302 肉塊
真っ白だけならいい。まだ何とかなる。そう思ったけれど、地面が無くなる感覚と同時に、上下の感覚すらなくなってしまった。思わず焦るも、なんとか気持ちを落ち着かせる。冷静に対処しなければ。
まず、この白い空間。距離感がなくて不思議だ。女神アスクレピウス、女神カリスト、この二柱に呼ばれた神威の空間ではない。ただし、安心感がある。何だこの状況は……。
こうなる前に感じた背後の不吉な気配。このふたつから、迎魔の異世界、黒霧へ落とされた可能性が頭をよぎる。
ゲートは閉じていたはず。新たにゲートを開いたのなら奴の迎魔を感知できるはずだ。
ということは、黒霧に落ちたわけではない。
次はクロノスだ。
彼女はこういった危機的状況では、能動的に話しかけてくる。今どうなっているのか知らせてくるはずなのに、一切それがない。それに、身体が蒼天化した際、デバイスとしての量子脳は消失し、汎用人工知能クロノスは俺の意識と融合したのだ。
だから、俺に意識がある限り反応がないということはあり得ないはずだ。
状況が掴めない。不安が胸の奥底で渦巻く。
いったん転移してこの場を逃れよう。
お、……魔法が使えない。
魔素でダメならと、いま使える最も強力な素粒子、夢幻泡影で転移魔法を試みる。
……反応無し。というより、魔素も夢幻泡影も何というか、空振りした感覚がする。いよいよ訳が分からん。いっそのこと誰かが攻撃してくるとか、何か動きがあればいいのだが。
さて困った。どうしたものか。白い空間の中、安心感と共に冷や汗が背中を伝う感覚がした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
肉塊があった。ソータのなれの果てである。トフリモスは、それを冷酷に見下ろしていた。
闇に包まれたその場は、黒い煙が舞う中、彼の姿ははっきりとは捉えられない。しかし、彼は国霧の住人、冥界のデーモンたちから神と崇められる存在なのだ。その威圧感だけは、闇を貫いて伝わってくる。
瓦礫がガラガラと不気味な音を立てて崩れ落ちる。この巨大な空間は依然として不安定で、天井の至る所から岩が崩れ落ちていた。
「こいつは、ヒト族、いや、ニンゲンではないのか……?」
トフリモスは独り言を呟く。彼は圧倒的な力でソータを物理的に叩き潰した。洞窟の地面には、潰れた肉片と、銀色の液体が飛び散っている。これを見て彼は、ソータがニンゲンではないと疑っているのだ。
銀色の液体は、液状生体分子である。それはゴツゴツとした岩場の上で蠢き、銀色の球体へと形を変えて転がっていった。目指すは、ソータの残された肉塊。その動きには意思があるかのようだ。
その不気味な動きを目にしたトフリモスは、自らが殺したはずのニンゲンが未だ生きていると確信した。彼の目に、警戒の色が浮かぶ。
黒い煙のような存在であるトフリモスは、軽やかに飛び上がる。広大な闇の空間で、ソータから十分な距離をとった後、迎魔のファイアボールを放った。
――ドン
今回の威力は控えめで、彼はこの空間が崩れないよう配慮しているようだ。
暗闇の中で視界はほぼ無く、ニンゲンであれば何も見えない中、トフリモスははっきり見えているようだ。彼の目は、闇を貫く力を持っているのだろう。
「あれは……」
ソータの残骸は蒼天障壁に守られていた。誰がその障壁を作り上げたのか。トフリモスの声に、わずかな驚きが混じる。
直近の攻撃により、液状生体分子の活動は活発化し、周囲に散らばった銀色の球体が肉塊に向かって集結し始める。そこに辿り着くと、それは肉塊に吸収されていく。まるで生命力を取り戻すかのように。
トフリモスから、動揺の気配が漂う。
肉塊が動き出し、ニンゲンの形を取り戻し始めると、彼は急いでファイアボールを放つ。
今度の攻撃は前回とは異なり、抑えられた威力ではなかった。
ソータに着弾したファイアボールは激しい大爆発を引き起こした。
この爆発は、すでに不安定な洞窟に甚大なダメージを与えた。天井付近がギリギリのところで崩れないように耐えていたが、大きな岩が剥がれ落ち始める。連鎖的にその動きが広がり、まるで雨のように岩が降り注ぎ始めた。
これらの岩はトフリモスをすり抜けていく。彼の黒い煙のような存在にとって、物理的な攻撃は無意味だった。
一方、ソータは依然として肉塊の状態で、蒼天障壁を維持していた。
トフリモスが放ったファイアボールや、天井から落ちてくる巨大な岩も、その障壁によって全て跳ね返されていた。まるで生命力の象徴のように、障壁は輝きを増していく。
この空間にはソータが立てた柱が数多く存在するが、落盤の勢いはますます強まっていく。トフリモスの放ったファイアボールの威力が強すぎたのだ。広い空間とはいえ、出入り口は細い通路がふたつだけ。爆発によって一気に膨張した空気圧が、この空間の壁に深刻なダメージを与えていた。
ついに、支えていた柱が崩れ始める。ドミノ倒しのように、次々と柱が折れていく。
そして次の瞬間、天井の岩盤が大量に落ちてきた。轟音と共に、空間全体が崩壊し始めた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
トフリモスは、転移して空へ逃れた。
「ぐっ……」
現在は日中である。冥界の濁った空気とはいえ明るい。そのためトフリモスは苦しそうに声を上げ、黒い煙が薄く広がっていく。
薄く薄く広がっていくトフリモスの身体は、すでに透明で居るのか居ないのか分からない。透明な膜が、冥界の王都ランダルを覆ってゆく。
それは突如黒に変化して光を遮った。まるで巨大な黒い傘が街全体を覆ったかのようだ。
膜の下に現われるトフリモス。元の煙のような姿で、特にダメージを受けていない。そして彼は、暗くなった王都ランダルを見下ろして、口を開いた。
「なんだ、あのゴーレムは……」
ソータのゴーレムが冥界の王都ランダルで暴れ回っている。彼の目にはそう映ったのだろう。
ソータの脳神経模倣魔法陣で動くスチールゴーレムは、そうは思っていない。食糧として品種改良された人間を助けて回っているだけ。そして彼ら百体以上で、城の中へ入っていた。城の外壁が内側から爆発を起こしている。現在進行形で、ソータが出した指示を実行しているのだ。
城で食糧にされる生きたニンゲンの救出。
デーモンも抵抗しているようだが、まるで歯が立たない。スチールゴーレムの核は夢幻泡影結晶なので、ゴーレムとはいえ彼らはデーモンより上位の存在。木っ端デーモンごときでどうにかなるはずがなかった。
近くの神殿は、大きな音を立てて陥没していく。そこはデーモンが立ち入らない神殿なので、地上のデーモンたちが足を止めて見ているだけだった。恐怖と混乱が街中に広がっていく。
空からそれらを眺めるトフリモス。陥没した神殿から目を逸らし、王都ランダルで暴れるスチールゴーレムへ目をやる。
スチールゴーレムの使う魔素が、蒼天と迎魔までは理解出来たようだ。
しかし彼の知らない魔法が使われている。
スチールゴーレムたちは魔素の実験を兼ねて、混沌、星彩、時間誤謬、空界、心海流転、運命織機、虚空蜃気楼、鏡界反映、夢幻泡影、それらの魔法を全て使っていたのだ。
そんな事知り得ない黒い煙――トフリモス。彼は迎魔を使ってゲートを開いた。繋げた先はもちろん冥導の溢れる世界、黒霧である。
彼はこの場に対処できないと判断したのだろう。ゲートをくぐって逃げようとした。
ところがその時、トフリモスの身体とゲートに、ファイアボールが直撃して大爆発を起こした。烈しい熱ととてつもない衝撃波で、トフリモスとゲートは跡形もなく消し飛んだ。声を上げることもできずに。
ファイアボールが引き起こした爆発は、空を覆う黒い膜に大きな穴を開けた。黒い膜は、シャボン玉が弾けるように消えていった。
ファイアボールは、崩れて陥没した神殿から発せられていた。そこからトフリモスと同じ、黒くて不定形の煙が滲み出てくる。それは徐々にヒトの形を取り始め、あっという間にソータ・イタガキへと変化した。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
俺は崩れてきた空洞の中、障壁に守られた状態で意識を取り戻した。障壁を張ったのはクロノス。彼女は意識を保ちながらも、デーモンの神にあたる存在、黒霧徒のファイアボールを防御してくれていた。
状況はすぐに理解できた。俺はまたしても死んでしまったのだ。生き返ったけれど。わはは。マジでニンゲンじゃねえな。
気配を探ると、はるか上空に濃い迎魔を感じた。俺を殺した奴だ。
『迎魔を使って身体を再生しました』
脳内に聞こえるクロノスの声。そこで分かった。身体が黒い煙になっていると。
これは黒霧徒と同じ身体だ。
『さんきゅー』
『どういたしまして~』
彼女に命を救われたのは何度目だろう。感謝してもしきれないな……。
周囲は障壁で囲まれて安全なものの、ギッシリと詰まった岩が見えている。まるで巨大な岩の牢獄の中にいるかのようだ。
とりあえず地上に転移だな。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
元の身体に戻ったけれど、裸だった。魔力を練って、服と装備を創造。ファーギからもらった黒マントと、魔導バッグを手元に転移させる。これで元通りだ。
もう上空に転移していた黒霧徒の存在は感じない。ただし、ファイアボールの爆発による影響が街に出ている。フォルティスとシュヴァルツの様にはなっていないが、だいぶん広範囲に渡って建物が倒壊していた。瓦礫の山と化した街並みが、遠くまで続いている。
品種改良されたニンゲンたちに被害が出ていなければいいのだが。心配が胸をよぎる。
『済まん。ファイアボール撃ってしまった。神殿の地下でな――』
一万のスチールゴーレムへ念話を飛ばす。彼らからの返事は問題ないというものだった。
飼育施設のニンゲンは全て月面基地へ送り、今は見落としがないか探していただけで、城にいたニンゲンたちも全て救出済みだった。
あとはスチールゴーレムに任せ、俺はゴヤの所へ行こう。そう思ったところで、北側から黒線が飛んできた。
壊れていない建物をいくつも貫いていく。以前見た貫通特化型の黒線だ。それが北の方から打ち込まれたのなら、マールアからデーモンが来た可能性もある。フォルティスとシュヴァルツ、それと王都ランダル、この二カ所で大きな爆発を起こした。マールアのデーモンに気づかれてもおかしくはない。
思案しながら北方を見つめる。建物が邪魔して、よく見えないな。姿を消して浮遊魔法で上昇していく。
よしよし、これならはっきり見える。デーモンどもは黒線を放ち、即座に移動している。まるで戦術的な動きをしているかのようだ。スチールゴーレムたちも同じ考えのようで『空から攻撃する』と念話で連絡が入った。
彼らスチールゴーレムたちには、核として夢幻泡影結晶を使っている。そのため俺にも彼らの動きが感知できない。脳神経模倣魔法陣は俺の脳を使っているので、一脈相通ずるどころでは無く、完全に俺と同じ考え方をする。だから変なことはしないと思うけれど……。
てか、俺のせいでデーモンを呼び寄せる結果になってるな……。尻拭いしているのは、スチールゴーレムたち。なんか申し訳ない気持ちになる。
浮遊魔法で舞い上がったスチールゴーレムたちが、一斉にロックバレットを放った。標的は北方のデーモンだ。
土魔法のロックバレットは、簡単に言うと石の弾丸。しかし彼らの放ったロックバレットはだいぶん違っていた。石を冥導障壁で包み、反撃の黒線をはじき返していた。それは威力を落とさずに飛来して、地上のデーモンを撃ち抜いていた。
そんな使い方あるのか……。俺の脳神経模倣魔法陣なのに、俺より魔法の使い方がうまいときた。でもやり方は何となく分かったし、次使うときに真似してみよう。
『黒線の解析に時間がかかりました。これ以降ソータにも使えます』
クロノスの声がする。
『解析が遅れるって、珍しいね。最近何度かあったけどさ』
『すみません』
『いやいや、責めてる訳じゃないから、謝らなくていい。純粋に気になっただけ。たったいま俺も、スチールゴーレムたちの使うロックバレットに舌を巻いてた所だし』
『ソータは、もっと努力してください。すでに十五番目の素粒子、夢幻泡影を使えます。魔法は及第点ですが術――つまり夢幻術は、からっきしだめでしょ?』
『……うーむ。返す言葉もない』
『それと、黒線は魔法ではありませんでした』
『魔法ではない……?』
『そうです。冥導を収束させて放つレーザー。そう考えると分かりやすいです』
ほーん、光子ではなく冥導を使ったレーザー。そういうことか……。冥導という素粒子がどれくらい大きいのか分からない。けれど黒線の速さは光速に近い。原理は分からないけど、何かで加速させているのだろう。でなければあの貫通能力はあり得ないからな。
宙に浮いたまま眺める。スチールゴーレムが滅ぼしていく北方のデーモンを。
「ぬおっ!?」
背後からの黒線を避ける。とっさの行動だ。黒線はそのまま突き進み、スチールゴーレムの障壁に当たっていた。彼らが狙われたのは、ロックバレットで攻撃しているからだ。透明化しているとはいえ、ロックバレットを射出する際に場所が分かる。
振り返ってみると、南側の大地を埋め尽くす数のデーモンが忍び寄っていた。まるで黒い波のように、うねうねと迫ってくる。
次は西から黒線が飛来。空に浮かぶスチールゴーレムに、またしても直撃した。冥導障壁のおかげで、彼らにダメージはない。
舌打ちしそうになる。
北方の大都市マールア。そこのデーモンが気づくほどの大爆発を引き起こしたのなら、他方でも気づくはずだ。
南と西ふたつの方角から、数え切れないほどのデーモンが押し寄せていた。




