第一話
契約結婚が行われた数ヶ月前。
エイレーネ公国のあちこちに霜が降り、冬の厳しい寒さが残る頃。
アリシアは公国から与えられた騎士団の長期の任務を終え、自らの育て親であり、聖女と共に公国を統括する【元老院】と呼ばれる五家の大公の一つ、パトス大公の屋敷で束の間の休息を得ていた。
久しぶりの柔らかいベッドで横になって身体の疲れを取っていたが、彼女が見ていた夢は決して幸せなものではなかった。
黒い稲妻がこの世の終わりを告げるように暗雲に走り、業火が黒煙をあげて激しく燃え盛る。
逃げ惑う人々の阿鼻叫喚の声もアリシアの耳には遠かった。
裸足に割れた硝子の破片が食い込むのも厭わずに、もう顔も思い出せない両親を必死に捜すが、努力も虚しく見つかることはなかった。
この状況で自分のそばに両親がいないことが何を意味するのか幼いながらにして察してしまい、不安に駆られて泣き叫びながら歩く。深い悲しみのあまり、轟々と燃える炎の熱の感覚も感じる余裕などない。あてもなくただひたすら歩みを進めると、火の追手から逃れたであろう人々が避難している場所にたどり着いた。
土埃や煤にまみれた手で目をこすり、鼻をすすりながら無意識の内に両親の姿を捜している時だった。自分の姿を目にとめるや否や、人々が戦慄して、石礫や心のない罵声が飛び交った。
一体彼らが何に恐れ、何を言っているのかアリシアには理解が追いつかなかったが、人々の怯え、怒りと軽蔑を含んだ冷たく鋭い視線、そして嫌悪するものを遠ざけようとする行動が心と身体に深い傷痕を残す。
『あいつは聖女を危険な目に合わせたことで、天からの怒りをその身に受けた国を滅ぼす【災厄】そのものだ!この不吉な黒い雷も、街を燃やした炎も全部こいつの仕業だ!』
『か弱い幼女の見た目をした悪女め!俺たちが何をしたっていうんだ!』
『人殺し!あの人を…あの人を返して……!』
『お父さんっ!お母さんっ!』
身に覚えのないことへの非難、悲鳴、罵詈雑言。
彼らの抱える怒りが、憎しみが、悲しみの感情が唐突にアリシアに降りかかり、身の危険を知らせる。
投げられる言葉の意味全てが分かるわけではないが、ここにいてはいけない。本能がそう告げていた。
混乱というのは人の正気を失わせ、普段では起こるはずのない犯罪へ導いてしまう。
自分よりもはるかに大柄の大人たちがアリシアを捕らえようと団結し、被害から免れた民家から数少ない武器を取り―。
扉をノックする音でアリシアははっと目を覚まし、慌てて身体を起こした。
閑散とした部屋を見回して、今見ていたものが夢であったことを確認すると安堵して、膝を抱えてうずくまる。
深く眠ってしまうと先程のような過去の悪夢にうなされてしまうため、アリシアは普段は眠りの浅い性質だった。どうやら最近は無理をしていたためか、夢を見てしまうほど疲労が溜まっていたようだった。
ベッドから立ち上がって伸びをし、しばらくぼうっと天井を見つめる。
(【プルエミの悲劇】からもう…十三年か)
大陸の西に位置するソレイユ帝国の都市の一つであるプルエミが、アリシアの魔力の暴走で焦土と化した事件。自らの人生が変わってしまった、まさに忘れることができない悲劇の日だ。
時が流れの早さをつくづく思い知らされていると、先程の扉をノックした者が待ちかねたのか、扉の向こうから恐る恐る返事を催促する声がした。
「あの…」
「何か用ですか」
軽く身なりを整えながら問いかけるが返事がない。今度はこちらの声が聞こえなかったのだろうか。大きな声を出すのも面倒なのでアリシアはしぶしぶ部屋の扉を開けた。
アリシアが目の前に現れると、見慣れない顔の若いメイドが怯えたように肩を竦ませて、おどおどしながらアリシアと屋敷の廊下の先を交互に見やっている。屋敷をしばらく留守にしている間に入った新人のメイドに違いない。
メイドの視線を横目で追いかけていると、アリシアもよく知っている古参のメイドたちが周囲を掃除するフリをしながら、コソコソと陰湿で品に欠ける笑い声を上げながら若いメイドの様子を見届けていた。
(なるほどね)
状況を理解したアリシアはため息をつく。
慣れとは恐ろしいもので、こんな光景を幼い頃から目の当たりにしていると、当初は感じていた腹立たしたというものが薄れつつあった。
大方、新人のメイドに古参の者が自分の過去に起こした事件について吹き込んだのだろう。それも、わざと大げさに。
(それで、怖がっているところを私のもとに連れてこられて、反応を面白がられているってことね。寝ている時に訪ねてきたのもわざと私の機嫌を損ねる意図もあったのかも)
だがこんな子どもじみたものに傷ついていては心がもたない。アリシアは平然とした態度のまま口を開く。
「何か用事があるのですか?ないのですか?」
「あ…あります!」
声を震わせながらメイドが続ける。
「せ…元老院様から…本日…宮廷へ参上するよう……お達しが…」
メイドが告げた言葉にアリシアは眉を顰める。
(今日ですって?)
アリシアが受けていた指示には明日の朝に宮廷へ来るようにとあった。公国の騎士から直接届けられた封書にそう書いてあったのだ。
「そう…。もう下がっていいわよ」
すっきりとしないままアリシアが冷たく言い放つと、目を逸らしたままメイドは一礼し、足早にその場を去っていった。
閉めた扉に寄りかかり、アリシアは長い息を吐く。戻ってきて早々に招集をかけるとは人使いが荒い人たちだ。しかしなぜ、あの若いメイドが元老院からの伝言を知っており、それを伝えたのだろうか。公国を統括する存在―いわば聖女を最高位としているこの国において元老院は聖女に継ぐ権力も持っている。国の統括に関わる立場にいる者からの封書の管轄は、屋敷で役目を担うのは筆頭執事だ。一介のメイドの仕事ではない。
(何か…きな臭いわね)
アリシアは窓を開けると空に向かって指笛を吹き鳴らした。
すると木々に止まっていたカラスの群れから一匹が合図を聞いて、いかにも不機嫌そうにこちらに飛んでくる。
「ったく、せっかく可愛い子を口説いていたのにでかい音で呼びやがって……。今日は非番って言ってたじゃないか」
鷲のようにひときわ大きな体に、饒舌に喋るうるさいカラスは、使い魔のカラス、トトであった。使い魔といっても主従関係があるわけではなく、物心がついた時から一緒にいたアリシアにとって数少ない味方であり、家族のような存在だった。
その昔に人々を脅かしていた魔獣は聖女や聖獣たちによってその姿を消したが、ごく稀に特殊な力を受け継いだ動物が生まれることがある。かつてのように人間をどうにかできるような凶暴性も力もないが、万が一のためにエイレーネ公国にてその生体調査、管理をしていた。トトもその例に漏れず、人間の言葉を話せる特別な鳥であり、もとを辿ればパトス大公が管理していた鳥だった。トトを自分のもとによこしたのは当時孤独を極めていた自分を思いやった、大公なりの優しさだったのかもしれない。
「非番になるかもしれないって言っただけよ。トト、今から宮廷に向かうことになったから頼んでいた仕事を大至急お願いね。休戦調停の場に間に合うように」
トトがぴたりと、毛づくろいをやめてしまう。
「はあ!?つい昨日任務先から帰ってきたばっかりだろうが!お前もあんなおっさんどもに素直に従うんじゃなくてな、たまにはがつんと…」
文句を重ねていたトトは言葉を呑み込む。過去の惨劇のせいで世間から非難を浴びているアリシアに、そんな選択肢などないことを一番理解しているからだ。
「あー、はいはい。オレたちにはそんな自由はないな。鳥使いが荒いなぁ、全く」
「ちゃんと好物の葡萄を用意してあげるから、許してよ、ね?」
アリシアが手を合わせて片目を閉じる。しかしこの愛嬌はトトの機嫌を直すには至らなかったようで、トトに白い目で見られてあからさまに長い息を吐かれる。
「ソレイユ産の葡萄を用意しておけよ!」
いうや否や翼を広げて飛び立とうとするトトを止めようと、アリシアは急いで手を伸ばすが、すでにトトは手の届かぬ空にいた。
「ちょっと!ソレイユ産の葡萄なんて希少価値が高すぎて無理だからね!」
わざと聞こえない素振りをしているのか、ぶつぶつと文句をたれながら飛び立っていく黒い後ろ姿が青空にとけていく。
アリシアは窓に鍵をかけて、騎士の服に袖を通した。茶色がかったブロンズの長い髪を高く結い上げ、剣を腰に携える。
(さてと……)
姿見で不恰好なところがないか確認しながら、これからやらねばならないことを頭の中で整理する。
(そういえばあのメイド、腕に打ち身の痕があったような)
びつくいていた彼女の袖を捲っていたところからわずかに見えた青紫色に腫れた腕。とても普通の仕事をしていてできた怪我とは思えなかった。
若い彼女を遠巻きから嘲笑って傍観していた他のメイドの様子が思い出される。
この屋敷では度々メイドの募集をかけても、新人のメイドが長く続くことがなかった。そのせいで、もともとパトス大公の意向で使用人の数が少ないゆえに、無駄に広いこの屋敷の隅々まで掃除が行き渡ることが難しく、その影響がアリシアの部屋には顕著に現れていた。
いつ取り替えたのかが不明なシワだらけのベッドシーツに埃を被ったカーテン。いっそのこと悪夢を見たのも寝心地が悪かったせいではと思えてくる。
(私をよく思わない使用人の嫌がらせなどどうでもいいし、私のことを悪く言われるのも慣れている)
どうせ自分は騎士団の仕事で外に出ていることが多いし、メイドが悪評を聞き、自分の存在に恐れを抱いて屋敷から逃げ出しても気に留める必要もない。だが、何の罪のない者が肉体的に苦しい思いをしているとなると話は変わってくる。
現状を知ってしまった今、黙って見過ごすことは出来なかった。
(ちょうどいいわ。あのメイドがどうして公国の伝言を私に伝えてきたのか気になっていたし)
アリシアは宮廷に向かうために必要な馬がいる厩舎ではなく、屋敷に仕えるメイドたちが食事をとっている調理場へ向かった。