310 神界のエルベ
地上へ転移し、改めて神界のすべてが、何と繊細で清らかであるかと痛感する。その美しさは、言葉で表すにはあまりにも難しいほど善美である。
バンダースナッチからの眺望では、惑星自体が蒼天の結晶だと明白だった。さらに、かすかに見え隠れする月からも、強烈な蒼天の波動を感知できた。
本来であれば、神界の空気を一吸いしただけで、デーモンなど容易く消滅するはず。だが、ゴヤたちの一件で、デーモンが神界に足を踏み入れているという事実が判明した。
神界における神々の戦争だと聞いていたが、まさかデーモンがいるとは。
もしかすると、ダンピール化したドワーフの四人が神界の空気を吸っても滅ばない可能性が出てきた。
最近知ったことだけど、デーモンには多種多様な種族が存在する。黒い粘体で、あまり動けない奴。それが宿主に取り憑けば、自在に動くことができる。宿主の姿を保ったまま。
他にはワニのような顔を持つデーモン。人間の形をした灰色のデーモン。そしてレブラン十二柱に数えられる者たちは、宿主に取り憑くことなく実体化する能力を有している。
その中でも最も強力な存在がラコーダだ。奴は十五メートルもの巨躯を誇る。あれだけでかいともう怪獣と称しても過言ではない。
俺はいま、エルベの街の外れで草むらに身を隠している。もちろん状況を確認するために。しかし城壁で覆われた街の中は見えない。
浮遊魔法で空から見るという手もあるが、おそらくスリオン・カトミエルに発見されるだろう。宇宙にいるバンダースナッチを狙い撃ちしたくらいだし、姿を消した俺を味方だと判別しない可能性が高い。そうなると面倒なので、地上から街を確認したいのだが……。
他にも気がかりなことがある。外壁の門から、街の住人たちが次々と姿を現しているのだ。彼らは北へと続く広大な街道を歩いていく。異世界であれば、その方向にはロムニー共和国が位置しているはずだ。しかし、何か違和感がある……。
そうか、違和感の正体が分かった。神界の住人たちは、異世界から見れば――つまり俺から見れば神々である。そんな彼らが街を追われ、しょげた顔して歩いているからだ。それが違和感の原因だ。彼ら神々が団結すれば、ラコーダなど容易に打ち倒せるはずだ。なぜ彼らはそうしないのか。
個体差かな? それくらいしか思いつかない。
城壁内からの騒音が途絶えた。おそらくラコーダとデボンは膠着状態にあるのだろう。今が探る絶好の機会だ。
いつもの魔法陣の組み合わせを施す。気配遮断、視覚遮断、音波遮断、魔力隠蔽、冷却魔法陣、加熱魔法陣を自身に施し、姿を消す。そして、避難する神々の近くへと転移した。
「とーちゃん、おうち壊れちゃったね……。これからどこに行くの?」
「パパの実家へ向かうんだ。お前はママと離れないでいなさい」
「アスクレピウス様は来ないの?」
「いまは出陣中だから、助けに来るのは難しいかもしれない。デーモンは狡猾だからね。街が手薄になったところを狙われたんだよ」
三人家族の会話を耳にした。見た目はヒト族で、両親は農夫のような服装をしている。五歳くらいに見える男の子は、デニムに白いシャツを着ていた。「彼らは地球人だ」と言われても違和感はない。男の子は涙ぐんで、いつ泣き出してもおかしくない様子。それを見かねたのか、母親は息子を抱きしめた。
その家族とはそこそこ近い距離にいるが、姿を見せるつもりも、助けるつもりもない。騒ぎになって事態を複雑にすることは避けたい。
しかし何となく理解できた。神界に住んでいるからといって、全員が蒼天を使いこなせるわけではない。話を聞いた三人家族からは、ほとんど蒼天を感じ取ることができないのだ。
やはり神界であっても、個体差があるのだ。
勉強の得手不得手。運動の得手不得手。魔法の得手不得手。神界の住人も、異世界人や地球人と変わりない。
他の住人を見ても、ほとんど蒼天を感じ取ることはできない。おそらく蒼天の使い手たちは、戦争に駆り出されているのだろう。
ひとつだけ疑問に思う。街を守るための兵力を出しすぎじゃないのか? この街には城壁があり、平時から危険が伴うと予想される。何から街を守っているのかは定かではないが。
これらのことから、街にはラコーダとデボンに対抗するだけの戦力が不足していたと推測できる。女神アスクレピウスが出陣していることも明らかになった。その女神アスクレピウスは、異世界で最大の広さを誇るブライトン大陸に多くの信者を持つ。神界では統治者、あるいは最高司令官である可能性が高い。
アスクレピウスと、その従者であるマカオ。ふたりがいつもいるあの神殿もこの街のどこかに存在するのだろうか。いや、あそこは神威の世界だから別だろう。
分かりやすいのは円形闘技場だ。あそこでは裁判官のエンペドクレスが俺の魔法を制限した。ここには無いようだが、いずれ目にする機会もあるはずだ。
そんなことを考えながら、他の避難民――いくつかの家族から話を聞き終わって、俺の推測が正しいと確信できた。
予想通りというか何というか……この世界は神界と呼ばれているが、彼らは神でも何でもない、ただの住民だ。神々のように振る舞っているのは、その一部。蒼天の扱いに長けた者たちだ。
まあそうなるのも仕方がない。力あるものが上に立つのは世の常。覆しようのない事実だ。
異世界の魔素と比較すると、二段階上の力を持つ神界の素粒子、蒼天の方が強力だから。
たった二段階の違いであっても、魔素を使う異世界人から見れば、神の奇跡のように映る。
素粒子の順番をビルの階層に振り分けると分かりやすい。
異世界と地球は一階。神威の世界は二階。神界が三階だ。
対して、冥界は地下一階。おそらく死者の都も地下一階。いわゆる鏡の世界だ。異世界と同じ地形で、同じ建物が出現する妙な法則がある。
そして迎魔の溢れる、黒霧の世界。ここは地下二階。冥界で神と崇められる、ディース・パテルが住む世界だ。
これ以上は正直言って、まったく分からない。十八の多世界解釈と地球を合わせて十九もある……。順を追うごとに素粒子の力が強くなるので、それらの世界に住む住人もとてつもなく強いに違いない。絶対にゲートを開かないようにしなければ……。
今度オルズに会ったら詳しく聞いてみよう。というか、死者の都に行ったまま帰ってこないな。せっかく神界に来てるっていうのに。まあそれは今度でいいか。
いまやるべきは、エルベの街を破壊しまくっている奴らを何とかすること。
ラコーダ。デボン・ウィラー大佐。スリオン・カトミエル。いったんこいつらを何とかしよう。
街を囲む城壁の向こうから、絶え間なく続く破壊音。再び戦闘が始まったようだ。なんでわざわざ街中で戦うのか。それを確かめるため意を決し、俺は城壁の上に転移した。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
エルベの街はそんなに大きくない。十万人都市くらいかな。だからなのか、街の建物はすでに半分以上が破壊されていた。リアムがここを発見して、まだ一時間も経っていないにもかかわらずだ。
周りには誰もいないので、城壁に腰掛けて目を閉じる。
エルベの街には、まだ住民がたくさん残っている。彼らに害を及ぼさないように気を付けなければ。
集中して気配を探ってゆく。
ラコーダ。
デボン・ウィラー大佐と、ダーラ・ダーソン少尉。
スリオン・カトミエル。
全員の位置を確認。
ダーラはおそらく地球人だ。そんなに強い気配を放っていない。しかしそれ以外は強い。俺はラコーダと戦って負けそうになり、デボンの乱入で助かった。そのデボンもラコーダに押されていた。ただし、スリオン・カトミエルの助力により、戦いが拮抗している。
……ん? ダーラの気配が消えた。彼女は転移魔法が使えたのか? 気になるので気配探知を広げてゆく。すると、地下で大きなざらりとした気配に触れる。ダーラの気配もそこにある。
この感触、久し振りだな。この街はダンジョンの上に建てられていた。この世界は全て蒼天を放っているので、街の地下にダンジョンがあると気づけるものは少ないだろう。
ダンジョンの上に街ねぇ。どこも考えることは一緒か。流刑島のアビソルス。ニューロンドンの蝕。双方の街は共にダンジョンコアからの恩恵を受けていた。
そうなるとこの街も、ダンジョンマスターがいて、ダンジョンからの恩恵を受けているに違いない。
しかし街の人びとが逃げ出している。つまり、ダンジョンを操作するダンジョンマスターがここにいないってことだ。街を修復する命令も出していないと見える。
ダーラの気配はどんどん地下へ降りていく。すんなり進めているのは、ダンジョンに出没するモンスターがいないからだろう。
地上での戦いは、またしても膠着状態に陥った。ラコーダ一体と、デボン、スリオンの二人。一対二で互角か。
ここでデボンに加勢するか。……いや、危険度で言えば、ダンジョンの地下へ向かったダーラの方が高い。彼女が何をするのか分からない以上、接触して話を聞かなければ。俺は彼女の座標を確認し、転移魔法を使った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
転移先のダンジョンは、よく見る白い通路だった。
「きゃっ!?」
「やあ、ご無沙汰」
ダーラの目の前に転移したので、銃を向けられた。これは俺が悪い。ものすごくビックリしているし。しかしさすがアメリカ軍人。敵ではないと判断して銃を下ろすまでの動作が早かった。彼女は怪我も無くピンピンしている。それを見て一安心。
ダーラは困惑していた。彼女は冥界の帝都エルベルトで、俺の姿を確認しているはずだ。ラコーダと俺は戦っていたからね。そこに乱入してきたのは彼女の相棒、デボン・ウィラー大佐だし。
バンダースナッチへ向けて「こっちくんな」とモールス信号を送っていたのも彼女。俺が神界へ来ているとは思わなかったのだろう。
ただし、デボンもダーラも、その行動から完全に味方だと思えない。情報開示には気を付けなければ。
「ど、どうやってここへ……」
「神界にもダンジョンがあるって、気になってさ。そこにダーラがいれば尚更でしょ」
「……邪魔しに来たわけではないと」
「さあ? 街の人びとに危害を加えるとか、そんな話なら全力で止めるけど」
「まさか。あたしは、ラコーダを倒すために、ダンジョンコアの力を借りに来ただけよ?」
「そっか。それなら俺も同行させてくれ」
「え……、ええ、分かったわ」
もっとごねるかと思っていたけど、あっさり承諾されて拍子抜けする。
デボン・ウィラー大佐とダーラ・ダーソン少尉には、いくつかのスキルを付与した。正直なところ、デボンには必要なかったが、ダーラには有用だったようだ。彼女はスキル〝超加速〟を使用して、あっという間に最深部に辿り着いた。
ふたりしてダンジョンコアルームの前に立ちすくむ。俺たちはダンジョンマスターではないので、ドアが開かないのは当然だ。
どうするのだろう。そう思ってダーラを見ると、彼女も俺に顔を向けた。
「ダーラさあ、もしかしてノープランでここまで来たの?」
「……」
下を向いて顔を赤くするダーラ。ここから先は、ダンジョンマスター以外は入れないと失念していたようだ。
「だいぶん焦ってたみたいだね。デボン・ウィラー大佐を援護するため、ダンジョンの力を借りに来たんだよね?」
「……」
おや……、違うのか? でもダーラは、ラコーダを倒すために、ダンジョンの力を借りに来たと言っていた。その言葉に嘘はないはず。
「まあいいや。ラコーダを倒すのなら、俺も手伝わせてほしい。さっきやられっぱなしだったけどさ」
「あ、ありがとう」
ばつの悪そうな顔で答えるダーラ。無理矢理笑顔を作らなくてもいいのに。
彼女から正面のドアに目を移し、軽くノックする。当然返事はない。ここにダンジョンマスターがいれば、何か反応があるはず。となるとダンジョンマスターは、ここにいない。誰かすら分からないときた。困ったな。
よし。ちょっと試してみよう。
「おーい、ダンジョンコア。あんたのマスターからどんな指示を受けているのかは知らないけれど、地上でデーモンが暴れて、街が壊滅状態になっているんだ。ヒト族のデボン、エルフのスリオン、二人で何とか被害の拡大を抑えているみたいだけど、このままでは地上が更地になってしまうぞ?」
『マスターから指示がなければ私は動けない』
ダンジョンコアから念話が届いた。ダーラの顔をチラ見すると、少し不機嫌になっていた。彼女にも念話が届いたのだろう。猛然と言い返した。
「ちょっと、分かってる? このままラコーダが暴れてたら、街が無くなっちゃうのよ? 地上部分もダンジョン化して手伝って!」
『お断りだ。街よりも重要なものを守ってるからな』
まあそうなるわな。ダンジョンマスターに厳命されているのなら、俺たちが何を言っても無駄だ。さっさと地上へ戻って、ラコーダを成敗しよう。ついでに、デボンとスリオンもぶっ飛ばそう。
「いいから開けなさい!!」
「うおっ!?」
ダーラの大声で驚いた訳ではない。彼女から闇脈が吹き出したからだ。そして彼女はバンパイアのスキル〝霧散遁甲〟をつかって霧化。ドアをすり抜けて中へ入って行った。
「……」
絶句とはこの事だろう。ひとり残されて、言葉が出ない。
ダーラ・ダーソン少尉はバンパイアだった。衝撃の事実が俺の脳裏に刻まれる。
しかし彼女から冥導を感じたことはない。……そうなると、彼女と初めて出会ったときからデモネクトスを飲んでいることになる。そんなに前からデモネクトスを入手していたのか。
まったく気づかなかったな……。まあ、敵対しなければいいんだけどさ。
「ちょっとソータくん、入ってきて!! 説明するから!!」
ドアがスライドして、ダーラが顔を出す。説明って何だ。言い訳の間違いじゃないのか……。
そんなことを考えながら、俺はマスタールームに入った。




