第十三話
アリシアがパトス大公邸に戻ったのは夜明け前だった。
あれから一晩中、眠気が飛ぶほどのやかましい説教が続いた。みな酒が入って酔っているせいか、幾度となく同じ言葉を繰り返したり、泣き上戸になる者もいたりと、とにかく騒がしかった。
第一騎士団の馴染みの店であったので酒場の店主もいつもの光景だと、終始笑顔で付き合ってくれた。アリシアはいたたまれない気持ちになり、隙を見て店を出ようと試みたが、ヴィハンとカミーラの勘の鋭さに阻まれて、結局全員が酔いつぶれるか、寝静まるまで待つしかなかった。
最後はうたた寝していた店主に声を掛けてお金を置いていくと、音を立てないように注意しながらそっと酒場を後にした。
(それにしても今日はしつこかったな…)
慣れないお酒を飲んだせいか、何かに殴られたようにズキズキと疼く頭を押さえながら、アリシアは屋敷を警備していた衛兵に、馬を厩舎まで連れて行くように頼んだ。
(新しい団長の件についてはヴィハンが適任だと思っていたんだけど)
アリシアはソレイユ帝国に帰選するにあたり、元老院から次の団長を指名する権利を与えられたことを改めて団員たちに話した。そして副団長であるヴィハンを自分の後任に、カミーラを副団長に任命することを考えている旨を明かすと、団員たちから非難の嵐が巻き起こった。
『勘弁してくだいよ….!あの強烈な挨拶という名の地獄のハグが、毎日横行するとなるとこちらの身が持ちません!』
『数か月に一度のカミーラ殿の鬼の教練が、日常的な訓練になってしまうと…、今から吐き気が』
『お願いです団長!団長は人の心がある方だ!我々を見捨てないでください…っ!』
このように散々な言われようだった。酔った勢いで情緒が不安定になり、泣いている者もいる。当の本人たちも否定していない様子を見るに、団員の悪い予感は決して的が外れたものではないのだろう。
エイレーネ公国の聖騎士団の者に限らず、人には努力の才を持つ者と、天賦の才を持つ者の二通りがある。後者である天賦の才に恵まれた者は俗に天才とも称されるが、ヴィハンとカミーラはこの天才とされる部類に該当する。もちろん全く本人の努力がないとは言わないが、初めから他者が羨む才能を会得しているのだ。その弊害が、自分たちができて当然のことができない理由が理解できないことがある。少し、一般の者と比べると感覚のズレがあるのだ。
アリシアから見ても、二人の訓練は度が過ぎると感じることがあった。実際にアリシアも入団した頃は、ヴィハンの地獄のハグ、カミーフの鬼の教練の餌食に何度もかかった。正直、血反吐を吐くほど辛かった記憶しかない。特に地獄のハグは今でもぞっとする。
一方で前者である努力の才を特つ者が割合的には大多数を占めるだろう。アリシアも本来であれば天才と呼ばれる才が備わっていたかもしれないが、十三年前の悲劇で全てを失った。
魔力を扱うことができず、ただひたすらに剣の道を究めてきた。そういった意味でも、アリシアは他の団員の気持ちを吸むことができた。
『でも、二人以上の適任者もいないのだけれど…』
行動や訓練内容に少し難があるものの、ヴィハンとカミーラは間違いなく優秀な人材だ。経験も剣術も魔力も、他の団の団長たちと比べても申し分ないのだが、ここまで泣き落としされるとは思っていなかった。
アリシアが途方に暮れていると、ヴィハンが口を開いた。
『俺も嫌ですぜ、団長になるの』
まさかの発言に戸惑いを隠せないアリシアをよそに、カミーラも続く。
『私も嫌ですよ、副団長なんて』
『え..どうしてよ』
酒の力を借りて言っているとは思えないほど真剣な声色だった。ふざけてこんなことを言う性格の人たちでもないのだが。
『だってよ、年取って引退とか、怪我とかなら分かるけどよ。俺よりも強くて若い奴が、団長の任から降りることが許せねえ』
『同意します。頑張って賢者と団長の役目を両立してください』
自分の一存ではどうにも答えられない無茶な要求に、アリシアは手元の酒を一気に飲み干すと、つい声を荒げて言った。
『そんなの…そんなどうにもならないこと言わないでよ!それに私、そんなに強くないから!』
『いーや、強い。魔力を使わずして俺らに勝つことができる実力がある』
『それは…だって、魔力を使うと何が起こるか分からないし…』
パトス大公と前任の第一騎士団長の配慮もあって、アリシアは過去の経緯から、“あえて魔力を使っていない”と周りに認知されている。アリシアが魔力を扱えないことを知っているのは自分自身と使い魔のトト、育て親のパトス大公に、長く公国の第一騎士団の団長を務めたダモンという前第一騎士団長だけであった。
『とにかく私は辞退しますので。他をあたってください。まあ、私より強くて、それなりの人格者でないと認めませんけど』
『なにそれ、不可能じゃない!』
互いに譲らず、出口の見えない意見の応酬が続き、時間が過ぎたというわけであった。
(一体私にどうしろって言うのよ)
しかし元老院から後任を推薦するように言われている以上、このまま引き下がるわけにもいかなかった。
突然芽が出た悩ましい種に頭を抱え、アリシアが屋敷の階段を上っていると、よくこの屋敷に出入りしている侍医とすれ違った。
「遅くまでご公務お疲れ様でございます、アリシア様。気を失っていたメイドの娘ですが、容態が安定しましたので、わたくしはひとまずこれで失礼いたしますね」
帽子を脱いで会釈をすると、侍医は衛兵に誘導されながら屋敷を出て行った。
段々と眠気が襲ってきていたアリシアはその様子を呆然と見ていたが、やがて進みだしたその足先は医務室へと向かっていた。
(そうか、まだ一日しか経っていないのか)
たった一日の間に多くのことが起こりすぎて、数日経ったような気でいたが、事の発端はあの一人のメイドの勇気ある行動からだった。
(確か、フィリー・ラリスと名乗っていたわね。私に会いたかったと言っていたけれど、私が停戦調停の任務遂行のために、長く遠征している間に、この屋敷に来たのかしら)
命に関わるような怪我はなかったものの、痛々しい痣や火傷をした時にできるミミズ腫れのような湿疹があったことを思い出しながら、アリシアはノックをせずに静かに医務室に入った。
柔らかいベッドで横になっているフィリーというメイドは、その白い頬や額がまだ赤く腫れていたものの、呼吸も安定しており、穏やかな表情で眠っていた。迅速で的確な処置のおかげで、この様子なら、痕が残ることもなさそうだった。
その脇の椅子に腰を据えると、彼女の額に手を添える。
(熱もなさそうね)
無事であることをこの目で見て確認したところで、唐突に耐えがたい眠気が襲ってきた。
座っていた椅子の背もたれに体重を預けながら、アリシアはだらりと力を抜きながら天井を見上げる。
(ラリス家といえば、代々名馬を育ててきた調数師の家系のはず……他の貴族の娘なら奉公として大公家に仕えるのは理解できるけど、どうして彼女がここへ...?)
疑問が浮かんだが、重石が乗せられているように、臉を持ち上げることが億劫になっていた。程なくして考える暇もなく、ぷつりと意識が途切れたのであった。
一体どれほど眠っていたのだろうか。
鳥のさえずりと、さらきらとした朝陽が眩しくて、フィリーは目を覚ました。
起き上がろうとすると、まだ節々の関節やあちこちに痛みが走ったが、気を失う前に比べるとかなり身体が軽くなっていると感じた。
所々に包帯が巻かれている自分の手をぼんやりと見つめながら、あれからどうなったのだろうかと考えていると、隣で誰かの寝息が聞こえた。
驚いて振り向くと、フィリーが寝ていたベッドの隣の椅子で、今にも床に滑り落ちそうな体勢にも関わらず、バランスを保って器用に寝ているアリシアがいた。
よほど疲れているのだろうか、茶色がかった艶のあるブロンズの髪はところどころぼさついており、あどけない寝顔がさらされていた。
彼女のこんな無防備な姿を拝める機会なんて滅多にない。フィリーはまじまじと目に焼き付けていた。
(顔小さ……、鼻高い……、まつ毛もなが……)
感激のあまり希少な美術品でも拝むように丁寧に見つめながら、フィリーは興奮で息巻きそうになり、アリシアが起きてしまわないように、口元を手で押さえる。
(でもどうしてここに?もしかして、こんな一介のメイドの私を気遣ってくださって!?)
なんて優しい方なのだろうかと、自分勝手に都合よく解決して想像を膨らませ、浮足立っていると、ずるりとアリシアの身体が大きく傾いた。
本人は熟睡しているのか目覚める気配はない。
(アリシア様が怪我をしたら大変だわ!)
自分の怪我のことを考えるよりも先に身体が動き、フィリーはベッドから身を乗り出して、アリシアを支えようと両手を伸ばした。
しかし、椅子から滑り落ちそうになるすんでのところで、アリシアの目がぱっと開かれて、瞬時に体勢を立て直した。
フィリーの両手は助けになることも虚しく、勢いよくそのままベッドから転げ落ちる。
「いっ……いったぁい…」
全身を派手に床に叩きつける形となり、情けない声が漏れる。
そろそろと起き上がって頭を上げると、アリシアがまじろぎながらフィリーを見つめていた。なぜ自分がベッドから落ちたのか理解できていないようだった。
「夢でも見たの…?」
そう不思議そうに問いかけながら、立ち上がるのを手伝おうとしてくれたのか、アリシアが手を差し出してくれる。
「い…いえ、私が好きでしたことなのでお気になさらず」
よく考えればアリシアは公国の名高い聖騎士団の団長だ。野宿をする事だってあるだろうし、訓練で鍛えられているのだから、己の身の危険時に身体が反射的に目覚めることなど造作もないことに違いない。
身体の痛みなど吹き飛び、フィリーはアリシアの手を取りながら羞恥で顔を真っ赤にする。アリシアは小首を傾げていたが、それ以上は何も言わなかった。
支えてもらいながらベッドに座ると、フィリーはアリシアも椅子に腰を下ろしたのを見計らって、ちょこんとあたまを下げた。
「あ…あの、助けていただいてありがとうございました」
「お礼を言うのは私の方よ。あなたの勇気のある行動のおかげて二つの国が救われたもの。本当にありがとう。そして、巻き込んでしまってごめんなさい」
アリシアの声色はとても優しかった。そして申し訳なさそうに視線を落とす。
心配をかけるわけにはいかないと、フィリーは気丈に振る舞った。
「大丈夫です!実家は調教師の家系で、小さい頃から馬に蹴飛ばされてきたんですから!」
自慢げに語り、なんともないことを見せつけるように両手を広げてみせる。
そんなフィリーの気遣いが心に響き、アリシアは微笑んだ。
「ええ、頑丈そうだものね」
「そうなんです!だからお気になさらず!」
和やかな空気を作り出してくれた彼女に心の内で感謝しながら、アリシアはあの後に何があったのか簡単に説明した。
フィリーには事実を知る権利があると思っていたからだ。
彼女は真剣にアリシアの話に耳を傾け、こくこくと首を縦に振っていたが、やがて話がアリシアの帰還の話になると、その顔色が変わり、血の気のない表情になっていた。
まだ体調が万全ではない怪我人に負担をかけてしまったと反省して、アリシアは切りのいいところで話を終わらせた。
「あなたと会えるのもあと一ヶ月だけだけれど、これからもこの屋敷で頑張って働いてくれると嬉しいわ」
労いの言葉を掛けて、去ろうとするアリシアの袖をフィリーは咄嗟に掴む。
「あの……!」
何事かとアリシアがフィリーを見つめる。
「私…ずっとアリシア様にお会いして、お伝えしたいお言葉がございました」
アリシアは静かに次の言葉を待ってくれている。
深呼吸で心を落ち着かせると、フィリーは伝えたいと思っていた言葉を整理した。
「一年ほど前でしょうか。私は以前、アリシア様に助けていただいたことがありました。ここ聖都フィネスで、暴れ馬が手がつけられないほど暴走していたことは覚えておられるでしょうか」
アリシアの目に何かを思い出したような光が浮かぶ。
「あの時の…」
「その節は本当にありがとうごさいました。もし馬が人を傷つけてしまうことがあれば、家門もその責任を問われ、どうなるか分からないところでした」
「言ったでしょう。人を助けるのは当然のことよ」
言い切るアリシアに、フィリーは言葉を重ねる。
「当然ではありません。それは素晴らしいアリシア様の才能だと思うのです。あの日から私は、アリシア様をお慕いしておりました」
胸に当てた手を握りしめて、フィリーは意を決するように口を開く。
「お…おこがましいかもしれませんが、私はアリシア様のそばで力になりたいと思っていました!ここで働いているのも、大公様のためでなく、アリシア様にお仕えしたかったからです!」
アリシアが驚いて目を丸くするのも気にせず、前のめりの姿勢で、フィリーは熱く語る。
「どうか私を、アリシア様の侍女にしていただけませんか!」
しんと部屋が静まり返る。
答えを聞くのが怖くて、フィリーはぎゅっと目を閉じていたが、やがてアリシアの深く息を吸う音が聞こえた。
長い沈黙を破ったのはアリシアだった。
「私はあなたが思うような高尚な人間ではないの。それに言ったでしょう?私はもうすぐ賢者としてソレイユ帝国に帰る。私がどんな扱いをされているのか、知らないわけではないでしょう」
先ほどとは打って変わって、寒さを感じるほどの突き放すような物言いに、フィリーは言葉を詰まらせて、頷くしかなかった。
「こんな私のためにあなたの人生を棒に振る必要なんてない。そもそも私は高貴な存在でもないのだから、世話係も要らないのよ。気持ちだけ、受け取っておくわ」
そう言い残すと、アリシアはつっと席を立って、部屋を出て行ってしまった。
フィリーはアリシアが出て行った扉をしばらく眺めていた。
脳裏から、彼女の感情のない冷たさに僅かに現れた戸惑いと、底の見えない鬱屈さを押し殺すような苦悶の表情が焼き付いたように離れなかった。
彼女を覆う闇は、想像以上に深いものであった。
(大丈夫。ここまで来て、諦めない)
心を開いて欲しいなどとは思わない。アリシアが辿ってきた道は、誰にも伝わらぬほど険しいものであっただろうから。
だから少しでも、彼女が気を張らずに心を安らげるような存在になりたいと願う。
(そう思う私は傲慢でしょうか)
答えてくれる者などいないと知りながら、フィリーはそう問いかけていたのだった。