256 前線の街
サンルカル王国とスタイン王国の国境に近接するマールア。この街の北側には、東西へ伸びる巨大な城壁がそびえている。この城壁は過去の遺産だが、今や両国の激烈な戦いの砦となっていた。
マールアは分厚く頑丈な城壁に取り囲まれた都市だ。その周囲は緑濃い森林で覆われ、太い舗装道路が南へ一直線に続いている。この道は、南に位置する王都ランダルへ通じる。
曇り空の朝、街は既に活気に満ちていた。今日も北の戦線で戦闘が予想される。住民たちはすでに安全な場所へ避難しており、空き家には兵士たちが宿泊している。
城壁の北側の兵士たちは、街中の兵士たちと交代で勤務に就く。一日に三回の交代制を採用しており、これがサンルカル王国との戦線を維持する上で重要な役割を果たしていた。
今日も戦闘は続くだろう。前線で負傷した者や命を落とした者は、全て南の王都ランダルへ送られる。それでも、日々新たな兵士たちが到着する。彼らはスタイン王国の正規兵で、中には義勇兵も含まれる。
馬車の姿は見当たらない。人々や物資の輸送は、全て大型の十本脚ゴーレムによって行われる。この十本脚ゴーレムは、スタイン王国の最先端技術の賜物だった。ドワーフのゴーレムと類似しているが。
そんな中、大勢の兵士たちが広場へと駆けていく。その広場の壇上には、老将と中年の将が立っていた。老将はカール・フォン・ヴァイセンブルク辺境伯。中年の将はフリードリヒ・フォン・ローゼンバッハ辺境伯だ。
カール卿は広場を見渡し、兵たちの整列が完了したと判断すると、拡声魔法を使った。
「おはよう諸君。今日は生憎の天気となりそうだが、サンルカル王国の兵は変わらず攻撃を仕掛けてくるだろう――」
「お前たち! 絶対に死ぬな! 今日こそ、あの黒髪の奴らを叩くぞ!!」
カール卿の横に立つ男、フリードリヒ卿が大声で叫んだ。その声には、兵士たちへの熱い想いと、勝利への強い意志が込められていた。
二人の将に応える兵士たちは、その様子が二つに分かれている。割れんばかりの拍手喝采を送る新兵と、疲弊の色を隠せない古参の兵だ。
老将カールは壇上から降り、兵を率いて颯爽と北へ向かう。街の城壁を抜ければ、わずかな荒れ地が広がっている。彼らは国境線の城壁へと進軍してゆく。
フリードリヒ卿は彼らの後ろ姿を見送りながら、苦々しい表情を浮かべていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「クソがっ!!」
城へ戻ったフリードリヒ卿は、執務室の壁に拳を叩きつけた。石造りの壁は微動だにせず、彼の右手から血が滴り落ちる。だが彼はそれを気にも留めずに、机へと向かった。
マールアの街はフリードリヒ卿の治める領都だったが、今や王命を受けたカール卿によって占拠されてしまっているのだ。サンルカル王国との戦争が勃発してから百日以上が経過しているというのに、その理由については一切明かされていない。
「なぜ戦争をするのだ。サンルカル王国とは長年にわたり友好関係にあったではないか」
王命に背けないフリードリヒ卿は、現状を変えることができずにいる。そして彼は、自分の領民や兵士が次々と命を落としていく様を目の当たりにし、自身の無力さに苛まれていた。
「しかも、次々と増援してくる新兵たち。彼らから全く魔力を感じないとは、明らかに異常事態だ。絶対に何か裏があるに違いない――」
部屋をノックする音で、フリードリヒ卿は独り言を中断した。だが悔しげな表情は変わらない。
ドアから顔を覗かせた女性は、フリードリヒ卿を見て心配そうに言った。
「ソフィアです。……失礼します。レオンハルト国王陛下からお手紙が届きました」
部屋へ入ってきたのは、ソフィア・フォン・ヴァイセンブルク辺境伯令嬢。彼女はカール・フォン・ヴァイセンブルク辺境伯の娘だ。
ソフィアから、国王の封蝋で封をされた手紙を受け取ると、フリードリヒ卿は厳しい表情を見せた。
「封蝋が割れている……。どういうことだソフィア」
誰かが開封して中身を見たということだ。
「えへへっ。レオンハルト国王は、あたしの婚約者ですわ。秘密のやり取りは許せませんの」
ソフィアは、国王から届いた辺境伯宛ての手紙を盗み見たと白状する。笑顔を浮かべてはいるが、フリードリヒ卿はその皮の下に得体の知れない何かを感じ取っていた。
「分かった。届けてくれて助かる」
フリードリヒ卿はそう言うしかない。本来ならば犯罪行為だが、ソフィアは国王のフィアンセである。
それに、この領地自体が、彼女の父親――カール・フォン・ヴァイセンブルク辺境伯によって占拠されている状況だ。
彼女がへそを曲げれば、この領地で何をされるか分かったものではない。ソフィアはそういった危うさを孕んでいた。
部屋から出て行くソフィアを見送った後、フリードリヒ卿は手紙を開く。
「……」
読み進めるうちに、彼の表情が次々と変化していく。怒り、哀しみ、戸惑い、諦念、そして彼は最後に手紙を破り捨てた。
「私の身分を剥奪するだとっ!!」
国王が貴族の身分を剥奪すれば、その貴族の領地は国王のものとなる。身分の剥奪は貴族の権利や特権を奪う、最も重い処分だ。
身分の剥奪に至るまでには、通常、相応の理由付けが必要だ。
当該貴族が国王に対し、反逆や不忠を働いた場合である。例えば、敵国と内通したり、国王暗殺を企てたり、反抗した場合など。
貴族が国王の命令や法律に違反した場合も身分の剥奪の理由となる。例えば、国王の許可なく戦争を起こしたり、不正な取引を行ったり、重税を課した場合などがそれに該当する。その他にも様々な禁忌事項がある。
しかし手紙には、そのような理由は一切記されておらず、フリードリヒ卿の身分を剥奪し、治めている領土を返上せよという内容だけだった。
「納得できるか!!」
フリードリヒ卿は、床に落ちた手紙に向けてファイアボールを放つ。だが、それは実戦で使えるほどの威力はなく、小さくか弱い炎でしかない。炎はゆっくりと手紙に届き、石の床の上で燃え上がった。
「こうしてはいられない……。生き残りの領兵を率いて、サンルカル王国へ亡命するしかない。だが、私の一族はどうすれば……」
フリードリヒ卿は途方に暮れる。
彼は辺境伯だ。親族に連なる人物は山のようにいる。妻や子ども。両親に祖父母。彼らはすでに都落ちし、疎開先で暮らしている。この屋敷に残っているのは、執事やメイドのみ。それと、カール・フォン・ヴァイセンブルク辺境伯とソフィア・フォン・ヴァイセンブルク辺境伯令嬢の二人も住み込んでいる。
ここで問題となるのは、フリードリヒが目立つ行動を取れば、カール卿やソフィアに怪しまれてしまうこと。ソフィアはフリードリヒ辺境伯の身分が剥奪されたと、すでに知っている。そのため細心の注意を払わねば一族もろとも亡命などできない。
「どうすればいい。まさかこのような事態になるとは――」
彼の独り言はそこで途切れた。
机の影が動いたからだ。目を見開いて驚きの表情となるフリードリヒ。見たこともない現象に、彼は声を上げることすらできなかった。
「突然のご無礼をお許しください。私は冒険者のメリル・レンドールと申します。情報収集のため潜んでおりましたが、あまりにも深刻な状況ですね」
ダンピールのメリルは、スキル〝影渡り〟で潜伏していた。だが彼女は何を以て姿を現したというのか。
「……こ、この屋敷の魔法陣をくぐり抜けて侵入したのか」
フリードリヒ卿はメリルの話に応じず、警戒心を剥き出しにしている。彼の態度を見たメリルは、説得を始めた。
「はい、その通りです。申し訳ありません。しかし、フリードリヒ・フォン・ローゼンバッハ辺境伯に危害を加える気はありません」
「それならば、何をしに侵入してきたのだ」
「私はこの国にエミリア・スターダストというバンパイアを探しに来ました。しかしどうでしょう。蓋を開けてみれば、この街はデーモンだらけではありませんか。フリードリヒ卿。あなたは気付いていませんでしたか? 先ほどのお嬢様や、壇上に立っていた老齢の貴族がデーモンだと」
「カール卿とソフィアがデーモンだと? ……どういうことだ」
「こちらの魔道具で、窓の外をご覧になってください。街中にデーモンが溢れていると分かりますので」
メリルはゴーグルを取り出して、フリードリヒ卿に手渡す。彼は素直に受け取り、それを装着して窓の外を眺めた。
「――――これはっ!?」
メリルが渡したのは、ドワーフ特製のゴーグルだ。ソータが所持しているものと類似しているが、性能は異なる。ヴェネノルンの血を飲んだバンパイアやデーモンの判別がつくように改良されていた。
ゴーグルの仕組みは単純だ。ただ魔力や神威を持つものを普段通りに見せるだけ。
魔力や神威を持たないもの、つまり冥導と闇脈を持つものは暗く見えるのだ。それらは、デーモンかバンパイアということになる。ヴェネノルンの血を飲んでいたとしても、魔力や神威を持っていないことで分かってしまうのだ。
メリルはそう説明するも、フリードリヒ卿は信じようとしない。無理もない。彼にとって、メリルはただの侵入者なのだから。
そんな会話をしていると、再びノックの音が聞こえた。
ドアを開けて入ってきたのは、先ほどのソフィアだ。
「声が聞こえたのですが、誰かお見えになっているのです――――まあっ!? 変わったゴーグルですね。フリードリヒ卿、それはどこで購入されたのですか?」
ソフィアは、メリルとの会話が聞こえて部屋に入ってきたようだ。だがそこにメリルの姿はない。彼女はすでに影へと変化して身を隠していた。
ゴーグルを装着したフリードリヒ卿は、ソフィアからドワーフの魔道具の珍しさやゴーグルの性能について次々と質問される。
「……こ、これは、露店で購入したものだ」
フリードリヒ卿はソフィアの声に、ようやく返事をした。そして彼の額には、玉のような汗が浮かび上がっている。ゴーグル越しに見るソフィアの姿は、人の形をした暗い穴のように映っていたのだから。
その様子を見たソフィアは、ゴーグルをじっと見つめる。
「そのゴーグル……。あたしが知らないうちに買ったと言いたいのですね。見たことがないのですが、説明していただけますか?」
ソフィアは低い声でフリードリヒ卿を問い詰める。どうやら彼女は、この屋敷に入ってくる品物を全てチェックしているようだ。
「説明と言われても……、ろ、露店で買ったとしか」
フリードリヒ卿の目が泳ぐ。彼は正直な性格なのだろう。今この部屋に、ドワーフの冒険者が潜んでいることが気になって仕方がないのだ。そして彼は、不自然に視線を動かした。
机の影に。
それを見たソフィアは、突然黒い炎を床に向けて放った。
「えっ!?」
声を上げたのはソフィアだ。そこに何かがあると思って冥導魔法を使ったようだが、影が動くとは思っていなかったのだろう。
その影は素早く部屋の中を動き回り、ソフィアの目をかく乱する。フリードリヒ卿は驚いて後ずさりをする。彼はつまずいて尻もちをつき、思わず声を上げた。
「わっ!?」
ソフィアはその声に一瞬気を取られ、影から視線を外す。
――――ガッ
次の瞬間、ソフィアの頭に短剣が突き刺さった。それが引き抜かれると、ソフィアの頭から黒い粘体が吹き出し、膝から崩れ落ちていく。
床に転がったソフィアには息がなく、すでに命を落としていた。
「頭骨が簡単に貫けるって、さすがシヴね」
姿を現したメリルは、両手に短剣を携えていた。それはファーギ特製の短剣で、ニーナが所持しているものと同じだ。神威結晶から削り出したこの短剣は、デーモンやバンパイアに対して絶大な効果を発揮する。
倒れたソフィアは黒い粘体へと変貌を遂げ、床に広がっていく。メリルはそこにヒュギエイアの水をかけている。
「お、お前! 何をしているんだっ!!」
フリードリヒ卿は激しく抗議した。だがメリルはそれを軽く受け流して口を開く。
「言ったはずです。私が倒したのはデーモンです。ソフィアの肉体はすでに喰われ、この世にはもういないのです」
メリルは冷静に、しかし冷酷にその事実を告げた。
「……うすうすは感じていたのだが」
フリードリヒ卿は驚きもせず平坦な声で返した。
「そこでご相談なんですが、私たちのパーティーと取り引きをしませんか?」
「取り引き……だと?」
「そうです。私たちが、カール・フォン・ヴァイセンブルク辺境伯を討ちます。フリードリヒ卿は私たちに協力し、エミリア・スターダストの居場所を探してもらう。どうでしょうか」
メリルは改めてフリードリヒ卿へ向き直り、彼の瞳をじっと見つめた。
「断る」
「……やはりデーモンの力に屈服し――」
「そうではない。お前たちではなく、私にカール・フォン・ヴァイセンブルク辺境伯を討たせろと言っている。お前たちは最近話題の、ソータ率いるパーティーだろう?」
フリードリヒ卿はメリルをみて当たりを付けていたようだ。卿の瞳から、揺るぎない決意が溢れ出す。メリルはそれを見て、今回の作戦が上手くいきそうだと直感した。
「ご存じだったんですね、私たちを。でも、どうされるおつもりで?」
「マールアの街は占領されたも同然だが、仲間たちは健在だ。近しい者や家族は、すでに街を離れている。今は機を見計らっているところだった」
「つまり……?」
「お前たちには、私たちの補助をお願いしたい」
フリードリヒ卿とメリルは視線を合わせたまま動かない。互いの意思を確かめ合っているのだろう。本気なのか、と。
「分かりました。私たちのパーティーで、できる限り支援します」
そう言いながらメリルは頬を掻く。フリードリヒ卿を言いくるめ、利用しようとしていたのに、逆に協力することになってしまったのだから。
「では準備に取りかかろう。時間はあまりない」
「はい? 準備ですか?」
「そうだ。仲間と合流する。少し前倒しになるが、カール・フォン・ヴァイセンブルク辺境伯を討ち取るぞ」
早急すぎる。メリルは一抹の不安を覚えながらも、フリードリヒ卿の後についていった。




