スキルを封印し、魔法のみで立方体へと向かっていく。
リリスとダーラは、空術を使って氷と水の魔法を生み出し、アダムに攻撃を仕掛ける。
鋭い氷の矢が飛び交い、巨大な水の刃が唸りを上げてアダムを切り裂こうとする。
マリアは八芒星魔術を展開し、八つの頂点から強力な魔力を解き放つ。
「我が下僕よ、敵を討て! 精霊召喚!」
マリアの呼びかけに応じ、炎の精霊が現れる。灼熱の炎が、アダムに襲いかかる。
一瞬にして、南極大陸が戦場と化した。轟音が鳴り響き、炎と氷が激しくぶつかり合う。
しかし、アダムは涼しい顔で、全ての攻撃をかわしていく。
「ふん、こんなものか」
アダムは嘲るように呟くと、圧倒的な魔力を解き放った。
「我が力を見よ。生命の源!」
眩い光が辺り一面に広がる。その光の中心で、ダーラの体が灰と化し、崩れ落ちた。
「ダーラッ!」
リリスの悲痛な叫びが、凍てつく夜空に響き渡る。
愛する娘を失った悲しみが、怒りへと変わる。彼女の周りに、鋭い氷の刃が無数に出現し、アダムへと襲いかかる。
「貴様、よくも……!」
リリスは怒りに我を忘れ、氷魔法を次々と放つ。
マリアもまた、八芒星魔術を駆使する。
「精霊融合! 我が力を示すのだ!」
マリアの体が炎に包まれ、まるで炎の人形のように変化する。彼女は燃え盛る炎の体で、アダムに突進する。
アダムはリリスの氷魔法を受け、傷を負う。さらに、マリアの炎の体当たりによって、大きく吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられたアダムは、しかし不敵な笑みを浮かべると、すぐに立ち上がった。
「愚かな娘よ、まだ分からんのか。私の力の前には、お前たちに勝ち目はないのだ」
アダムは再び生命の源を発動させた。
リリスは瞬時に反応し、狙われたマリアを突き飛ばす。
「っ!?」
マリアは間一髪で攻撃を回避した。しかし、代わりにリリスの右足が、光にさらされてしまう。
一瞬の出来事だった。
リリスの右足が、灰となり崩れ落ちる。
「ぐっ……!」
彼女は激痛に顔を歪める。それでも、氷魔法を撃ち続ける。
その隙を突き、マリアは渾身の八芒星魔術を放つ。
「これで終わりよ! 精霊解放!」
凄まじい炎の渦がアダムを飲み込む。マリアは精霊との契約を断ち切り、最大限の力を引き出した。
しかし、炎が消え去ると、アダムは再び無傷の姿で立っていた。
いや、生命の源によって、以前よりも力が増しているようだ。
「愚か者め! くらえ!」
アダムが放った混沌魔法が、リリスの左腕を捉える。
凄まじい威力によって、リリスの左腕が粉々に砕け散る。
「うわあああああっ!」
彼女の悲鳴が、南極にこだまする。
瀕死のリリスを守るように、マリアが必死の抵抗を続ける。
「精霊砕破!」
八芒星に宿る精霊が、アダムめがけて突撃する。
大量の魔力の一斉攻撃によって、アダムの動きが一瞬止まった。
「まだよ!」
その一瞬の隙を逃さず、リリスは残されたすべての魔力を込めて氷魔法を放つ。
巨大な氷の剣がいくつも出現し、アダムに降り注ぐ。
しかし、アダムは、その全てを受け止めてしまう。
「無駄だ。私の力が分からぬか」
アダムは嘲るように言う。
マリアの心に、絶望がよぎる。
しかし、彼女は諦めない。
「精霊転換!」
八芒星に宿るわずかな精霊の力を、炎から風へ、風から水へと次々に転換させ、アダムを倒そうと試みる。
だが、アダムは依然として無傷だ。不敵な笑みを浮かべている。
「ならば、これで終わりだ」
呟きと共に、彼の周囲に凄まじい魔力が渦巻く。
再び発動される生命の源。
マリアは全力で後退する。しかし、アダムの狙いはマリアではなかった。
傷だらけになったリリスへと、容赦のない攻撃が放たれた。
「がはっ……!」
魔力の奔流に飲み込まれ、リリスの体は一瞬で灰へと変わってしまう。
リリスが倒れた。
マリアの心は、絶望に打ちひしがれる。
それと同時に、リリスからかけられていたスキル〝絶対服従〟が解けた。
「ざまあみろ、この裏切り者!」
マリアは涙を流しながら、灰になったリリスを罵る。
そして、彼女はアダムと対峙した。リリスに支配されていたとはいえ、彼女の記憶は鮮明に残っているようだ。
マリアは最後の八芒星魔術を放つ。
「精霊砕破!」
しかし、それもアダムには全く効果がない。
「くそっ! ここでこのスキルを使ったら、私がダンジョンになってしまう。でも、蝕と連絡が取れれば、まだ可能性は残っている」
マリアは雪の上に膝をつき、呟く。そして、彼女はスキル〝|ダンジョンコントロール《ダンジョン・マスター》〟を使った。
マリアの身体から、まばゆい光が放たれる。次の瞬間、彼女は姿を消した。
そこに残されたのは、小さなダンジョンコアだけ。風に吹かれ、ダンジョンコアがコロコロと転がる。しばらくすると、ダンジョンコアは不自然な動きを見せ始め、雪原に沈んでいく。それと同時に雪原が硬化し始め、乳白色へと変化していく。ダンジョンでよく見る、あの独特な材質だ。
乳白色の大地は急速に広がり、アダムの足元まで迫る。
――バクン
地面から勢いよく飛び出した、巨大な嘴のようなものに、アダムは飲み込まれてしまった。
「蝕の力を思い知れ!」
マリアの声がどこからともなく響く。
「この世界最大のダンジョンコアの力か。ふふふっ、ふははは、あーっはっはっはっはっ!」
アダムは高笑いと共に、巨大な嘴の中で最後の生命の源を放った。
光に包まれた嘴は、干からびた枯れ枝のように、ボロボロと崩れ落ちていく。
「ははははっ! 愚か者め! 愚か者め! 愚かすぎる! あははははははははははは!」
嘴の中から現れたアダムは、高笑いしながら周囲を見回す。
しかし、彼の高笑いは、突然途絶えた。
「……何!?」
アダムの胸から、短剣の切っ先が突き出ている。
彼が振り返ると、そこにはリリスの姿があった。
「……まさか、お前!」
「甘いわ、アダム。あなたはバンパイアの王を気取っているけれど、スキル〝魂の叫び〟を忘れたの?」
リリスは冷たく笑いながら、ソル・エクセクトルを強く捻じった。かつて、ソータはこの短剣によって、命を落としかけている。
短剣の刃が生み出したゲートに、アダムの身体が吸い込まれていく。
「ば、馬鹿な……! こんな、こんなことが……!」
アダムは信じられない、と言いたげに叫ぶ。
しかし、もう手遅れだ。
ゲートの向こう側は、太陽の中心。超高温、超高圧の世界。
どんな力を持つ者であろうと、一瞬でプラズマと化し、消滅してしまう。
アダムの身体が、ゲートに飲み込まれていく。
奥深くから、彼の断末魔が聞こえてきた。
「ぐわあああああっ!」
やがて、ゲートは閉じた。
アダムの姿は、跡形もなく消え去っていた。
静寂が戻った南極大陸。リリスだけが、そこに立っている。
彼女は膝をつき、荒い息を繰り返す。傷だらけの身体から白煙が立ち上り、ゆっくりと再生していく。
「……私の勝ちね」
リリスは呟くと、よろよろと立ち上がった。
これから、仲間たちを蘇らせなければならない。彼女は無言で、スキル〝魂の叫び〟を使う。娘のダーラ、リリアとエドワード、そして六炎影の六人が、灰から蘇生する。彼らが身につけていた装備も、元通りだ。以前、ソータはこの現象を不思議に思っていた。
「母上さま、これは一体……」
「あのスキルと魔法、黙っていてごめんなさいね」
アダムに勝つことはできた。しかし、作戦会議では、アダムの持つスキル〝肥大化〟や、魔法の生命の源については、一切説明がなかった。
リリア、エドワード、そして六炎影の六人。彼らは疑問に思いながらも、真祖であるリリス・アップルビーに頭を下げる。感謝の気持ちを込めて。
「本来なら、何をやってもアダムには勝てなかったわ。でも、予想通り、魔女マリア・フリーマンが、いい仕事をしてくれたのよ。私たちはバンパイア。灰になっても、対策を講じなければ、必ず蘇るでしょう?」
リリスの言葉に、一同は愕然とする。
「母上さま……。マリアが必要だと仰っていたのは、八芒星魔術を使うためではなく、単なる時間稼ぎだったのですか……?」
「フフフッ、そうとも言えるわね。アダムと互角に戦えるだけの力を持つ者は、ソータ・イタガキだけ。今回の役割は、彼が適任だったわ。でも、彼に今死なれては困るでしょう? だから、彼の代わりにマリア・フリーマンを使ったのよ。それだけのこと」
リリスは涼しい顔で言い放つと、極寒の風に長い金髪をなびかせた。神々に復讐するという、魔女マリア・フリーマンの悲願は、真祖であるリリス・アップルビーの策略によって、潰えたのだ。
娘のダーラ・ダーソン。エドワード、そしてリリア。六炎影のメンバーたち。誰もが、リリスの手の上で転がされていたということに気づく。
しかし、リリスは気にする様子もない。彼女は静かに、暗い夜空を見つめている。これは終わりではない。新たな戦いの始まりなのだ。
南極の夜空の下、リリスは真剣な表情で、仲間たちに指示を出す。
「ここには、ラコーダとディース・パテル、そしてペルセポーネは来なかったわ。となれば、奴ら三柱は、地球か異世界、どちらかにいるはず。手を貸しに行ってあげましょうか、ソータ・イタガキに」
その言葉に、ダーラは嬉しそうに微笑んだ。
エドワード、リリア、六炎影の六人。彼らは以前、ソータと敵対していた。しかし、その後、リリスの命令により、ソータへの攻撃は禁じられている。そのためか、ダーラ以外のバンパイアたちは、複雑な表情を浮かべていた。
それでも、ソータを助けることに異論を唱える者はいない。彼らにとって、真祖であるリリス・アップルビーの命令は絶対なのだ。
「さあ、準備をしなさい。ソータのところへ行くわよ」
リリスの言葉に、一同は頷いた。
南極の極夜を後にし、一行はソータのもとへと向かう。
皆が転移しようとした、まさにその時だった。
「フハハハッ! 舐めるなよ!」
リリスたちの目の前に、突如としてゲートが開く。そして、アダム・ハーディングが姿を現した。しかも、彼は一人ではなかった。彼の背後には、混沌界の住人――つまり、バンパイアの神々が、ずらりと並んでいた。
アダムはリリスを鋭い視線で見つめる。そして、彼らは躊躇することなく、死者の都の南極へと進軍を開始した。万の軍勢を引き連れて。




