第十六話
公国の宮廷で各騎士団長に用意されている執務室。そこでアリシアは椅子に前のめりに座りながら、机上に両肘をついて指を絡め、神妙な面持ちを崩さなかった。
「ということなの。これが今の私の本心よ」
今後の第一騎士団の方向性に関する話を終えて恐る恐る顔を上げると、目の前で立って話を聞いていた第一騎士団の副団長であるヴィハンが長い息を吐いた。そして次に聞こえたのは辺りの空気を震わせるような盛大な笑い声だった。
「はっはっはっ!いやはや、それが本心であれば、最初からそういえばよろしかったのに!しかもすでに対策を考えているとは……恐れ入った。しかしそれでこそ、このヴィハンが認める第一騎士団長様だ!」
あまりの声量に、彼の隣にいた同じく第一騎士団であるカミーラが耳を塞いで、不快感に顔をしかめる。仮にも上司であるヴィハンに対しても表情を隠しきれていないカミーラの正直さに、アリシアはひそかに苦笑する。
「でも団長が公国の聖騎士団の仕事に専念できない事実は変わりませんから、そこはうまく対応する必要がありますね」
カミーラの冷静な指摘に、アリシアも同意する。
「そうね。二人を呼んだのは、まさにそのことなの。どうしても、ソレイユ帝国に向かうまでに解決できないことがあって…、この前の停戦調停で決まったノルフェン王国の食糧不足の対応策の件について、調べてほしいことがあるの」
「ほう、ノルフェン国の件ですか」
腕を組んだヴィハンが思案顔になり、カミーラも困惑した様子でアリシアを見た。
「それは元老院様も交えて、話が進んでいるのではないのですか?支援策は確実に遂行されると思いますが」
「それなんだけど……」
アリシアは停戦調停の際に自身が作成したノルフェン王国の現状に関する資料を二人に見せるように差し出した。資料は過去の第一騎士団の巡察記録に記された、ノルフェン国の大雪に関することだった。
共に公正なる停戦調停を行うために尽力したヴィハンとカミーラにとっては周知の事実である。資料に目を通した二人は、アリシアの真意を汲み取れずに顔を強張らせた。
「これが一体どうされたのですか?十三年前にノルフェン国が大雪に見舞われ、そこから慢性的な食料不足に陥ったことは存じていますが……」
カミーラの問いにアリシアの目がすっと細められる。
「同じ十三年前にはソレイユ帝国で【プルエミの悲劇】が起こっているわ。そしてその三年後には、それぞれ災厄に見舞われた国同士で、十年にも及ぶ争いに発展している……。」
静かなアリシアの言葉に、察しの良い優秀なヴィハンとカミーラが目を見開く。
「団長は、プルエミの悲劇とノルフェン国の大雪には因果関係があるとお思いで?」
ヴィハンの言葉に、アリシアはこくりと頷いた。
「ええ。停戦調停ためにこの大雪の事実を突き止めたときから密かに気になっていたの。何か……裏がありそうな気がしていて。本当にエイレーネ公国はノルフェン王国のことについて何も知らなかったのかしら?第一騎士団の巡察記録に明記されているのに?ノルフェン王国が自国の国難を知られないように動いていることを事前に悟っていたとか?でもそんな疑問を解消したくても、ソレイユ帝国に戻れば、私は今みたいに自由に動けなくなる。それにこれは、何の確証もない考えだから、公に動くわけにはいかない。だから…」
「だから極秘裏に我々に動いてほしいということですね」
言いかけた言葉を先読みしたカミーラを見つめたまま、アリシアはおもむろに立ち上がる。
「もちろん、優先すべきは本来の聖騎士団の務めよ。私もできることはソレイユ帝国でするつもり」
「これも団長が過去の真実に近づくためですね?」
やれやれとため息をつくヴィハンに、アリシアは勢いよく頭を下げる。
「面倒なことを頼んでしまって申し訳ないわ。でも二人にしか頼めないの!」
少しの沈黙の後、ヴィハンが天井を仰いで、カッカッカッと豪快な笑い声を上げた。
アリシアとカミーラの肩がびくり跳ねている様子にも構うことなく、ヴィハンはそのまま言葉を紡いだ。
「いいでしょう!親愛なる団長の頼みとあれば!なあ、カミーラ」
意見を求められたカミーラも、無表情ではあったものの小さく首を縦に振った。
「業務に支障のない範囲となりますが、戦争と二つの災厄の関係性について調べてみます」
二人の答えにアリシアの顔が雲間から陽が射したように明るくなる。
「ありがとう、二人とも!」
「あと、ついでにこれも渡しておきます」
そう言うとカミーラは懐から書簡を取り出すと、淡々としたままアリシアに手渡した。
書簡の内容を確認したアリシアが驚いてカミーラを見やる。
「これは……ソレイユ帝国の?」
「はい。彼の国の周辺を巡察している第一騎士団の者から、帝国の現状を報告させました。帰還するのであれば、そちらを活用していただければと」
ソレイユ帝国の現状に関する情報収集は行わなければいけないとは思っていた。なにせ自分は母国に災厄をもたらし、国力を低下させたことで他国に付け入る隙を与え、長年に渡る戦争の原因となった憎まれるべき存在。エイレーネ公国のように自分を守ってくれるものはなく、自分の身は自分で守らなければならない。その上で事前の情報というのは、自己防衛するために必要不可欠な材料だったからだ。
ツンとしていて無愛想な態度からでも伝わるカミーラの優しさに、アリシアは心が温かくなり、自然と顔がほころんだ。
「ありがとう、カミーラ」
「当然のことをしただけです。それに、あなたに団長を続けろと無理をいったこちらにも責任はありますし」
カミーラの言葉にヴィハンがニヤつく。
「お前はほんっと素直じゃねえな!本当は団長が心配で心配で……あの報告書も必死こいて集めたくせに……ぐえっ!」
ヴィハンがうめき声を上げたのは、彼の言葉を折るように、カミーラが鳩尾に強烈な一撃を入れたからだった、
その場にうずくまるヴィハンを、冷ややかな視線で見下ろした後、カミーラが舌打ちをしてスタスタと足早に部屋を出ていく。
「照れなくてもいいって!おーい、団長の依頼をこなすには協力しないとだろ!」
先程殴られた痛みはどこへやら、ケロッとした様子で、ヴィハンは軽口を叩きながらカミーラを追いかける。
そんな二人の昔から変わらないやり取りに、アリシアはくすっと笑ったのだった。
※
「ええっ!ではあの【軍神】と名高きソレイユ帝国のリュシアン・ジラード侯爵は孤児の出ということですか!てっきり私は、王族に近しい貴族の出身かとばかり……」
フィリーが思わずアリシアを見て目を逸らした隙に、手元で注いでいた紅茶が溢れそうになり、慌てて手を止める。
パトス大公の屋敷の自室に戻ったアリシアは、自分の侍女となったフィリーにもソレイユ帝国についての情報を共有しておいてほうが良いと判断し、カミーラから受け取った帝国の現状に関する報告書の内容を読み上げて伝えているところだった。
報告書をテーブルの上に置き、紅茶を受け取ったアリシアは、それをそっと口元に寄せて、鼻腔を満たした花のような香りに、ほっと心を落ち着ける。
「私も……知っていたのはジラード侯爵の出自が貴族ではないことぐらいだったから驚いているわ」
「停戦調停の際にお調べにはならなかったのですか?」
「ええ、戦争に至った経緯を調べる上で、国の状況を知ることはあっても、個人の出自がどうとか、国の社交界の様子までは調査に必要だとは思わなかったから」
確かに…と隣で立ちながら返事をするフィリーを、アリシアは不思議そうに見上げた。
「座ったらどう?一緒にお茶をしましょう」
アリシアが何の気もなく誘うと、フィリーがぎょっとして勢いよく首と手を振った。
「と……とんでもないです!私なんかが、アリシア様と向かい合ってお茶だなんて!」
「別に私は一人で飲むためにお茶を頼んだわけじゃないから。フィリーと話したくてお願いしたの。だから遠慮せずに座って」
当然のようにそばのキッチンワゴンから新しいティーカップにお茶を入れようとするアリシアの手を手早く制し、折れたフィリーは自分で紅茶を準備すると、アリシアと向かい合うようにぎこちなく座った。
(この方はきっと……)
満足そうにお茶を啜るアリシアの様子を見ながら、フィリーもカップに口をつける。
【プルエミの悲劇】で母国であるソレイユ帝国を追われる形で公国に来たとはいえ、 アリシアはれっきとした一国の皇女なのだ。この世界でユニコーンの血を受け継ぐ唯一の存在。本来であれば、たかだか馬の調教師の家系に生まれた一介の平民である自分なんかとこうして一緒にお茶をすることなど、ありえないことだった。
しかし、彼女が歩んできた過去は過酷なものだった。非難され、罵倒され、忌み嫌われ……、およそ人が持つその尊厳を幾度となく踏みにじられてきたことだろう。
フィリーが知る貴族とは、矜持が高く、尊大で傲慢だ。中には慎み深く、謙虚な者もいたが、アリシアの場合はそのいずれにも当てはまらない。
(ご自分を卑下されているわ。彼女を取り巻く環境が、きっとそうさせてきたのね。いや…)
そうしないと生きていけなかったのかもしれない。
だからせめて、自分の前だけでは本来のアリシアでいてほしい。彼女がありのままでいられるために自分ができることは一体何だろうか…?
じーっと紅茶の表面に映る自分の顔を見つめていると、遠くから声が聞こえた。
「フィリー?大丈夫?」
アリシアの呼び声に、フィリーは自分が深く考え込んでいたことにようやく気付き、我に返った。
「はい!何でしょうか!」
勢い余って声が裏返ってしまい、ぽかんと呆けるアリシアを見て、フィリーは少し赤面した。穴があったら入りたい気持ちを堪えながら、そっとティーカップをテーブルに置く。
「えっと…ソレイユ帝国のことなのだけれど」
「すみません…考え事をしてしまいました」
素直に白状して謝り、心の中では反省として自分の頭を叩くが、アリシアは全く気にしていない様子で、体調が悪くなければいいの、と付け加えてから、話を続けた。
「ジラード侯爵は孤児ながらも高い魔力も持っていて、剣の才能もあった。鍛錬を繰り返し、軍人として戦争で数多く勝利を収めてノルフェン王国から領地を取り戻した…。民衆の指示は高いけれど、帝国の貴族の意見ははっきりと二つに分かれているみたいね」
「孤児が爵位をもらっているのが気にくわないのでしょうか」
「うん、それも侯爵位だし。加えて、孤児だった当時のジラード侯爵を引き取ったのは他でもない、ソレイユ帝国の現皇帝なの」
「現皇帝が……ですか」
気位が高い者たちにとったら、偶然皇帝に拾われた孤児が侯爵位を授かり、その右腕として活躍していたら、面白くないはずだ。現にジラード侯爵は先のノルフェン王国との戦争にて帝国を守り抜いた功労者だが、皇帝の代理として、停戦調停にも参上している。
「想像以上に複雑なようね、ソレイユ帝国の情勢も」
ただでさえ複雑な中に、自分が帰還することでさらに社会情勢がややこしくなりそうで、先が思いやられたアリシアは深い溜息をついた。
「でもジラード侯爵とは仲良くできそうですね!停戦調停でも面識がありますし」
フィリーの明るい意見にアリシアは苦い表情を崩さなかった。
「それがそう簡単な話じゃないのよね。侯爵は民たちの人望があり、一部貴族に疎まれている立場。一方の私は国全体から存在を疎まれている立場にある。それに私はソレイユ帝国の皇族で、血統の正統性を考えれば、玉座につく身分でもあるのよ?そんな状況で私たちが進行を深めれば、貴族たちは、民たちはどう思うかしら?」
アリシアの問いかけに、フィリーは「あっ…」と声をこぼして、表情を曇らせる。
「非常に難しいですね。ジラード侯爵が皇位継承に関わってくるのではないかと貴族のさらなる反感を買う可能性がありますし、民たちの信頼を失ってしまうかもしれない……、ということですか?」
「そういうこと。だから私たちは必要以上に接触するべきではないのよ。少なくともジラード侯爵には何の利益もないわ」
アリシアは天井を仰いで紅茶を一気に飲み干すと、立ち上がって書斎の席に座り直す。
「フィリー、ソレイユ帝国での生活はきっと、想像以上に厳しいものになるかもしれないわ。もちろん、あなたに危害が及ばないように私も最大限の努力をするけれど、それでも……絶対の安全は保証できない」
言葉を聞いたフィリーがすぐさま立ち上がると、ずいっとアリシアの前まで進み出る。
「以前も申し上げましたが、私はアリシア様と共に参ります!危険なのは百も承知です。それでも私はアリシアの助けになりたいのです」
「フィリー……」
するとコンコンと扉をノックする音が聞こえた。フィリーが向かうと、何やらメイドから手紙を受け取ったようで、扉を閉めた後に、手紙を持ってこちらに戻ってきた。
「アリシア様、私の実家から手紙が届きました!」
「この前言っていた、私の侍女としてソレイユ帝国に同行する件の返事かしら?」
「はい!ラリス家は弟がいますし、別に女の私がいなくても……」
手紙の封を切って内容に目を通していたフィリーの声が途絶える。
「どうかした?」
「いえ……その……」
言葉を詰まらせて気まずそうに口ごもるフィリーは、手紙とアリシアを交互に見やり、やがて意を決したように息を吸った。
「父が……アリシア様にお会いするために、明日にでもパトス大公邸を訪れると……」
予想外の内容に、引継書作成のために走らせていたアリシアの筆が止まる。
一瞬の思考の後、アリシアは書斎の引き出しから羊皮紙を取り出した。
本心まではわからないものの、フィリーの父親が今どんな気持ちでいるのか、アリシアには不思議と察することができた。
「そう…わかったわ。でも私が直接フィリーの家に行くことを伝えて。明日の昼下がりにでも伺うわ。返事を書くから、すぐに使いの者に届けさせてくれる?」
大急ぎで郵便物を届ける使用人を探すために部屋を出て行ったフィリーの後ろ姿を見送り、アリシアは彼女の実家であるラリス家に宛てた手紙をしたためたのだった。