第十二話
宮廷には立派な正門の他にも、使用人たちの通用口としていくつか外に通じる門がある。その一つは狩猟大会の狩場としても利用される森にあった。
宮廷の裏側に位置している門で、街に出るにはかなり遠回りの道のりになってしまうが、致し方ないだろう。
「オレは先に屋敷に戻ってるぞ。面倒なことにならないように検討を祈る。ま、せいぜい骨が折れないように気をつけろ」
楽しげにからかっているトトの口調に、アリシアは少し苛立ちを募らせる。
「そうね!無事を祈って存分にのんびりして頂戴!」
ふんっと鼻を鳴らして嫌味を込めたが、すでに夜空の色に溶けたトトには届かない。
「薄情なカラスめ…」
我先にとトトが逃げた空を睨む。
それからは宮廷の敷地の広大さを根みながらも脇目も振らずに走っていたアリシアは森に入る手前で、息を整えるために立ち止まった。
裏門まで続く道は整備されており、宮中警備の任務にあたる第二騎士団のための灯りが道中を照らすように配置されているおかげで、夜でも迷うことはまずない。
(でもゆっくりしている時間はないわ。早く行かないと追いつかれるわね)
周りへの配慮など何も考えずに、叫んでいたあの声は副団長のヴィハンのものだとすぐに分かった。
アリシアたち第一騎士団は公平かつ平等な停戦調停を行うための調査の過程で、ノルフェン国が誰かと癒着し、不正をしようとしているのではないかと気付いた。なぜ不正を犯してまで調停を有利に進めたいのか、その根拠と証拠を集め、ノルフェン国と繋がって利益を得ようとしている者の正体を追っていた。
本来なら調停の場にはヴィハンと共に参上する予定だったのが、敵の策にはまり、危うく調停の場にすら参加できぬところだった。
(私が調停の場に間に合った時点で、本当なら元者院に事情を伝えて、ヴィハンたちの到着を待ってから調停を始めることもできたんだろうけど...)
そうなると敵に言い逃れの時間を与えてしまう可能性があった。ただでさえ、平和と平等の理念を掲げるエイレーネ公国の騎士団が、不正に手を染めているということが腹立たしくてならなかったし、手遅れになる前に諸悪の根源を仕留めておきたかった。
なので、アリシアは調停前に伝書鳥にて、全部自分が片付けるから、今日は身体を休めて明日にでも結果を報告する、といった旨の手紙をヴィハンに送ったのだ。
(第一騎士団は本来であれば今日、公国の聖都に到着する予定だった。手紙を見ていないことはないだろうし、休みもせずにヴィハンがここまで来たということは....)
間違いなく怒っている。誰にも相談せずに、一人で突っ走ったことを。
汗と土が混ざったような体臭に、金属よりも頑丈そうな筋肉質の身体に、全身を雑巾を絞るように抱擁されるところ想像するだけでも鳥肌が立つ。
だから一目散に逃げているのだ。
腕をさすりながら、アリシアが裏門へ進もうと一歩を踏み出した時、進和感が身体を襲った。乾いているはずの地面がぬかるんでいたのだ。確かに今日は雪がちらついていたが、積もるほどではなかったし、気付いた時には止んでいた。しかもこれは動けば動くほど地中に引きずり込まれるようだった。
アリシアの知る中で、的確な場所に沼を作りだせるような高度な水の魔力を持つ主は限られていた。
首筋を冷や汗が伝う。
「もしかして、手遅れ?」
「そうです、確保しました」
独り言に反応したカミーラの抑揚のない声色に、アリシアは血の気がサッと引いた。
「カミーラがいるということはもちろん・・・」
「はっはっはっ!鬼ごっこはここまでだぞ、団長殿!」
答え合わせの時間はすぐに終わった。
アリシアは伸びてきた体格のがっちりとした熊のような人影を見て、悪あがきする子供のようにぶんぶんと首を振る。
「待って、待って!ごめん、反省してるから!だから本当にそれだけは勘弁…ぐえっ」
アリシアの必死の懇願も虚しく、目の前に仁王立ちで現れたヴィハンは不敵な笑みをたたえ、両手を一杯に広げた。
そしてその勢いのまま、身動きが取れないでいるアリシアをがっちりと抱え込んで捕らえ、小さな沼から引きずり出した。
上半身の骨を圧迫される馬鹿力に、息をするのもやっとだった。
「ほどほどにしないと、団長がこの世の人ではなくなります」
顔色を変えずに突っ込むカミーラだったが、助太刀をしてくれる気配はなさそうだった。
アリシアは身をよじらせて何とか気道を確保すると、まだ自由が利く足を思いきり振り上げた。
自分の腕の中でアリシアが攻撃の構えを取ったことを察したヴィハンは、すぐさま彼女を解放した。
拘束から解き放たれたアリシアは、軽い身のこなしで地面に着地すると、ちゃんと自分が呼吸できているか、骨は折れていないかどうか胸に手を当てて確認する。
どうやら、今回は何事もなかったようだ。
「あなたという人は!あれほど一人で無茶をするなと警告したのに!」
静かな森にヴィハンの叱責の声が思った以上に響き、たまらずカミーラが指を立てて声量を落とすように促す。
服についた土を払いながらアリシアは口を開く。
「いきなり自分で突き進んだことは反省しているし、悪かったと思ってるわ」
「団長の今の言葉には反省の色が感じられません」
「俺もそう思う。どーせ、攻めるには絶好な機会だったとか、言い訳するんでしょうが」
内心で思っていたことを言い当てられ、アリシアはぎくりと顔をそらし、弁明の言葉を考える。
「べ…別に、そんなこと思ってないわよ。そりゃあ少しぐらいは致し方ない状況だったというか…そうする流れだったというか…」
自然と尻すぼみに声が小さくなっていき、誤魔化すのが下手な自分に嫌気が差す。堂々と嘘をつくのはやはり苦手だ。
「とにかく、何があったのか、調停の結果も含めて場所を変えて、色々話してもらいますよ。他の第一騎士団のメンバーも待ってますし」
カミーラに首襟を掴まれ、どこかへ無理やり連れて行かれそうになり、アリシアは慌ててその手を止めた。
普段から極力丁寧な対応を崩さないようにしているカミーラの乱暴な態度から察するに、相当ご立腹らしい。
彼女は優しい。アリシアがこの国で周りに忌避の目で見られ、過去の境遇から辛い立場に晒されていることを理解してくれているからこそ、人一倍心配してくれているのだ。
副団長のヴィハン共々、アリシアより随分年上であり、公国に聖騎士団として仕えている歴も長いが、噂に流されず、己の物差しを用いて相手を判断できる、信頼するに足る人物だった。若くして団長を務めることになっている自分を支えてくれるなくてはならない人だった。
だから、自分を真剣に案じてくれている二人の気持ちは充分感じていた。
「気持ちは分かった。心配もかけたと思ってる。でもみんなも今日は疲れてるだろうから、明日ちゃんと話すわ」
常に周囲から冷たい風当たりを受けてきたアリシアは、感情のこもらない淡白な物言いになってしまい、言葉で自分の思いを表現するのが難しいと感じていた。
また言葉選びを間違えたかもしれないと反省していると、ヴィハンからかけられたのは意外な言葉だった。
「実は今から向かおうとしていた酒場なんだが…実は店の名物として、木苺をふんだんに使ったパイがあるようでして…」
アリシアの腹の音が鳴り、溢れそうになった涎をじゅるりとすする。
「よし、行こう。陽は落ちたばかりで夜は長い。今日のことを全部話せる余裕もあるはずよ」
鮮やかな手のひら返しにカミーラは呆然としていたが、ヴィハンは声を上げて笑っていた。
「さすが団長!となれば、馬に乗って急いで向かいましょう!ひょっとすると既に酒場で待っている野郎どもによってなくなってしまうかもしれませんし」
「急ぐわよ」
「木苺が好物だとは知っていましたが…まさかここまでとは」
目をキラキラさせて機敏に動くアリシアのあまりの切り替えの早さに、カミーラは呆れてそれ以上は何も言えなかった。
「なるほど……では向こうから尻尾を出してきて、無事に、第三騎士団の団長と副団長の件は片付いたわけですね。そしてノルフェン国への救済処置も認められたと」
第一騎士団の者たちが互いに酒を酌み交わし、酒場が賑やかな雰囲気に包まれてい中、アリシアは口いっぱいに木苺のパイを頬張りながらコクコクとヴィハンの説明に頷いた。
彼女の前のテーブルに積み上げられた数十枚にのぼる皿の数に、あの胃袋のどこに入るのかとポカンとしている部下のことなど気にも留めず、アリシアのペースは落ちなかった。
よく考えれば朝から何も口にしていなかったので、一口好物を食べた途端、食欲が湧き出てしまい、止められなかった。
カミーラが未だ驚きを隠せてはいなかったが、冷静に店主へ次のパイを注文してくれる。
「まあ…元老院様が認めてくださったから事なきを得たものの、恨まれごとが増えますね」
アリシアは言葉を発しようと水で含み、喉につかえていたパイを流し込んでカミーラを見る。
「もう既に恨まれたけどね。第三騎士団が、私が団長と副団長を糾弾したことが許せなくて、私の馬の気を狂わせて、街で暴れさせようとしていたみたいなの」
「それはまた馬鹿なことを…」
ヴィハンが呟きながら手元の酒を飲み干す。
「ま、ジラード侯爵や第二騎士団長、ピュロス団長のおかけで何事もなく終わったけど」
新たに用意された木苺のパイを口に運び、アリシアの口が綻ぶ。サクサクのパイ生地に、砂糖と共に煮詰めた木苺の程よい甘酸っぱさが絶妙に美味しかった。
「それにしてもよくまあ…こんな食べれますね。そう言えば、任務中も肉よりも魚よりもよく木苺を召し上がってましたね。そこまで好きなのには理由が?」
何気ないカミーラの質問に、アリシアは口の中の木苺のパイをもぐもぐとしながら言った。
「懐かしい……気持ちになるから」
「懐かしい?」
カミーラが重ねてきた問いかけに頷くと、アリシアはパイを飲み込んで空になった皿を重ねる。
「そう。なんていうのかな…はっきりとは思い出せないんだけれど、ずっと昔に、自由で幸せだったようなそんな感じに。もしかすると、お母様やお父様とよく食べていたのかもしれない」
両親がいなくなったのはアリシアがわずか五歳の時だ。あれから十三年の月日が流れ、何かを忘れるのには十分な年数が経った。しかし木苺を食べると、それが好物でよく食べていたのか、何となく昔過ごした幸せな日々の雰囲気を味わえる気がしたのだ。
「すみません。まさかそんな方向に話が流れるとは予想していませんでした。不躾なことを…」
少し酔っているのか、真面目に謝るカミーラだったが、アリシアは手を振った。
「いいの、いいの。別に気にしてないから」
「じゃあ、団長は昔のことを…親御さんのことは恨んでないので?」
気を遣って、過去の繊細な話題について避けようとしていたカミーラとは違い、ヴィハンが踏み込んだ話を持ちかける。
アリシアも特にそれが不快だとは思わずに続けた。
「正直、どうして国を裏切るような真似をして聖女様を攫ったりしたのか、自分にこんな過酷な運命を背負わせたのか、問い詰めたいことはあるわよ。でもね、悪い思い出ばかりじゃなかった気がするから。心のどこかでは、何か理由があったのもしれないと思いたい自分がいるの」
アリシアの表情に翳が落ちて、ヴィハンが慌ててその場を取りなす。
「やはり、我らが団長は周りに思われている悪女ではないな!過去を恨むことなく、受け入れ、ここまで努力してこられたのだから!」
ヴィハンは新しい酒が用意されると、いきなり立ち上がって部下たちを振り仰いだ。
「お前たち!今回の停戦調停は無事に終わった!これからもアリシア団長のもと、各国の平和のために尽力しようぞ!」
酒を高く掲げて、皆の士気を統率するヴィハン。長く騎士団に所属している彼のそんな分け隔てのないさっぱりとした性格や、アリシアの前任の団長のお陰もあり、この第一騎士団はアリシアをきちんと人として認めてくれる唯一の居場所だった。
団員たちが歓声を上げて乾杯し、盛り上がりを見せる中、アリシアは、あっと思い出したように言った。
「私、一ヶ月後に賢者としてソレイユ帝国に帰還することを命じられたから、もうすぐ団長の任を降りないといけないの」
アリシアはさらりと言ってのけたが、彼女の予想以上にその事実は重大だったみたいで、周囲のざわめきが一瞬で消えた。
凪の中にいるような空間に、ぴたりと彫像のように動かなくなった彼らに対して首を傾げていたアリシアだったが、隣にいたカミーラの肩がわなないていた。
「全く…本当にあなたって人は!」
カミーラの言葉を皮切りに、全団員がアリシアに詰め寄る。
「そういう大事なことをどうして簡単に言ってしまうんですか!!もっとこう、悩むとか真剣に話すとかあるでしょう!」
「いやだって、もともと十八になれば国に戻ることになっていたし…」
「それはそれ!なんでそんな重大なことを、こんな酒場で言っちゃうんですか!空気を考えなさいよ!」
胸ぐらを掴まれそうな…、いやすでにヴィランとカミーラに掴まれているが、団員たちもヴィランたちに同意するように口々にアリシアに文句を叫んでいた。
そんな彼らを見て、アリシアは自分という存在がこの騎士団にとって重要な位置を占めており、文句の裏にある彼らの思いやりに嬉しくなって、くすっと笑ってしまった。
「何笑ってるんですか?今日はお説教ですからね!」
そうしてアリシアは一晩中、仲間に拘束されることになったのであった。