318 クロノスと、ディース・パテル
『そこか?』
黒霧徒は、鋭い眼光で俺を射抜くように見つめながら、頭蓋骨を砕くかのような強烈な念話を送ってきた。居場所は完全に掴まれており、左右に動く俺の姿を黒霧徒の眼球が追い続けている。
まるで世界の歯車が突如として止まったかのように、周囲の時間が停止した不可解な状況に陥っていた。風が止まり、動くと水の中のような抵抗を感じる。俺にできるのはせいぜい、対象の時間を停める程度だ。時間停止魔法陣を拡大すれば、広範囲にわたって時間を止められるかもしれないが、試したことはない。
ともあれ、あの黒霧徒が何を意図して、俺以外の時間を止めたのか、その理由を知りたい。
『そんなことは決まっておろう。貴様と話がしたかったからだ』
……思考を読まれたのか? この距離で? 背筋に冷たいものが走る。
まさか……。そうだとすれば、あの黒霧徒は、やはりデーモンの神に相当する存在だ。神界の神々と同等の力を有しているということになる。
『俺と話しても、何も得るものはないぞ。ところで、あんた誰?』
『ふははっ、我が名はディース・パテル。得るものはある。貴様に憑依しているクロノスと話をさせてもらおうか』
へぇ、冥界の神の登場か。想像していた姿とはだいぶん違う。その装いはヒト族と変わらず、高貴で高価な服を纏っている。一見、ジョージアの民族衣装チョハに似ていた。
つかこいつは何をとぼけたこと言ってんだ?
『時の神? そんなもんが俺に憑依しているわけがないだろ』
『嘘ではなく、本当に知らないようだな……』
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ディース・パテルが手をかざすと、ソータの時間が止まった。同時に、彼の隣にディース・パテルが転移してきた。
「おい、クロノス、無視してないで出てこい」
ディース・パテルはソータの顔を覗き込み、じっと見つめながら声をかける。しかしソータは微動だにしない。彼はそれを見て続けた。
「……あまり長い間、時間を止めておくと良くない。それくらいは分かっているだろう、クロノスよ」
ディース・パテルはクロノスをまるで知っているかのように話しかけている。切れ長の瞳はやさしげで、友と久し振りに出会ったかのようだった。
「……あなたが初めてね。見破ったのは」
時間の止まったソータ。彼の瞳がぎょろりと動き、口から女性の声で言葉が紡がれる。その部分だけ時間が動き始めたようにも見えた。
「くはっ! やはり戻っていたか! どうだ、我と共に討たぬか?」
「お断りするわ――――」
ソータの身体は、ぎこちなく動き始める。動かすのはソータに憑依したクロノス。元々は量子脳に憑依していたが、ソータが蒼天化した際に、精神と融合した。いつもはクロノスとして応じ、ソータに正体を隠している。
「断る? お前はひとりでカオスを倒せるのか?」
「あははっ、あたしのどこがひとりだって言うの?」
「……やはりその肉体か。いや、精神体の方か。たかがニンゲンと馴れ合いおって、時間の神としてプライドはないのか」
「あなたに分かるはずもないわ……」
クロノスの言葉と同時に、ディース・パテルの動きが止まる。ソータ――クロノスは悲しげな表情を見せていた。そして彼女は、この空間の時間停止を解除した。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
お? おぉん……? 何だこりゃ? 黒霧徒が目の前に立ってる。こいつ黒い立方体から出てきたばかりで、この場所から数キロは離れているってのに。ああ、転移してきたのか。いやいや、こいつの時間止まってんじゃね?
「おいソータ!」
「ああ、何だろなこいつ」
オルズの慌てた声は、もちろん目の前の黒霧徒を見たからだ。
「いやいや、これディース・パテル」
「はぁ? デーモンの神様がここにいるはずないだろ」
「マジでディース・パテルだって!」
「……ほんとに?」
「ほんとほんと」
オルズの言い方はマジだ。となると、敵の首魁が何でこんなところにいるんだって話になる。しかも身体中に時間停止魔法陣が貼り付けられているし……。俺はこんなに重ね掛けしないぞ。ああでも、これが本当にディース・パテルだとするなら、これくらいの時間停止魔法陣が必要になるかもしれない。
となると……。
『クロノス』
『ひゃいっ!』
『今から忙しくなる。あとで話を聞かせてもらうからな』
『分かりました……』
ションボリ声出してもダメ。どう考えてもクロノスが俺の身体を動かしたとしか思えない。
「どうすんの、これ」
スーツ姿で、黒眼黒髪のイケメン。カチカチに固まってるディース・パテルの肩をペチペチ叩く。
俺の言葉にオルズは慌てて応じた。
「その前に、いったい何が起きた?」
「わからん。けどさ、これがディース・パテルなら、デーモンの軍はどうなる」
読心術をブロックして考える。
クロノスのことを話すとややこしくなるから黙っておこう。すまんオルズ。
「そうだな……。これは神の軍勢で預かる。本当に時間が止まっているみたいだから、お前の関与が疑われると思う。そんときはちゃんと出頭しろよ?」
「まあそうだろうね。了解だ」
「すまんな……。んじゃ俺はこいつを届けに行ってくる」
「ああ、分かった」
会話が済むと、オルズはディース・パテルと共に転移魔法で姿を消した。
眼下に見えるデーモンの軍勢は、突然姿を消したディース・パテルを探している。黒い立方体は未だ健在で、黒霧と繋がってそうに見える。あれを放置すれば、ディース・パテル以外の黒霧徒が出てくるだろう。早めに何とかしておきたいところだが……。
破壊すれば何が起きるか分からないんだよな。あれ、冥導結晶だし。
時間を止めておこうか。
「お……」
黒い立方体の色が薄くなっていく。徐々に変化していき、透明に近づいた瞬間、存在が消えた。
それを見たデーモンが、さらに混乱し始めた。奴らにとっては、神の世界へ繋がるゲートが消えてしまった訳だ。そうなるのも仕方がない。
けど、立方体は何故消えた……? うーむ、考えても分からん。とりあえず依頼は達成したし、いったんバンダースナッチへ戻ろう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
バンダースナッチのブリーフィングルームへ戻ると、まるで使い古された人形のように、床に軍神デボンが無造作に転がっていた。周りには誰もいない。みんな休憩しているか、操縦室にいるのだろう。
えらく雑に扱われているけど、何でだ? 上半身むき出しなのは、捕まっているときに脱がされたのだろうか。引き締まった身体に怪我や痣はない。すでにヒュギエイアの水で回復済みのようだ。少し気になるのは、床や壁に凹みや傷があること。
「おい、デボン」
「……」
デボンは床に転がったまま目を開き、ダルそうな声で返事した。
「よおソータ、久し振りだな。……さっきの奴らはお前の仲間か?」
「さっきの奴ら? ミッシーたちのことなら、俺の仲間だ」
「ミッシーって緑色の髪の毛の奴だよな。あの尖った耳はなんだ? コスプレか?」
「コスプレ……? 何言ってんだお前は」
「いやいや、アメリカでもコスプレ文化は根付いてんだ。それくらい……知っている……ぞ」
「……」
デボンはダルい表情のまま、意識を失うように寝てしまった。あと、微妙に話がかみ合わない。デボンと直近で会ったのは昨日。久し振りって程じゃない。ましてや神界で軍神と呼ばれるデボンが、エルフの容姿を知らないわけがない。
そこでふと気づく。バンダースナッチ内部に、知らない気配があることに。それは後部の居住区からこちらへ近づいていた。
両開きの自動ドアから、ミッシー、マイア、ニーナが入ってきた。マイアはズタボロになった女性を引きずっている。その女性は息も絶え絶えで、今にも死にそうになっていた。
ただし、その女性から迎魔を感じる。状況からしてこの女性は、宮殿から連れてきた黒霧徒。つまりデーモンの神にあたる存在だろう。
「とりあえず状況の説明をしてくれないかな?」
「ああ、ちょっと困ったことになっていてな――――」
俺の言葉にミッシーが説明を始めた。
ミッシー、マイア、ニーナの三人は、黒霧徒と戦ったそうだ。一体目はエシュリオンという名で、すでに滅ぼしたらしい。二体目がこのズタボロの女性、シルヴァリス。彼女はディース・パテル直属の部下らしい。
そんな大物が何故ここにいるのかというと、シルヴァリスとディース・パテルの妻、ペルセポーネとの確執が原因みたいだ。
シルヴァリスは、ディース・パテル直属の部下。
ペルセポーネは、ディース・パテルの妻。
これを聞いただけで、面倒な予感しかしない。話を聞き進めると、やはり的中。ただの三角関係だった。
シルヴァリスは、ペルセポーネを排除する目的で、俺たちに協力を提案してきた。彼女はデーモンや黒霧徒の情報を提供することを条件に、ペルセポーネの排除に俺たちが協力することを求めているのだ。
分かりやすいけど、シルヴァリスがディース・パテルの部下であることに変わりはない。提案をいったん保留にし、ミッシーたちはデボンとシルヴァリスを連れて、バンダースナッチへ戻ってきたそうだ。
「うーん。そのディース・パテルは捕獲した。そのあと竜神オルズが、神の軍勢へ連れていったぞ」
「へっ?」
ミッシーはそれを聞いて動きが止まる。マイアとニーナも同じくだ。時間が止まった訳じゃない。三人とも唖然とした表情で、「あり得ない」と呟いている。
実際の捕獲は、おそらくクロノスの仕業だ。俺の意識が無くなって、以前のように身体を動かしたんだと思う。
「ほ、ほんとですか?」
マイアはディース・パテル捕獲が信じられないようだ。
「ああ、ほんとだ。んでさ、それ何したの?」
今さら感はあるけど、床に落とされたシルヴァリスへ目をやった。明らかに拷問されているんだけどなぁ……。ヒュギエイアの水も与えていないようだし、何やってんだよこいつらは。
「こ、これは、あたしのせいなんです……」
「というと?」
「実は――――」
シルヴァリスから話を持ちかけられ、マイアが乗ってしまった。ミッシーとニーナも、これは情報を得るチャンスだと思って、バンダースナッチへ連れてきたらしい。ただ、ここに転移してくると同時に暴れ始め、慌てて制圧したそうだ。
「……暴れた理由は?」
「……」
マイアは申し訳なさそうに下を向いてしまった。
「騙されたんですよ、シルヴァリスに」
代わりにニーナが答えてくれた。どうやら協力するという話自体が嘘だったみたいで、ここに到着するや否や、操縦室を壊そうとしたという。それで制圧か。ファーギとメリルとリアムで、いま現在修理中らしい。
バンダースナッチが墜落するほど被害が出なかったのは、ミッシーとニーナが警戒していたからだ。床や壁の凹みや傷は、シルヴァリスを制圧するときにできたらしい。
「マイア、誰だって失敗くらいするんだ。気にするな。ミッシーとニーナも」
ホッとする三人を見ながら、意識の無いデボンへ視線を移す。
「デボンはシルヴァリスに何かされているみたいだ」
ミッシーの声だ。詳しく聞くと、何らかのスキルで、デボンの持つ情報を抜き出されたらしい。その影響で、デボンの意識が不安定になっているそうだ。
シルヴァリスは黒霧徒、デボンは神。言っちゃなんだけど、彼らの戦争に加担する気はない。俺は今回、セレスト翁から依頼を受けて動いているのだ。エリス・バークワースの居場所を聞くために。
意識の無いデボンに、ヒュギエイアの水をぶっ掛ける。意識朦朧のシルヴァリスには、時間停止魔法陣を使った。
「ふたりはこれでよし。依頼達成の報告しにエルベの街へ行こう。デボンとシルヴァリスは俺が見ておくよ」
「ああ、分かった」
ミッシーはそう言って、マイアとニーナを連れて出ていった。
ブリーフィングルームには、俺とデボンとシルヴァリス。シルヴァリスは時間が止まってるから、実質ふたりの状態となった。
「おい」
「……」
寝転がってるデボンがスッと目を開ける。
「ラコーダとあれだけやり合ってたやつが、そんじょそこらのスキルで戦闘不能とかあり得ないだろ」
「……バレてたか」
「いや、俺じゃなくてもバレると思うぞ。寝たふりが下手すぎてさ」
「くっ」
デボンは起き上がって、少しよろめく。ノーダメージのくせに、わざとらしい。彼はよろめきながらパイプ椅子に座った。
「寝たふりしていた訳を聞かせてもらおうか」
「ソータ・イタガキ」
「なんだ」
「お前が気になったからだよ。アラスカの時から思ってたけど、何者なんだお前は」
「日本国の内閣官房参与だ」
「そんな事を聞いてるんじゃない。お前という存在は、いったい何なんだ」
「ニンゲンだと思ってるけど?」
さっきオルズに会ったときは忘れていたけれど、俺は神による読心術のブロックに成功している。デボンは必死に俺の心を読もうとしているが、成功してないようだ。ミッシーたち仲間に俺のことはだいたい話している。話していないのは、クロノスのことくらいかな。だからデボンが仲間の思考を読んだとしても、分からないはずだ。
『ソータさん、そろそろエルベに到着するっす』
リアムの念話だ。艦内放送を使わないところをみると、やはりデボンは警戒されているな。
『ああ、分かった。こっちからセレスト翁に連絡をしておく。発着場に着陸するように頼む』
『了解っす!』
念話が終わると、デボンからの視線を感じた。
「誰と喋ってたんだ?」
バレてるし。まあいいけどさ。
「どうでもいいだろ。それよりデボン、あんたをセレスト翁に引き渡す。あんたは死刑になるって聞いてるぞ」
「嘘をつくな。お前たちはセレスト翁から俺の救出依頼を受けているだけだ。報酬は希有な召喚師悪魔を支配するものの居場所だろ――――あっ」
「意外と抜けてんな、デボン。あんたが仲間の思考を読んでることがバレちまったぞ」
「ちっ……」
そんな顔しなくてもいいんじゃね? 簡単な引っかけにかかる方が悪い。
ちょうどその時、ゴトリと着陸する音が聞こえてきた。神界のエルベに到着したようだ。
「あんだけ街を壊したんだ。神様のルールに従って裁きを受けるんだな」
オレの冷たい言葉に、軍神デボンは下を向くしかなかった。




