313 つぶされた!
戦士スリオン・カトミエル。齢二千を超えるエルフの中でも屈指の長寿を誇る者だ。そのためか、エルフではあまり見ない、深いしわが顔に刻まれている。
若かりし彼は、ルンドストロム王国にて家族を失った。ひとり路頭に迷うこととなったスリオンは、国の保護を受けず旅立つ。
冥界の神、ディース・パテルを滅ぼすため、復讐の炎を胸に秘めながら。
そして彼はついに神界へと辿り着いた。
ここは神界のベナマオ大森林。ただし広範囲に渡って森が切り開かれ、軍事基地と化している。とはいえさすが神々の創った基地だ。足元は白い石畳で整備され、石造の建物が立ち並ぶ。
ソータがこれを見れば「街」と称するだろう。
スリオンは吹きすさぶ風を切って仁王立ちになる。眼前にはそびえ立つ白亜の神殿。周囲には神の軍勢たる白銀の鎧を纏った兵士が、戦の準備に忙しく行き来する。
「貴殿がスリオン・カトミエルか」
神殿の門番に問われ、スリオンは頷く。
「エンペドクレスに会いに来た」
「本人で間違いないな。通れ」
スリオンでさえ分からない魔法で本人確認され、彼は神殿の門を潜る。少し先には両開きの重厚なドアが見える。すると、そのドアが開いた。中から顔を出したのはエンペドクレスだ。
「久しいな、スリオン・カトミエル。入ってくれ」
知己のようだ。エンペドクレスは笑顔でスリオンを招き入れた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
スリオンは奥の小部屋へと案内された。森の中に急造して創られたとは思えない立派な部屋だ。白い壁には絵画が飾られ、本棚にはスリオンですら初めて目にする本が所狭しと並ぶ。
すべて白の家具で整えられ、全てが蒼天でできていることは疑いようがない。
スリオンとエンペドクレスは、センターテーブルを挟んでカウチに腰掛けた。
エンペドクレスの黒い瞳に金糸が煌めく。視線はスリオン・カトミエルを射抜き、重い口調で語りかける。
「妖精の神フロージから聞いておる。ついに神に到ったか」
「ああ。約束は忘れてないだろうな」
スリオンはぶっきらぼうに応じる。神を敬う気持など欠片も無い。
「もちろん覚えてる。スリオンが神に到ることができれば、力を与えると」
「どうするんだ? 儀式でもやるのか?」
「いや、もう済んだ。これで心置きなく、ディース・パテルを討てるぞ。アストリッド・ラーソン・ルンドストロム・クレイトンには、こちらから連絡しておく。スリオン・カトミエルは神の軍勢に加わったと」
スリオンはエンペドクレスの瞳を見据え、力強く頷いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
真祖リリス・アップルビーとダーラ・ダーソン少尉は、浮遊魔法にて上空に留まっていた。眼下に見据えるは、デーモンの軍勢だ。その数はおよそ百万。そこには地面を埋め尽くすデーモンが陣をはっていた。
ここは異世界であれば、元獣人自治区である。周囲を取り囲む切りたった山々は、異世界のそれと寸分違わず同じだ。しかし、獣人自治区にあった街並みや、巨大な壁のような防壁は見当たらない。ただの盆地だった。
「どう思う」
リリスはやさしい声で話しかける。娘に向かって。
「母上さま、あそこを見て下さい」
ダーラの指は、真っ黒なかたまりを差していた。
「……あれは」
「冥導結晶でできています、母上さま」
縦横高さ、一辺の長さは約五十メートル。それは冥導結晶で造られた巨大な立方体だった。
リリスとダーラは、デーモンに気づかれないよう、上空を旋回していく。黒い立方体から目を離さずに。天井と側面を見終わって、リリスが口を開いた。
「四つの壁に、それぞれ大きさの違うドア……。これはデーモンの大きさに対応しているみたいね。でも……」
首を傾げるリリスに、ダーラが声をかける。
「でも、どうしました?」
「三つは私の知っているデーモンの大きさと合致するわ。でもあそこ見て」
リリスの言う壁をじっと見つめるダーラ。彼女はそれを見て、何とも言えない顔で返事した。
「不定形のデーモン用で、小さな穴がたくさんある面。ニンゲンと同じ大きさのドアがある面。ラコーダクラスの大きなデーモンが出入りできる大きなドア。もうひとつは、何もありませんよね……?」
「いいえ、よく見てご覧なさい」
リリスに言われ、ダーラはぐっと目に力を入れた。しばらくすると、ダーラはハッとした表情でリリスへ顔を向けた。
「母上さま、あれは壁一面がドアになっている、という事ですか?」
「おそらくは……」
「何か物資を運び込むために、黒霧から神界へ続く、大きなゲートを作っているのでは?」
「魔導バッグがあれば済むわ」
「それもそうですね……。では、あれは何でしょうか」
「ふふっ……。あの大きさは、冥界の神、ディース・パテルを招き入れるためのものね。あそこを見て」
リリスが指差した方に、デーモンとは思えないほど清楚な女性が歩いていた。周囲には屈強なデーモンが守りを固め、さながら大名行列のような光景であった。向かっている先には、黒い宮殿が建っていた。
「あの女性は……」
「あれはおそらく、ディース・パテルの妻、ペルセポーネよ」
その女性からは冥導ではなく、迎魔が漏れ出ていた。
「つまり冥界の神、いや迎魔の溢れる黒霧徒が、すでにこの地へ……」
「そう。面白くなってきたわね。これなら神界のどこかに、私の標的、アダム・ハーディングが来ることもあり得るわ」
リリスは声が出ないよう肩を震わせて笑っていた。実に楽しそうな顔で。
母のそんな姿を見て、ダーラは眼下へ視線を移す。
神界にデーモンやバンパイアの立ち入りは許されない。それは規則などではなく、この世界が拒絶しているためだ。蒼天と反発し合う素粒子として、冥導、闇脈、迎魔が挙げられる。
それなのに、デーモンもバンパイアも存在できている。
ダーラは不安そうな顔で、空に浮かんでいた。
この地はすでに、蒼天の風は吹いていない。黒い立方体から溢れる冥導と、黒い宮殿から溢れる迎魔によって、別世界へと変貌しているのだ。
その影響は神界全体に及んでおり、ラコーダを筆頭に、冥界のデーモンや、真祖リリス・アップルビーの存在を許す結果となっていた。
「あれっ? 母上さま、ペルセポーネの姿が消えました。転移魔法を使ったようです」
黒い宮殿へ向かっているペルセポーネに、一体のデーモンが耳打ちをした。すると彼女はあわてふためき、周囲のデーモンを召集し、姿を消したのだった。
「あら……。そういえばダーラ、あなたさっき、ラコーダと軍神デボンが戦ってるって言ってたわね」
「は、はい。たぶんソータくんが仕留めたと思うんですが……」
「まさか。ラコーダは私に近い力の持ち主よ? やられるにしても、滅んではないはず。でもねぇ……、ペルセポーネの慌てようからすると、それに近い事態が起きたのかもしれないわね」
ダーラの不安げな表情に対し、リリスは華やかでかわいらしい笑顔を浮かべた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
軍神デボン。彼は神界から地球へ渡り、長きにわたって人類を観察してきた。滅びゆく惑星の行く末を見極めるために。そして彼は地球を見限った。地球人は、救いようのない種であるとして。
後は野となれ山となれ。ただ成りゆきを見まもって、人類が自滅するのを待つばかりとなっていた。
ところが彼の前にソータが現れた。軍神デボンから見れば、明らかに地球の技術で改造されたヒト種だった。拙い魔力の操作、世界に対する無知さ。それでいて理解力、適応力、応用力と、様々な点で優秀な素質を持つ人材だった。
「はっ、あんときゃ生意気な小僧だったのによ……。地球の科学も、捨てたもんじゃねえってことか」
デボンは神界のベナマオ大森林を駆け抜けていた。エンペドクレス率いる神々の陣地を目指し、転移魔法を使わず追跡を避けながら進む。先を行くスリオン・カトミエルの痕跡を、デボンは慎重に辿っていた。
とはいえここは森だ。エルフの駆ける速度に追いつけるはずもなく、デボンは大きく引き離されていた。それに、ここが神界であったとしても、森である。当然そこには獣が出てくることもある。異世界であれば、神獣と呼ばれる存在である。神界の住人にとっては、ただの獣だが。
その獣がデボンの前を疾走している。
「くそっ! ……面倒な奴が出てきやがった」
しばらく前から森の獣、幻影狼がデボンと併走していたのだ。この狼は通常、単独で行動する。しかし、デボンの周囲に、百を超える狼の息遣いが聞こえていた。
「どいつだ……」
走る速度を落とさず、デボンは気配を探る。幻影狼はその名の如く、自身の幻影を百体も創り出す。しかし、ここで問題になるのが、幻影が幻影でなく実体を持っていることだ。姿形はもちろん見分けがつかない。当然、咬まれれば血が出る。
だが、デボンは軍神とまで呼ばれる存在だ。その彼が面倒だというに値する能力が幻影狼にはあった。
幻影狼本体が生みだした幻影にも、幻影を創り出す能力があるのだ。
そのため幻影狼一体が出現すると、一万体もの幻影狼を相手にしなくてはならない。
すでにデボンの周囲には、森を埋め尽くす数の幻影狼が併走していた。魔法で藪を燃やし、木々を切り倒し、走りやすいように道を作ってゆく。デボンの前には森が続き、道はない。幻影狼の移動速度は、デボンを完全に上まわっていた。
神界における獣とは、当然その世界に準拠した強さを持つ。軍神とは言え、デボンも神界の住人。有り体に言えば、ヒトが狼の群れに襲われて助かる訳が無いという事だ。
「くっ!?」
十体の幻影狼が飛びかかってきた。蒼天障壁を纏った姿で。
デボンは爆裂火球を放つも、ダメージは与えられず。ただ吹き飛んでいっただけだった。
そして彼は気づいた。正面の森が途切れていることに。これは幻影狼が先回りして、木々を切り倒した結果である。結果デボンは、見通しのよい広場へ飛び出す形となった。
「仕方がない。転移して逃げ――ぐおっ!?」
幻影狼はデボンを逃さぬよう、転移魔法が発動する前に総攻撃をはじめた。
ただ、デボンも蒼天障壁で、直撃を避けている。幻影狼の噛み付きごときでは破られることはない。
「爆裂火球に障壁か……。さっさと倒さねえと、他の獣が寄ってきちまう」
魔法を使えば、周囲に知れ渡る。身を守るために使った魔法は、さらなる獣を呼び寄せる結果を招いていた。
軍神デボンは目を閉じて静かに佇む。諦めた訳ではない。彼の周囲に貼られた蒼天障壁はぶ厚く変化していた。幻影狼が咬もうが引っかこうが、びくともしない。
「ここまで魔法を使っちまったんだ。色々と俺の居場所がバレただろうな。転移で逃げてもいいけど、一万の幻影狼を放置することもできない」
そう言いながらも、デボンは目を閉じて集中する。
周囲の幻影狼は、好機と捉えて総攻撃をはじめた。通常ならば噛み付きだが、蒼天魔法を使い始めた。そこまで巧みではないが、土火風水と四つの属性魔法を駆使して、集中砲火を浴びせる。
相手はただのヒト族であり、彼ら狼にとって獲物に過ぎない。神界という同じ世界に住んでいるのだから当然だろう。
しかし、軍神デボンのぶ厚い蒼天障壁を破ることができない。幻影狼は更に火力を上げるため、蒼天の使用量を増やした。軍神デボンの姿は、爆煙や土煙で見えなくなってゆく。
――――スコン
爆音など様々な音が混じる中、異音が混じった。
「油断したな、幻影狼。あまり時間を食う訳にもいかないのでね……」
一体の幻影狼が、痙攣を起こして倒れる。その額には、デボンが投げたナイフが深く突き刺さっていた。その刃は幻影狼の脳にまで達し、そして、命を奪った。
次の瞬間、万の幻影狼が姿を消す。
デボンは見事、万の中のひとつを探し当て、確実に息の根を止めたのだった。
蒼天障壁は残っているが、そこにデボンはいない。倒した幻影狼のすぐ側に立っている。彼は爆煙に包まれた瞬間、転移して脱出。幻影狼本体に攻撃を仕掛けたのだ。
「ふぅ……。さっさと陣地へ行かないと」
デボンはラコーダとの戦いのときより疲れた表情を見せている。額の汗を腕で拭い、陣地の方を見据える。日は傾いてすでに夕方。一気に転移すれば、陣地の位置がバレてしまうので不可である。走るしかない。
紛失すれば大変なことになる魔導バッグを確認し、デボンは腰を落とす。さてこれから走るぞ、というタイミングで声が掛かった。
「あらぁ、見つけましたわ。さすがに目立ちすぎですわよ?」
どこからともなく現れたペルセポーネ。その気配を察知できなかったデボンは警戒して腰を落とす。
「おい、名乗れ」
「わたくしは、ディース・パテルの妻、ペルセポーネです」
「くっ!? 何でそんな大物が……」
デボンは思わず後ずさるも、同じ速さでペルセポーネが距離を詰めてきた。
「あなた、交渉ごとは苦手のようですね」
「はあ? 交渉も何もやってないだろうが!」
「いえいえ、わたくしの名を聞いたところで、あなたは魔導バッグを見ましたね。……そこに大事なものが入っていると教えているようなものですわ」
「知らねえ奴が急に現れりゃ、警戒するのが当然だろうが!」
そう言いながらもデボンから汗が噴き出していた。彼はペルセポーネが現れてから、ただの一度も瞬きをしていない。すれば命を取られる。それくらいの圧力を感じていた。
ペルセポーネから黒い霧が噴き上がる。それはデボンの反応速度を超えるほど早く、彼は転移するタイミングを失った。暗闇に包まれ、上下すら分からない状態に陥ってしまったためだ。
「くそっ!」
デボンは転移魔法を使った。転移先の座標が定まっていないのに。
――――ゴッ
「あら。何をやってらっしゃるのかしら」
ひどく鈍い音を立てて、デボンが転がり落ちてきた。ペルセポーネの足元に。
ペルセポーネの黒霧がデボンの転移魔法を遮ったのだ。
頭から血を流して意識朦朧のデボン。彼はそれでも足掻く。この場から離れなければならないと。魔導バッグに仕舞っている、ラコーダを奪われる訳にはいかないと。
「ふふっ……」
足元でイモムシのように這うデボンを見下ろし、ペルセポーネは恍惚とした表情を浮かべる。
「さあ、少し楽しみましょうか……」
ペルセポーネの唇が妖しく歪んだ。
黄金色に染まった空の下、迎魔が渦巻く大地から、骨を砕くような音と共に、凄まじい絶叫が響き渡った。




