115 冥界の五階層
昼なのか夜なのか、よく分からない明るさの冥界。太陽がない茶色い空。
泥沼からようやく陸地に辿り着いたソータは、その場に倒れ込み、大きく深呼吸を繰り返す。枯渇した魔力の代わりになる神威が使えず、自力で歩いてきたのだ。
『リキッドナノマシンが動かないと、こうまで体力が奪われるのか』
『そりゃそうです。だから実験の意味も込めて――』
『シッ!』
汎用人工知能との会話を遮り、周囲を探るソータ。何かを感知したのだろう、疲れた身体に鞭を打つように駆け出し、枯れた森の中へ飛び込んだ。
茶色くなった藪は、僅かな水分も残さず乾燥し尽くしている。ソータが飛び込んだおかげで、藪の枝葉が砕けて粉となり、煙のように舞い上がる。
藪から顔を出したソータは、泥沼の上空に浮かぶ、ネイト、ドリー、ブレナの三人の姿を確認した。
『ネイトって女なの?』
『あれが本来の姿では?』
『てか見つかってるなあ……』
三人ともスーツ姿で、変わりはない。女装しているドリーは置いといて、ソータは、ネイトまで化粧をしていることに驚きを隠せなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ソータを見咎める三人。先ほどまでの自信は何処へやら、困惑の表情を浮かべていた。
「バイモン殿……? ソータ殿はそれほど自信を失ってそうには見えませんが」
ドリーとブレナは、身体の主導権をレブラン十二柱のルミリオとキーノに渡しているため、声は変わったままだ。
「……たしかにそう見えますね。しかしここは冥界の第五層。あの情けない姿を見れば、神威が使えない状態だと明らかです」
「ここで仕留めちゃっていいのかな……。エリス怒らない?」
その声はブレナ。心配でキーノと入れ替わったのだろう。なにせ、エリス・バークワースは、ソータを殺害するための強力なデーモンを探しに行っているのだから。
「その前にソータくんの首を取ってしまえば、諦めも付くでしょう。それに、獣人を率いているのはドリー・ディクソン、あなたですよね?」
急に振られて、ドリーと入れ替わるルミリオ。
「そうですけど……ね」
ドリーは、ビーストキングダムを復権し、エリスを女王にしようと画策している。
バイモンは地球の科学と共に、異世界へ移住しようと企んでいる。
ブレナはあくまで、エリスとの友情を考えている。
三者三様の思惑はあるものの、ソータを何とかしなければいけないという点では、この三人の行動は一致していた。
「とにかく、今の状態なら、ソータくんを倒すのは容易いはず。次の段階に進むためにも、早めに事を済ませましょう」
バイモンの言う次の段階とは、異世界におけるビーストキングダムの復権だ。
ただし、彼の本音は別にある。
「あたいは右から回り込む」
「私は左からねっ!」
バイモンから離れていく二人。挟撃してソータを始末するつもりだ。
それを見て、笑みを浮かべるバイモン。彼は今何を考えているのだろうか。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ブレナ、それはあなたの記憶?」
『……そうよ』
浮遊魔法で飛んでいるブレナは、身体の主導権をキーノに渡している。ブレナと完全に一体化しているキーノは、ブレナの思考まで共有していた。
「ソータと仲間になれたかもしれないって、いつの記憶なの?」
『大昔のことよ……』
ブレナとソータの接点はわずかしかない。ジョン・バークワース商会に潜入したときから、アリスが死ぬまでだ。彼女はその間、エリスのために一生懸命頑張るソータを見て、心を動かされていた。
しかし、帝都ラビントンで獣人がテロを行なったとき、ソータがトライアンフのリーダー、フィリップ・ベアーを殺害した。このことで彼女の心は一変し、それ以降、ソータを目の敵にしてきた。
「それなら、何故迷う」
『……』
ブレナは此処ぞという時になって、泡沫の恋慕の情を思い出していた。
「バカなの? そんなこと考えて、どうにかなる時期は過ぎているわ!」
『……わかってる』
ブレナの身体を動かすキーノは、茶色い空で急加速し、枯れた森の中を必死で走るソータに近付いていく。
ソータを挟んで向かいの空を飛ぶドリーも急加速し、同じくソータへ接近する。
それを眺めるバイモン。何かを確かめるような真剣な眼差しで、ドリーとブレナを観察していた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
森の中を転びつつ逃げるソータは、あまりにも無力だ。何一つ魔法が使えない状態では逃げるしかない。
「ソータ殿、いえ聖人殿。お久しぶりですね」
ソータの前に降り立つドリー。ソータは汗だくで泥まみれの状態だ。
「雨の戦場で会ってからぶりね、ソータ」
ソータの背後にはブレナが立った。
「よっ、久し振り。……二人とも前と声が違うな。喋ってんのはデーモンか?」
魔力切れでも、神威が使えなくても、ドリーとブレナがデーモンに変わっていると分かる。
声も雰囲気も変わっているから一目瞭然だ。
戦場のブレナは、ニンゲンの形をした水に変化していた。デーモンが憑いていると推測するのは容易い。
ソータが時間を稼ぐために喋っていると気づいたルミリオは、左右に身体を揺らしながら突進する。右か左、どちらの拳で殴り殺そうか、そういう風に見えた。
対してソータは、背後のブレナを気にしつつ、生身の状態でドリーへ向かって駆け出した。
ルミリオは必ず逃げると踏んでいた。
しかし予想外の動きをしたソータに、何か策があるのでは、と感じて飛び退く。
「どうした? 魔法は使わないのか?」
「ソータ殿……? あなたは魔力が切れて、神威も使えない。絶体絶命なのに、その自信はなんです? 虚勢だと思えないのですが……」
「お、庁舎で聞いたときの声だ。デーモンと入れ替われるんだな」
「そういう事じゃないです。ソータ殿のその自信はどこから――」
何をくっちゃべっている、とでも言いたげな表情でドリーに急接近するソータ。
ドリーから見て、それは常人の動きと速度だ。避けるのも反撃するのも簡単だろう。
しかし、ソータの自信に気圧され、またしても後方へ飛んでしまった。
それを見たソータは振り返り、ブレナの確認をする。
「ブレナ、お前さ、ベナマオ大森林の戦場で逃げたよな? 雨を降らせてどうにか出来るとでも思ってたの?」
「ソータ、そんなに煽って何がしたいの? あたいは――」
「やっぱ入れ替われるんだな」
ブレナの言葉を遮り、二人ともデーモンと自在に入れ替わることが出来ると確認したソータは、次の行動に出た。
それは全力での逃走だ。それを見て呆気に取られる二人。
『しばらくこっちで身体を動かさせてくれ』
『ホント、アンタたち何ビビってんの?』
ドリーに憑いているルミリオから呆れたような声が聞こえる。
ブレナに憑いているキーノは少し苛ついているようだ。
ドリーとブレナは、ソータの人外ぶりを見たことがある。それで警戒しているのだ。その記憶を見てもなお、ルミリオとキーノはソータを追いかけようとしている。レブラン十二柱の看板は伊達ではないのだ。
今回ここでソータを仕留める。その計画を思い出したドリーとブレナは、身体の主導権を渡すしかなかった。
一方、バイモンは依然として宙に浮いたままで、何もしていない。少しだけ眉間にしわを寄せているのは、ドリーとブレナの腑甲斐ない動きのせいだろうか。
ソータはひたすら森を走る。その背中を見て、ルミリオとキーノは顔を見合わせて頷いた。
レブラン十二柱、序列六位のルミリオは、そのオカマキャラを忘れ、野太い声でソータを罵倒し始める。
同じく序列七位であるキーノは、ルミリオに気を取られているソータの右側面へ回り込んでいく。
「魔法が使えないヒト族なぞ、拳一発で肉塊に出来る」
そう言いつつ、ルミリオは、スキル、超加速、剛力、加熱を使い、疾風迅雷の動きでソータに肉迫し、加熱して赤くなった拳をソータの顔面に目がけて振り抜いた。
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げたのはルミリオだ。
超加速で動いているのに、それ以上の速さでソータが動いている。ルミリオが繰り出す拳はことごとく避けられ、それどころか反撃されたのだ。
身長三メートルのドリーと同じ目線になるよう、ソータはジャンプする。
もちろんその動きはルミリオにも見えている。
しかし、身体の動きがソータに追い付かない。
スキル、超加速を使っているのにもかかわらず。
拙い。避けなければ。
ルミリオがそう思ったときには遅かった。
ソータの人差し指と中指が、ルミリオの両眼を抉り出してた。
ルミリオが絶叫をあげ、すべてのスキルの効果が消える。
レブラン十二柱に到るまで、こんなダメージを食らったことはなかったのに。
そんな思いがよぎるルミリオ。
デーモンの時は感じなかった初めての痛み。生身の身体に憑依すれば、当然五感も伴う。
あまりの痛みで、ルミリオは咄嗟にドリーへ身体の主導権を渡してしまった。
ただし、五感を共有しているので意味がない。ルミリオの感じる痛みが消えることはなかった。
「どういうこと!? ルミリオ、何やってるの? 聖人様ああっ!!」
何も見えなくなったドリーは、膝をついて叫ぶ。
ソータは此処ぞとばかりに両手を広げ、ドリーの両耳を叩く。
鼓膜を破った次に、ドリーの喉仏に回し蹴りを放つ。
喉仏が砕け、ゴシャリと嫌な音が響いた。
それで終わりではなかった。
ソータは何度も何度もドリーの喉を蹴り続ける。
すでにドリーは窒息状態に陥っている。
それを確認したソータは、その場から走って逃げ出した。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
キーノは、ソータの右側面に回り込んでいる途中、口から流れ出るよだれを拭っていた。
ルミリオが、ソータに先制攻撃を始めたからだ。
超加速は、キーノの目で追えない速さで動く。せっかくの挟撃は不発に終わったが、肉塊になったソータを思い浮かべ、どの部位を食べようかと考えるキーノは、様子がおかしいことに気付く。
ソータの動きも追えていないことに。
そして、次に目にしたのは、目を潰され、耳から血を流し、喉をグズグズに潰され、膝をついて前のめりに倒れていくドリーの姿だった。
「ちょっ!?」
キーノが声を上げたとき、そこにソータの姿は無かった。




