第十五話
想像していたよりもはるかに、冬の掃除というものは手強いものであった。
水は冷たくて乾燥した手には堪えるし、換気のために常に窓を開け放っていたため、肌を刺すような冷気にさらされて、フィリーは身震いが止まらなかった。頑固にこびりついた汚れも多く、何度も桶の水を入れ替えて雑巾で磨いた。
集団で寝泊まりしているメイドの部屋の広さを有に二倍は超えるアリシアの部屋の広さに、最初は途方もないと思っていたが、休憩も取らずに、効率よくきびきび動いていると、夕暮れ時には目途がつくようになっていた。
最後に洗いたてのシーツを寝台に敷いて、天日干ししてほんのりと温かい枕を整えると、達成感と疲労感が同時にこみ上げてきた。
部屋を出ようと扉の取手に手を置いたものの、足に力が入らなくてよろけてしまい、フィリーはそのまま扉に背中を預けた態勢で床に座り込んだ。
お腹は空いて、病み上がりの身体は鞭を打つように気力で働いたため悲鳴を上げていた。
暖炉に火を焚いたおかげで部屋が暖かくなり、うとうとと何も考えられなくなって、視界が塞がっていく。
(あとは…温かいお茶を用意して…)
パチパチと火が新を飲み込む音が遠く聞こえたまま、フィリーは少しだけ休もうと目を閉じた。
(身体が温かい……)
何かに包まれている感覚がする。手触りから推測するに毛布だと思われるが、自分で掛けた記憶なんてない。
もぞもぞと毛布の中で身体を丸めて縮こまっていると、外ではチュンチュンと、小鳥たちが可愛らしくさえずり合っている声が聞こえた。この鳴き声を聞くと、もう朝なのだと思い知らされる。
(もう朝か……)
フィリーは呑気に構えていたが、欠伸をした瞬間にそのまま口を開けたまま、彫像のように固まった。
(え、朝?もう朝が来たってこと!?)
思わずくるまっていた毛布を除り飛ばして、勢いよく上半身を起こした。
すると目の前に通常よりも一回りほど体格の大きなカラスが爛々とした黒い眼がフィリーを見つめていた。
「よお、人の部屋で寝る図々しいメイドさん。アンタがこの部屋を掃除してくれたんだな!埃臭くて嫌だったんだよ。ここまで綺麗にするなんて、なかなかやるじゃないか」
翼を羽ばたかせて、饒舌にペラペラと残るカラスにフィリーは腰が抜けそうになりながらも後ずさりした。
「か...カラスが喋ってる!」
「トト、脅かしたらダメじゃない」
トトと呼ばれたカラスが飛んで行った方へ視線を送ると、騎士団の制服よりも色合いも落ち着いたラフな私服姿で、ソファーに腰掛けながら読書をしているアリシアがいた。
フィリーは慌ててその場で頭を下げた。
「た…大変失礼いたしました!勝手に部屋を掃除したどころか、寝てしまうなんて…」
パタンと本が閉じられる音にフィリーは反応して、肩がびくりと眺ね上がる。
足首が近付いてくることが分かっていたが、怖くて顔を見ることができなかった。
「フィリー、と言ったわよね」
「はい……」
長い沈黙には耐えられず、恐々と顔を上げると、目の前に先ほど喋ったカラスの顔が迫っていた。それはガアと、大きくしゃがれた声で鳴いた。フィリーは驚いて、短い悲鳴を上げながら仰け反った。
フィリーと同じ目線になるように屈んでその反応を見ていたアリシアが、口元を手で押さえながら、楽しそうに笑っていた。
こんな風に年相応に笑うこともあるのかと、初めて見た貴重な表情を目にしたフィリーは呆けていた。
「これはトト。私の使い魔なの。普通のカラスとは違って人の言葉を理解できるし、話せるのよ」
そう説明したアリシアの肩に乗ったトトがよろしく、とでも言うように翼を広げる。
場を和ませようと思ったのか、様子を探っていたのか真意は分からないが、アリシアは覗き込むようにフィリーの目を見つめた。
「ねえ、あなた前に、私の侍女になりたいって言ってたけど…当然、私に対する世間の評価は知っているわよね?」
「え?あ、はい……存じております」
ためらいがちにフィリーは答える。
「それでも、本当に私の侍女になりたいと思う?もしかすると、私と一緒にいるあなたに危害が及ぶかもしれないのに?」
先ほどの子供のような無邪気な顔つきから一転して、問いかけたアリシアの目つきが真剣なものになる。
「私は母国で忌み嫌われている。帰還すれば、この公国よりももっと酷い扱いを受けるかもしれないわ」
これは、自分を試しているのかもしれないと感じたフィリーは、下手に嘘を吐くことはアリシアを失望させ、今後二度とこのような信頼を得るチャンスは来ないと予期した。
「正直に申し上げれば、不安がないことはありません。ですが、アリシア様も世間からどう思われていようとも、勝士団長としての使命を全うされているではありませんか。私も同じです。世間にどう評価されようとも、私は自分の心に従いたいと思います」
アリシアから視線を離さず、フィリーはそう言い切った。それが本心だった。
フィリーの言葉を聞いたアリシアは立ち上がると、考え込むようにじっと一点を見つめたまま動かなかった。それから机に向かうと、何か手紙をしたためはじめた。
想いが届かなかったのかもしれないと、フィリーが気落ちしていると、突然アリシアに名前を呼ばれた。
「フィリー」
「はい!何でしょう」
背筋をピンと張ってアリシアを見やると、彼女は微笑んでいた。
「私はこれから元老院に書状を送るわ。ソレイユ帝国への帰還にあたって、侍女の随行を許可してほしいと」
アリシアの言葉に、雲聞から光が射したようにフィリーの表情がぱあっと明るくなった。
「そ…それでは…!」
「あなたも実家のラリス家に手紙を送ること。ご両親の許可もなく強引に侍女にすることはできないから」
フィリーは立ち上がるとぺこりとお辞儀した。
「分かりました!大丈夫です、説得してみせます!」
自信満々に胸を叩いて、フィリーは慌ただしく部屋を出て行った。早速、両親に手紙を書きに行ったのだろう。
山や海の天気のように表情がくるくると変わり、朝から騒がしいことだと、アリシアはトトと顔を合わせて笑った。