229 ゆらぐ信任
マリア・フリーマンは白い机に向かい、精力的に書類整理を進めていた。その手元には、膨大な量の報告書と綿密な計画書が整然と並べられており、彼女の目はそれらの文字を鋭く追っていた。
そこへ突如、ドアが勢いよく開かれ、ノックもせずに駆け込んできた女性がひとり、大きな声で報告する。
「マリア様っ! 牛頭人のスロー・ベルが行方不明。半馬人のエリック・バート、人狼のジイ・ウィルソン、マーメイド族のエナ・ロペス、妖精族のサーラ・モーガン、四人が量子脳を切除されて死亡しました!!」
報告した女性は、バンパイアのタイニー・ベネット。黒いドレスに黒いマントを着衣している。その顔は恐怖で引きつり、目には焦りの感情が浮かんでいた。
それを聞いたマリアは表情ひとつ変えずに口を開いた。その声は冷静で、まるで何も驚くことがないかのようだった。
「……タイニー・ベネット。生き残りは、あなたと、レオ・ミラーだけ?」
「はっ、はいっ!! バンパイア化病棟の輸血保管庫も破壊されました! ダンジョン内に裏切り者がいると思われます。至急蝕を使って排除していただければと!」
「わかったわ。あなたは護衛を付けて――――」
マリアの言葉が途切れ、不審に思うタイニー。よく見るとマリアはタイニーを見ておらず、彼女の背後を見つめていた。
「タイニー、あとをつけられたようね」
マリアはそう言って転移魔法で姿を消した。
タイニーが振り返った瞬間、ソータがゲートから姿を現した。
「逃したか……」
ソータはそう言って、タイニーを見据えた。その声には、どこか冷めた感情が漂っていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
試作型量子脳の回収は順調に進んでいた。その成功はスロー・ベルと蝕から得た情報のおかげだ。
しかし、簡単にマリア・フリーマンの元へ辿り着けないことも分かった。彼女は直属の部下しか入れないよう、ダンジョン内部に空間魔法で特殊な別空間を創り出していた。異世界の神々から見つからないようにと、徹底していた。
直属の部下とは、試作型量子脳を移植している七人のことで、生き残っているのはあとふたりだけ。
そのうちのひとりであるバンパイアのタイニー・ベネット。
俺が彼女の部屋に到着したとき、部下から連絡を受けていた。
ダンジョンの幹部四名が殺害され、牛頭人のスロー・ベルが行方不明というものだ。犯人はもちろん俺だ。
報告を聞き終わったタイニーは、姿を消した俺に気づかないまま、必死の形相で部屋を飛び出していった。
「マリア様に知らせなくちゃ」
そう呟きながら。
彼女を逃がすわけにはいかない。後ひとりいるマリア・フリーマン直属の部下、ドラゴニュートのレオ・ミラーは外出中だった。彼女を見失えばマリア・フリーマンの元に辿り着けない。
廊下にはダンジョン内部で働いている実在する死神の構成員が大勢いる。彼女は黒いドレスに黒いマント姿で目立つので追いやすい。
だが、その速さは俺が追いきれるものでは無かった。これが試作型量子脳の性能なのだろう。
スキルを使って追ってもいいが、それが原因で俺の存在がバレては元も子もない。結局、走って追いかけるしかなかった。
彼女はダンジョンを駆け抜けていき、地下の最深部へ辿り着いた。そこは光と闇の渦巻く、巨大な空間。中心部には幾重にも障壁が張られた、要塞のような建物がそびえていた。
姿を消して付いて行く俺に、タイニーは気付く様子も無い。彼女は障壁を次々と解除し、まんまと俺の道先案内人を務めてくれた。
タイニーが最後の障壁を解除した瞬間、マリア・フリーマンらしき強烈な気配が感じられた。その気配には危険な鋭さがあり、俺の背筋を凍らせた。このままついていけば、必ずバレる。そう確信して、いったん足を止めた。
砦の中は静寂に包まれていた。感じる気配はタイニーとマリア・フリーマンふたりだけ。俺は部屋に入らず、外の物陰に身を隠して中の様子を探っていた。
タイニーの報告する声が聞こえると、マリアの気配が薄く広がり、衝撃波のようなものが俺を通り抜けた。その感覚は冷たい風のようだった。おそらくマリアは、タイニーに追跡者がいないのか確かめたのだろう。
俺の存在に気づかれた。
慌ててゲートを開いて部屋に入ると、そこには既にタイニーしか残っていなかった。
「逃したか……」
驚いた顔で俺を見るタイニー。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺を見つめている。
あ、しまった!
焦ってゲートを開いたから、時間遅延魔法陣を飛ばしてなかった。
『スキル〝吸血鬼の女王〟を確認しました。ソータには使えません』
お、おう。解析しないで使えない言われたのは初めてだ。
『ソータはバンパイアの女王になりますか?』
『いや、遠慮しとく』
いやいや、余裕こいてクロノスと喋ってる場合じゃねえ。
スキル〝吸血鬼の女王〟の効果だろうか。タイニー・ベネットの瞳は紫色に染まり、口からは牙が伸び、その先端が鋭く光った。
そして急に引っぱられる感じと同時に、俺の皮膚から血液が滲み出た。たちまち俺の皮膚から離れ、タイニーへ向かって一斉に飛んでいく。その様子は、銀色の蝶が舞い踊るようだった。
タイニーは、蝶の形になった液状生体分子を全身で浴びて、恍惚としながら至福の時を迎えたような官能的な笑みを浮かべる。
「ふふふっ……。これ、液状生体分子ね。ということはあなたがソータ・イタガキ。この血もっとちょうだい。そして干からびて死になさい!」
クッソ、こいつも俺と同じ手術をしているんだった。体液が同じ液状生体分子だから、吸収しても害はないのか。
『ソータ、動かないでください』
なんだクロノス。タイニーのヤバそうなスキルが発動しているってのに、おとなしくしろってどういう意味だ?
俺の皮膚から滲み出ては飛んでいく液状生体分子。タイニーはそれを浴びて、黒いドレスとマントが銀色に変わっていく。その変化は、まるで月明かりに照らされた湖面のように美しかった。
「ああ、これがあなたの過去。これがあなたの力の根源。全て私のものに――――」
タイニーの言葉はそこで途切れ、身体が硬直した。恍惚とした表情は苦痛に歪み、紫色の瞳から銀色の涙が溢れ出す。その瞳はくるんと白目を剥き、彼女の表情が消えた。
身体中から液状生体分子が吹き出し、タイニーは枯れ枝のように変わり果ててパタリと倒れた。
『バンパイアがアイテールを体内に入れるとこうなります。安心してください、ソータの液状生体分子は既に増量済みです』
『……あー、こうなるって知ってたんだ』
それならクロノスが言った「動くな」が理解できる。ただなあ、前々から思ってるんだけど、彼女は俺が知らないことをよく知っている。汎用人工知能として、様々な出来事から学習していることは分かるけど……、それでも知りすぎ感が否めない。
闇の血しぶきって、中二病っぽい名前付けて間違ってたけどさ。
『ぶう!』
『はいはい、クロノス。いい加減、俺の心を読むのはやめなさい』
『ソータは私、私はソータ。私とソータは一心同体』
『面倒くさい。さっさと次に行くぞ』
『ソータが冷たい……』
冷たくはないさ。クロノスは俺の相棒で、頼りがいのある存在だ。彼女がいなければ、俺はこの世界で何度死んでいたかことか。
枯れ枝みたいになったタイニーは、いつの間にか灰に変わっていた。万が一の蘇生を防ぐため、ヒュギエイアの水を灰に振りかけた。
さて、俺はマリア・フリーマンに探知魔法を使っている。彼女がどこに逃げたのかはすぐに分かる――うん? 探知魔法の効果が切れた。
マリア・フリーマンは、俺の魔法に気付いて効果を打ち消したのだろう。
一気に片を付けるつもりだったけど、そう簡単にはいかないか。
慌ただしく逃げ出したマリアは、きっと重要な情報を残していったはずだ。白い机に向かって座り、つけっぱなしのパソコンを操作し始めた。
『やあ、上手くいったみたいだね』
机の上に突然現われた八芒星。ふわりと浮いた蝕だ。
『邪魔しないでもらって、ありがとね』
『どういたしまして』
邪魔するな、とかひと言も言ってないが、彼は何もしてこなかった。マリア・フリーマンによって攻略され、ダンジョンの権限を全て奪われているはずなのに。
そう思って気付いた。
マリア・フリーマンは、俺の姿を確認した瞬間、転移魔法で逃げた。その逃げっぷりは潔く、逆に感心するほどだった。
『蝕、マリア・フリーマンは何故、ダンジョンの力を行使しなかった……?』
『そりゃあ、マリア・フリーマンはマスターとして相応しくないと思ったからさ。僕は君たちのいう、Sランクダンジョンだ。マスターだから何でも言うこと聞くわけじゃないからね』
うん、これはあれか。流刑島のダンジョンコア、アビソルスが、ダンジョンマスター田島涼太を見限ったときと同じだ。
『マリアは、俺に攻撃しようとして、ダンジョンの力が行使できなかった。それで逃げたってことかな?』
『そうそう。彼女はもうダンジョンマスターじゃない。あいつはそもそも、ひとりで僕に勝ったわけじゃないからね。ソータくん、君のおかげで、また自由になれたよ』
『俺のおかげ? ……あ、もしかしてマリアは七人の部下と一緒に、蝕の攻略に来たのか』
『そうだね。それともうひとり。君のお爺さん、魔王ヒョータ・イタガキもいたよ』
『俺のじーちゃんに恥ずかしい二つ名をつけんなコラ』
蝕の話に真面目に付き合うと疲れる。
つまりマリア・フリーマンは、九人がかりで蝕を攻略したってことだ。
その内の六人を俺が倒した。じーちゃんはこのダンジョンにはいない。七人の部下の生き残り、ドラゴニュートのレオ・ミラーは外出中。九人のうち八人がダンジョン内にいない。それで蝕は、もう攻略されることがないと考え、マリア・フリーマンのダンジョンマスターとしての権限を剥奪したってわけだ。
でも、ちょっと引っかかる点がある。
『……じーちゃんが手伝った? 蝕の攻略を?』
『そうそう。彼はマリアたちにすごく協力的で、よく働いているよ』
『まあ、そりゃあね。じーちゃん、巨大ゲートを探さないように、のらりくらりしているはずだし』
『そんなことない。僕の地下にある八芒星を見つけたのはヒョータだよ』
『まあそうだね。じーちゃん追い詰められて、探さざるを得なかったんだろうし』
『……いつまで目を背けるつもりだい? 現実逃避しても何もならないよ』
『……』
『君のお爺さんは、君を裏切っている』
『……はは。笑えねえ。笑えねえけど、そうだな。蝕の言葉が、痛烈な真実として胸に突き刺さる』
じーちゃんは、魔術結社実在する死神の過激派七人にぴったりマークされて、自由に動けないといっていた。巨大ゲートを探せという話も、探す振りをするだけだと言っていた。
けど、ここに来て、そうではなかったと分かった。現実を見れば明らかだ。
巨大ゲートは発見され、蝕の力を以て、ニューロンドンが造られている。七人の実在する死神過激派は、全員このダンジョンの中にいるというのに、じーちゃんはスタイン王国にいる。
『どうするつもりだい?』
『ずっと疑問に思っていたことが、この地に来てようやくハッキリした。まあ、じーちゃんに聞かなきゃ分からないけどね。行動では裏切っているように見えるけど、何か考えがあってのことだ。俺はじーちゃんを信じるよ』
『君たちニンゲンは、時として不合理な結論を出す。今回はその最たる例だね。君のお爺さんが君を裏切っているという証拠は山ほどあるのに、肉親だからという理由で、目を背けている。それは典型的な確証バイアスだ』
『……俺もたった今自覚したところだ』
『違うね。君はもうニンゲンじゃないだろ。君のアイテールは、神の世界に属してる証拠だ。確証バイアスなんていう、ニンゲンの枠にとらわれてたら、いつか君は死んでしまう。早いところ考えを改めた方がいい』
『……でも、俺はニンゲンでありたいんだ。あと少しだけでいい』
『そこなんだよ。君は利他主義だ。命をなげうってでも、地球の人類を助けようとしている。君の行動がそれを物語っているんだからさ』
『……』
『まあいいさ。僕は地球の人類を受け入れると決めた。マリア・フリーマンがダンジョンマスターでなくなっても、地上のロンドンは守ってやる』
『……そんな事出来るのか?』
『石油を使わないことと、核分裂をさせないことが条件だけどね。代わりのエネルギー源は、この世界に山ほどあるし。――――それでお願いがあるんだけどさ』
『なんだ、改まって』
『マスタールームのユライを排除してくれないかな?』
ユライの長老、ルベルトが言ってたな。姫御子フィアを救い出して欲しいって。
『自分でできないのか?』
『出来ないから頼んでるんだ。とりあえず来てくれるかな』
蝕の言葉が終わると、景色が変わった。ダンジョン内を転移させられたようだ。
そこは広大な空間で、焼けるように暑い。
突如として、底知れぬ空間へ自由落下が始まった。
不意を突かれた俺は、咄嗟に浮遊魔法を発動させ、同時に全身を覆う強固な障壁を展開した。




