第十四話
アリシアは仕事の合間を縫っては、花などを添えてフィリーを見舞ってくれていたが、その時間帯は決まって、皆が寝静まった夜であった。
ソレイユ帝国への帰還にあたり、準備に追われているのだろう。体調は大丈夫か、食事はきちんと取れているか、しっかり睡眠時間は確保できているのかなど、考えだしたらいくつも心配事が浮かんで、気が気ではなかった。
身の回りの世話をする侍女がいればいいのだが、進んで立候補する者はいないし、自分の立場を理解しているアリシア自身が、そもそも待女を必要としていない。
けれどもその諦めの感情の中に物悲しさのようなものを敏感に読み取っていたフィリーは、毎日のアリシアの動向が気になっていて、勝手の利かない身体が煩わしかった。
体調が全快し、侍医からも通常通りに働いてもよいことを許可されると、職場に復帰できるという報告も兼ねて、フィリーは真っ先に執事長のもとへ向かった。
見舞いに来てくれたアリシアへ礼を述べたい旨を執事長に伝えたが、話によると、アリシアは連日連夜、この屋敷の自室でわずか数時間の睡眠を取るだけで、それ以外は宮廷の騎士団長室で仕事をしているらしい。さらに今日に限っては既に勇退している前任の第一騎士団団長の邸宅に向かっており、帰宅がいつになるか分からないというのだ。
落ち込むフィリーに執事長は、そんなに感謝を示したいのであれば部屋でも掃除すればいいと提案した。不必要に私物や書類などに手を出さないことを条件に、アリシアに何か言われるようなことがあれば賞任は負うので、自由にやってもいいと背中を押してくれた。
名案だと執事長の提案を快諾したフィリーは、思い立ったら吉日だと、掃除道具一式を両脇に抱え、軽やかな足取りでアリシアの部屋に向かった。
彼女の部屋はお世にも綺麗と言えるものではなかった。それは物が散らかっているといったものではなくて、窓から差し込も光で部屋に舞っている挨がちらついていたり、しわくちゃになった寝台のシーツや、汚れで滑りが悪くなっている床や、年頃の娘の部屋とは思えない年季の感じる絨毯や家具など、行き届いていない部屋の手入れに開題があった。
アリシアは屋敷を留守にしていることが多いものの、本来はその所在に関わらず、屋敷の使用人が掃除するのが当たり前のことだった。
(ここまで徹底して集がらせをするかしら、普通。アリシア様が何をしたっていうのよ)
善良な使用人はいくらでもいただろうに、あのドルカがアリシアに関する噂を吹聴して、彼女が孤独になるように、他の使用人に恐怖心や嫌悪感を植え付けていたに違いない。
実際にフィリーも屋敷に入りたての時はアリシアの悪口を聞かされたものだ。
過去の苦い記機を思い出し、ため息を吐いたフィリーだったが、気合いを入れなおすように口元を布で覆い、ずれ落ちないように野後ろできつく結ぶ。
この広さを掃除するのはさすがに骨が折れそうだ、と意気込みながら、フィリーはどこか上機嫌に方を回した。
手土産を携えたアリシアは、エイレーネ公国の中心部、聖都フィネスからほど近い郊外を気分転換も兼ねてのんびりと歩いていた。
ここ数日は報告書の作成といった身体を動かさない事務的な仕事に追われ、宮廷の執務室に篭りきりになっていることが多かった。どうも身体がなまってしまいそうで、こうして都会の喧騒から離れた郊外の道を歩いていると、伸び伸びとすることができて、良い気晴らしになった。
しかし、此度の休戦調停に関する記録書をまとめ上げても、やらなければならないことは詰まっている。特に喫緊の課題なのは第一騎士団の次期団長候補の推薦だった。
頑なに副団長のヴィハンは首を縦に振らないし、彼以外の候補者も見出せない。八方塞がりになっていたアリシアは最後の頼みの綱にかけることにした。
(そういえば彼女はもう今日か明日にでも仕事に復帰していいと待医が言っていたわね)
唐突に侍女にしてくださいと懇願してきたフィリーというメイド。突然の申し出にアリシアも戸惑ったが、冷静に考えて自分の侍女になるのはデメリットがあまりにも多すぎる。
世間から存在をやっかまれている自分の隣にいると、フィリーが変わり者だというあらぬ噂を立てられかねないし、危害を加えられる可能性もある。
(彼女の気持ちが本心かどうかも、まだ分からない)
一時的に寄せられる同情など、長続きはしない。目が醒めると、人というのは平気で他者を裏切ることができる。そういう現実をいくつも目の当たりにしてきた。彼女の想いも、きっと触れれば溶ける雪のように淡く、確証のないものだ。
(私のしてきたことが、少しでも誰かの助けになれたら、それでいい)
多くは望まない。自分は望んでいい身分の人間ではない。
フィリーのように直接感謝の意を表するべく行動する者はほとんどいない。だから本当は彼女の気持ちは嬉しかったが、矢面に立つのは今までも、これから先も、自分だけで充分だとアリシアは自分に言い聞かせる。
考えことをしているうちに、青い屋根が目印のとある邸宅までやってきた。
門に備え付けられている小さな鐘を鳴らすと、ほどなくしてアリシアもよく見知っている執事が鐘の音を聞きつけて現れ、互いに恭しく挨拶した後に邸宅を案内してくれた。
通された客間で手土産を渡すと、事前に手紙にて訪問する旨を伝えていたので、何も言わずとも執事が主人のもとへアリシアが来たことを報告しに行った。
メイドが紅茶を注いでもてなしてくれたが、それを飲む前に執事が戻ってきて、主人がいる自室に通してくれた。
「旦那様、アリシア様をおつれいたしました」
「入ってくれ」
返事の後、執事が扉を開けてアリシアに中へ入るように促す。
窓から見える邸宅の庭を眺めながら、クッションの敷かれたロッキングチェアに揺られ、優雅に紅茶を飲んでいた老紳士が、アリシアに振り向いた。
「よく来たな、アリシア。顔つきが以前と違って大人びたように見える」
アリシアは簡単なお辞儀をした。
「ご無汰しております、ダモン様。なかなか伺うことができず、申し訳ありません」
礼を受け入れたダモンはアリシアを近くの椅子に座らせ、数事にアリシアの分の紅茶を用意するように指示する。
執事が一礼して扉が閉められ二人だけになると、ダモンは手にしていた飲み干したティーカップを円卓に置いた。
「聞いたぞ、賢者としてソレイユ帝国への帰選を命じられたとな」
こくりと首を縦に振ったアリシアの浮かない顔に、ダモンは苦い笑みを零す。
「まあ、お前さんが何の用事もなしにここに来るとは思えんしなあ。何かその関係で悩んでいることでもあるのか」
心の内側を見透かされているようで、アリシアは遠慮がちな問答は不要だと判断し、さっそく本題を切り出した。
「ダモン様、折り入ってお願いがございます。もう一度、第一騎士団の団長の座に就いてくださいませんか」
空になったティーカップに紅茶を注ぐダモンの手がピタリと止まった。
アリシアの真意を窺うように、ダモンの目がじっとアリシアの表情を凝視する。
ポットから手を放して、天井を仰ぎ、ダモンはそうしてしばらくロッキングチェアの揺れに身を任せていたが、やがて扉が小さく叩かれると、アリシアの分の紅茶を準備してくれた執事が入室した。
慣れた仕草で執事が紅茶を注ぐ音を聞きながら、アリシアは次の言葉の準備を整える。
アリシアとダモンの間に流れる空気を察した執事は、アリシアに紅茶を差し出した後、足早に部屋を退室した。
静かな空間に、ダモンの紅茶を啜る音が響く。
アリシアが話を切り出そう身を乗り出す前に、ダモンが呟いた。
「お前はどうしたい?」
「私は本当は…、ヴィハンに団長を引き継いでもらいたいです。確かに少しずれているところはあるかもしれませんが、団長の素質としては十分で……」
アリシアは言葉を断ち切ったのは、喋るのを止めるように、ダモンが手で制したからだった。
「違う、そうではない。私が聞きたいのは、お前の本音だ。お前はこのまま団長の座を降りてもいいのか?私と違って、まだ二年も務めを果たしていないだろう」
アリシアは俯いた。
「私とダモン様は違います。一緒にしないでください」
ダモンの生家、アダマス家はその当主が建国時代より代々エイレーネ公国の聖騎士団の団長を歴任してきた名誉ある家系だ。
初代聖女より直々に魔力を授かった一族でもあり、一般的に普及する火、水、風、土、光のいずれにも属さない、あらゆるものを凍てつかせる魔力を有する。
ダモンは当主として長きに渡って聖第一騎士団の団長を務め上げた実力者であり、寡黙な老将だが理不尽な差別を許さず、努力した者を認め、他者に慕われる人格者でもある。
アリシアに対しても忌避することなく、他の団員たちと対等に接し、騎士としての心得を教授してくれた。
生まれ持った立場も、人としても、自分とは雲泥の差だった。
(私だって、このまま聖騎士団に所属していたい。それにまだ、団長としてやりきれていないことがたくさんあることも分かってる……。でも私は……、自分の立場を弁えなければならない)
過去の罪は消えない。その背に背負い、一生をかけて償うものである。枷がついた自分にわがままなど許されない。
「私はあくまでもエイレーネ公国に保護された身。ソレイユ帝国に帰還すれば、そこでの贖罪を果たさないといけません」
恩師とも言えるダモンに、ぞんざいな態度は取りたくなかったが、本心と現実が渦巻く葛藤に、つい語尾が強くなってしまう。
「【プルエミの悲劇】、か……」
ダモンの深いため息を吐く。
恐る恐る顔を上げると、ダモンは険のある顔をしていた。
「真実を追求する者になるーのではなかったのか?」
ダモンの言葉に、アリシアは思わず漏れそうになった声を息張って止めた。
それは育て親のパトス大公から幼い頃より念仏のように聞かされていた文言であり、アリシアが聖騎士団に入団したての時にダモンに言ったことだった。
災厄と呼ばれ、母国で蔑まれていた自分を保護してくれた公国へ恩を返すのは当然だが、何よりも、誰にでも平等であり、自分のような辛い経験をする者がいないように、徹底して真実を追い求める者になりたいと。そうすればいつか、あの日の悲劇の真相に近づける気がしたからだ。
だが、現実は甘くなかった。どれだけ努力しようとも、堅固な理念を持っていようとも、擦れ込まれた印象というのは簡単に拭えるものではない。世間を見る自分の目は冷たく、自分に対等に接してくれる者は数えるほどだ。
アリシアはそれを身をもって痛感した。
「懐かしいですね。覚えていていらっしゃったとは」
「あの時のお前は濁らない、澄んだ瞳をしていた」
アリシアは苦虫を噛み潰したような表情になる。
「その言い方だと、まるで今は濁っているかのように聞こえます」
「あながち間違いではあるまい」
アリシアはティーカップに注がれた紅茶に映る自分の暗い表情を見つめながら、湯気が立たなくなった紅茶を口に運んだ。
少し冷めてはいたが、それでも柔らかな茶葉の香りと旨みが損なわれることはなく、飲むと身体が温まり、ほっと一息つくことができた。
「アリシア」
アリシアの心境が少し落ち着いたのを見計らって、ダモンは声を掛ける。
「お前が辿る道は暗く、見通しの立たないものになるだろう。しかし、いかなる時でも、最後は自分の心に従うように」
「自分の心…」
口から衝いて出たようにアリシアは同じ言葉を繰り返す。
脳裏に巡ってきたのは、厳しくも自分の行く末を見守ってくれたパトス大公の無愛想な表情や、第一騎士団の仲間たちと過ごした日々、そして休戦調停にて信じてくれるジラード侯爵一行や、感情が溢れて涙を流すノルフェン王国の使者たち。
『どうか私を、アリシア様の侍女にしていただけませんか!』
フィリーの言葉がはっきりと耳の奥にこだまする。
(私はどこか、諦めていたのかもしれない)
自分の行いなど、誰も認めるものなどいない。ずっと一人で迷惑を掛けずに生きていくことを考えていた。
でもとっくに、自分を見てくれる人はいた。これまでやってきたことは無駄ではなく、数はごくわずかかもしれないが、さまざまな縁を実らせていた。
(知らぬ間に卑屈になって、自分の力に線引きをしていた)
ふとアリシアの銀の瞳に一筋の光が浮かんだ。
一つ、ソレイユ帝国に帰還することになっても、騎士団長を続けられる方法があった。一か八かの賭けにはなるが。
「ふむ、いい顔になったな」
微笑みかけたダモンに、アリシアは口元に薄い笑みをたたえた。
「弱気になっておりました。初心の気持ち、忘れないでいようと思います」
「なんとか迷いから抜け出せたようで何よりだ。この老人にもう一度団長をやれとは、そなたも酷な人間だと思ったぞ。して、他の皆も息災か?」
ダモンには身内がいない。産褥熱で妻を失い、仕事で忙しく、家庭を顧みることができなかった父を見限って娘が家を出て行ってしまったせいか、第一騎士団の者たちを家族のように面倒を見て、可愛がってくれていたので、騎士団のことが気になるのだろう。
そこから二人は和やか雰囲気で談笑を続けた。
今回の休戦調停についての細かい話から、昔話に花を咲かせた。
途中で気を利かせた執事が昼食にサンドウィッチを用意してくれたので、食事を挟みながらも時はあっという間に流れていった。
気がつくと外は月と星が輝きはじめており、ダモンは御者を呼んで馬車で帰れるように手筈を整えてくれた。
パトス大公邸に戻る道中の道で、馬車から月を眺めていたアリシアの心は、その空の月のごとく冴え冴えとしていた。
(上手く私の意見が通ればいいけど)
意見を通すためには、自分の中でしっかり話を固めて、まとめておく必要があるだろう。
夜道を走り、聖都フィネスの城門を通ったところでアリシア馬車の窓から顔を引っ込めた。
間もなくして馬車が屋敷に着くと、足早に自室へ向かった。
扉の取手に手をかけたところで感じた違和感に、アリシアはその場で固まった。
(寝息……?)
確かにこの扉越しから寝息が聞こえる。もたれかかっているのだろうか扉は重く、押しても引いても、寝ている本人を起こすことになるだろう。
(でも一体誰が、何のために私の部屋に?)
重要な書類に関しては警備がしっかりしている宮廷の執務室に保管しているので問題はない。盗まれるような高価な物も置いていないし、第一この部屋は自分が方から一度も掃除されていない。わざわざここに来て、しかも寝ているとは相当なすきものだ。
どうしようかと対処に考えあぐねていると、パトス大公邸の執事長がやってきた。
執事長は一礼すると、扉に目をやった。
「中にいるのはフィリーです。朝からどうしても、見舞ってくれたアリシア様に謝意を示したいと申しておりまして」
「謝意を示すことと、私の部屋と何の関係が…」
言いかけてアリシアは、もしかしてと目を大きく張り、言葉を切った。
フィリーがここで何をしていたか、察することができたのだ。
「彼女一人で?いくら私の部屋は何もないといっても相当の広さよ?」
ただでさえ元々少ないメイドの数を、この前の件でドルカたち四人を退職させて減らしたため、他の者が手伝う余裕などないはずだ。
アリシアの問いかけに執事長は答えた。
「わたくしは執事長として長く勤めて参りました。それゆえにずっと気になっていたのです。アリシア様のお部屋の件に関しましてはわたくしの監督不行き届きとしか言いようがありません」
アリシアはため息をついて、額に張り付いた前髪をかき上げた。
「気にしなくてもいいわ。この屋敷の家計まで管理している執事長のあなたが、私の部屋まで気にする必要も余裕もないことも分かってる。それにドルカたちは強かだったから、侍女長やあなたを適当に言いくるめていたんでしょう?別に今更、咎めるわけではないわ。で、フィリーに命令したの?私の部屋の掃除を」
執事長は首を横に振った。
「私は提案をしたに過ぎません。彼女は進んで自ら意思で掃除をしておりました」
がたん、と扉の向こうで何かが倒れる音がする。
扉に手を掛けてみると抵抗がなくなっていたので、アリシアはそっと引いて扉を開けた。
見違えるような部屋の雰囲気にアリシアは目を疑った。
新鮮な空気に、冬の寒さを和らげるために暖炉に火が焚かれていて、冷えた身体を温めてくれる。
カーテンや絨毯は以前の色褪せ、薄汚れたものから赤を基調とした小洒落た刺繍が特徴なものに変えられており、色の効果もあってより部屋に温かみが増していた。
至る所が雑巾で水拭きされて磨かれており、埃は一つも舞っていない。寝台の枕やシーツも真っ白で不毛が敷き詰められたものになっており、安眠が期待できそうだった。
「これを…たった一人で。しかも、私のために…」
アリシアは扉の脇にしゃがみ込むと、床に倒れながら寝ているフィリーをまじまじと見つめた。
冬の真水は冷たかったのか、手は荒れてあかぎれており、白い頭巾は汚れで黒ずんでいる。
それでもその顔はどこか安らかに笑っているように見えた。
「ベッドで寝かせてあげたいところだけれど、そうすると彼女の努力を台無しにしかねないわね」
小さく笑いながら、アリシアは執事長に毛布を持ってくるように頼み、それをフィリーに掛けてあげたのだった。