第四話
エイレーネ公国の聖都【フィネス】は非常に豊かで美しく、平和な街であった。民は戦や飢えを知らず、街道を走る子供たちも健康そうな顔つきで元気に溢れている。
「ここはソレイユ帝国と違って本当に平和ですね。とても同じ大陸に存在している国とは思えないです。昨日は公国が用意してくれた賓客用の館のふかふかのベッドでぐっすり寝られましたよ」
「ああ、ほんと、嘘みたいだな」
部下で側近の騎士であるエクトルの言葉にリュシアンは短い返事で同意した。
常に敵に監視されているという緊張感や、戦場での無惨な死に様をした躯から漂う血の匂いに神経を逆撫でられることはない。活気に溢れた都市を見ているとソレイユ帝国の王都の貧民街の飢えによりやせ細った人々の有様などが目の奥にちらついて、こんな穏やかなところにいることに罪悪感を抱く。
リュシアンの母国ソレイユ帝国は十年に及ぶ間、北の大国ノルフェン王国と泥沼の戦争を続けていた。これは異例とも言える長さで、本来であれば中立国のエイレーネ公国がもっと早い段階で仲裁に介入するのだが、ユニコーンの血を継ぐ先代賢者が犯した、聖女を攫い、その力を我が物にしようとした罪を公国は許していなかった。戦を止める役目を放棄する形でソレイユ帝国に報復し、国を疲弊させようとしていたのだ。
ソレイユ帝国の次代の賢者は公国の庇護下にあったため、初めから大きな戦力を失った状態での戦に帝国が一方的な侵略にあった。しかし幸運にも自分が魔力に目覚め、他に魔術を扱える者たちと先陣をきることで、軍の被害も抑えられてここ数年は徐々に奪われていた領地を取り戻しつつあったのだが。
「十年もすっぽかしといて、今さら偉そうに!」
聖女と元老院のお膝元ともいえる聖都にて脇目もふらずに大声で不満を漏らすエクトルの口を抑えると、リュシアンは周囲の反応を探った。何人かは不審がった目つきで噂話をする者がいたが、そこまで大事にはなっていないようだった。
「ここでは気を引き締めていけ。これから停戦調停を結ぶのに些細なことが不利な状況に働きかねない」
忠告から事の重大さを知ったエクトルが力なく項垂れる。
「すみません、侯爵様。でも俺…どうしても納得がいかなくて。もっと早くにこの話を持ちかけてくれたら助かった命があったのに…」
戦で親と兄弟を亡くし、天涯孤独となったエクトルの辛さをよく知っていたリュシアンはその頭に手をのせて慰める。
「そうだな。まあ一言ぐらい文句を言ってもバチは当たらないだろうな」
「侯爵様……」
「だが、発言する場所は考えろ。あとその目、別に可愛くもない」
キラキラとした羨望の眼差しが眩しくて、リュシアンは視線をずらすと後ろに列を成している騎士たちに声を掛けた。
「我々はソレイユ帝国皇帝の代理の使者として公国に来ている。そしてここは戦場ではない。間違っても剣は抜くな。節度のある行動をわきまえろ」
胸に拳を当てて、騎士たちは反応を返す。
そうこうしているうちにも停戦調停を行う場所、聖女の居ます宮廷が見えてきた。白を基調とした荘厳な宮廷が太陽の光を反射して、幻想的に輝いていた。
広大な敷地には公国の精鋭である聖騎士団が駐在する館や、使用人たちの館、厩舎や魔術と剣術の訓練施設があり、小さい国でありながら大国と遜色のない、むしろそれ以上に立派な造りとなっていた。
どこか現実離れした景色に浮足立っていたが、リュシアンは気を引き締めて豪壮な宮廷の門を警備する騎士に声をかけた。
「私はこの度の停戦調停のためにソレイユ国皇帝代理で参りましたリュシアン・ジラードと申します。調停の場にご案内いただけないでしょうか」
リュシアンの言葉を合図に一行は敬礼するが、警備の騎士は知らぬ顔で門を開ける素振りをみせない。それどころか、リュシアンたちの格好をひと目見るや、馬鹿にするように鼻で嘲笑ったかのようにもみえた。
(見た目で我々が正式な代理人ではないと思いこんでいるのか)
一般的に身分がはっきりしている者を騎士として募集する領主の貴族と違って、自身が孤児だった経緯から、リュシアンは身分や生まれを問わずに個人の実力から判断して騎士としてそばに置いていた。自分の力を見出してくれた存在がいたように、実力があれば誰にでも機会は与えられるべきというのがリュシアンの考えであった。
その中には傭兵出身の者や奴隷として戦場で戦ってきたもの者、孤児だった者など最下層の身分の者も数多くおり、短気で人相の悪い者もちらほらいるがそれでも胸を張って自慢の騎士だと言える仲間だった。いずれの者も戦場にいることが多いので服飾には疎く、他の由緒正しい騎士からしたら簡素な外見が野蛮に見えるのは致し方ないことだった。
不快感を露わにする部下を制しながら、リュシアンは懐から皇帝から預かってきた書状を取り出すと、努めて穏やかに対応する。
「これは我が国の皇帝からお預かりした、我々が正式な代理人であることの証明です。申し訳ありませんが、調停に遅れるわけにはいきませんので、ここを通していただけないでしょうか」
笑顔で書状を差し出すがそれには目もくれず、鬱陶しいと言わんばかりの態度で舌打ちをしながらようやく警備の騎士が口を開いた。
「通行証は?」
「はい?通行証?」
訊き直すと途端に騎士が大声を上げた。
「ああそうだ、通行証だ!さっきここを訪れたノルフェン王国の方たちは公国から送られたという通行証をお持ちだった。通行証も提示できないお前たちのようなみすぼらしい身なりをした輩が、聖女様がいらっしゃる宮廷に入るなど言語道断!即刻帰られよ!」
通行証の存在など事前に知らされていない。リュシアンは顎を撫でながら誤解を解く方法を見出していたが、気の短い者が多い部下たちは我慢の限界だったようだ。
「おとなしく黙っていたが、あまりにも横柄じゃないか!なんだよ通行証って!そんなもん送られてきてねえよ!」
エクトルが怒鳴り、他の騎士たちも口々に不満を漏らす。しかし警備の騎士は無礼な態度を崩さず、剣を抜くとそれを地面に突き立てた。
「不届き者め!では証明もなく宮廷に不法に侵入するつもりか!」
「なんでそうなるんだよ!」
話に折り合いがつくことはなく、互いに罵りあって悪化するばかりだった。
興奮している部下たちをよそに、リュシアンは事態を静観していた。
(我々を調停に参加させないための陰謀だろうな)
そうなると通行証を持っていたノルフェン王国の者と公国が手を組んでソレイユ帝国を貶めようとしたことになる。
(あの者がそれを許すはずがないと思うのだが)
今回の停戦調停においては公平を期すべく、公国から審問官を立てて、戦況や互いの国の被害の様子から停戦の条件を提示し、合意を結ぶ手はずになっていた。そしてその審問官を担うのは正義の使徒の聖騎士団の第一、第三騎士団の団長であった。
公国が戦に介入して一時休戦となった際に、ソレイユ帝国側の陣営に審問官としてやってきたのが聖第一騎士団団長であるアリシア・リコルヌだった。
未だプルエミの悲劇の憎悪が根強く、忌避の目に晒されていた彼女をリュシアンは気の毒に思っていたが、彼女はそれを気に病むこともなく、ピンと背筋を伸ばして堂々とした態度で職務を全うしていた。礼儀正しく、忖度もなく、どんな身分の者にも平等に接していた。
たとえ影で心無い言葉を言われようとも、彼女は前を向いていた。
清廉潔白とはまさにこのことを言うのだろうと彼女の姿勢に感嘆した瞬間だった。あの疑り深いエクトルでさえ、任務を終えた彼女が去る際には『かっこいい…』と口にしてしまうほどだった。そんな正義感の強い彼女が公国の不正を見過ごすとは思えない。それでは彼女の停戦調停に向けた働きが徒労に終わってしまうのだから。
物思いに耽っていると、激化してきた言い争いの声にリュシアンは意識を戻した。とうとう騒ぎになってしまい、何事かと公国の他の騎士が加勢する事態になってしまう。
「やめないか、お前たち!」
剣を抜いて対抗しようとする部下を手を止めるリュシアンの首に刃が突きつけられる。
「この責任をどう取るおつもりか」
リュシアンはごくりと生唾を呑んだ。
(激昂して剣を抜くのは絶対にあってはならない)
このまま国に戻れば不利益な条件を提示されて、それに反抗し、協議する余地もなく受け入れざるを負えないのは目に見えている。だからといってここで問題を起こせば、それ以上にソレイユ帝国の今後に影響をもたらす。
(撤退するしかないのか……)
諦めずに勝算を推し量っていると、大地を掻き鳴らす蹄の音が轟いた。
背後から迫ってくるある者の姿に、リュシアンの胸の靄が一気に晴れていった。
(幸運の女神は、まだ俺たちを見放していなかったようだ)
リュシアンを思わず笑みを浮かべたのだった。