第十話
アリシアが議会場を出る前のこと。
リュシアンたちソレイユ帝国の使者一行は無事に停戦調停を終え、公国が用意してくれた客室に向かう途中であった。今回、調停の場に参加できたのはリュシアンを含めて四人だけであったので、結果を心待ちにして既に客室にて待機している他の仲間にも、早急に停戦調停の内容を伝えなければならなかった。
「一時はどうなることかと思いましたが、アリシア殿のご活躍で助かりましたね!なんとか停戦を結ぶことができました!」
宮廷の回廊を歩きながら、興奮冷めやらぬ様子でエクトルが声高らかに同意を求める。
同じく国の代表として調停の場にいたジャオが軽く頷くが、トマソンは白髪が交じりはじめた髭をさすりながら渋い顔をしており、リュシアンも思案顔を隠さなかった。
「侯爵様、トマソン殿、何か気に障ることでも?」
ジャオの問いかけにリュシアンは足を止めた。その手に握りしめている、公国が発行した停戦調停にて決定した事項が記された正式な書状を物憂げに見つめる。
「侯爵様、恐れながら…アリシア卿のことを案じておられるので?」
リュシアンを気遣うトマソンの言葉に、ジャオがはっと息を漏らすが、エクトルは目を点にした。
「……?なぜアリシア卿を心配する必要が?あの方は素晴らしいことをなさったではありませんか!元老院の前でも臆することなく堂々としたお姿でした!」
「うるさい。少し黙れ」
きらきらとした純粋な瞳で褒め称えるエクトルの頭をジャオが小突いた。
頭を抑えながら「どうして殴るんですか」と訴えるエクトルに対して、何かを察して彼を黙らせようとしたジャオの行動をトマソンがたしなめる。
「これこれジャオ、エクトルはお前さんと違ってまだ若いんじゃ。優しく諭してやれ」
「申し訳ありません、トマソン殿」
生真面目な男だとリュシアンは彼らのやり取りを見ながら、少し表情を和らげた。
領地の軍の仲間は皆等しく大切な存在だが、彼らはリュシアンが最も信頼を置く人物たちであった。数多くの戦を共にし、背中を預けてきた仲であり、エクトルは十七歳という若さでまだ少し頼りない部分はあるが実直で、誰よりも努力家であり、剣術の腕に関しては申し分ない強さを誇る。
短髪で額から目にかけて傷跡があるジャオは、住んでいた村がノルフェン王国に攻め入られた時に妻子を失ったという経緯もあってか、寡黙で人と交わることが得意な男ではなかった。しかし誰よりも真面目で、十歳ほど離れているリュシアンに対しても忠義に厚い性格だった。戦場では、軍部長として勇猛果敢に先陣を切って、味方の軍を鼓舞してくれる存在だった。
トマソンは六十を超えているとは思えないほど血気盛んな老将で、現在は前線からは離れているものの、若い頃から辺境騎士として生き、ソレイユ国の国境を守ってきた。その経験と実績はリュシアンたちを幾度となく救ってくれた。ジラード領の軍の若手の育成にも尽力してくれている。
リュシアンにとっては気が置けない家族のような存在であった。
「それでなぜ、侯爵様はアリシア殿のご心配を?」
気になって仕方ないのか、ジャオに注意されたことも忘れてエクトルが尋ねた。
エクトルはまだ若く、思慮が足りない部分もある。あまり深くを考えずに口に出してしまうのだ。やれやれとトマソンが首を振り、ジャオが拳を構えるが、リュシアンはそれを制するように口を開いた。
「エクトル、お前はもし、仲間の軍に裏切り者がいたらどうする?しかもそいつが、周囲の信頼もあり、地位も名誉もある人間だったら?」
エクトルが腕を組んで難しい顔をして考え込む。
「うーん…できれば穏便に解決したい、ですかね?軍部長の方に報告するとか、侯爵様に相談するとか…。そんなに影響力のある人が裏切り者だったら、軍の士気に関わりますので」
「そうだな。たぶんそれが、普通の考えだ」
「え、あ、はい……」
言われていることの真意がまだ理解できず、エクトルが口ごもる。
見かねたジャオが珍しく言葉を挟んだ。
「俺なら、徹底的に裏切り者を追い込む。証拠を集めて、皆の前でさらしあげる。二度と、表舞台に現れることのないようにな」
少し過激なジャオの意見にエクトルは手を振った。
「いやいや、やりすぎですって。そんなやり過ぎたことしたら、ジャオさんが注意されたり、恨まれたりしますよ。裏切られたことは悲しいですけど、仮にも仲間だったんですから少しくらい……あ…」
そこでようやく気付いたのか、エクトルが思わず声を上げる。
「もしかして…アリシア殿が議会場に残されたのは…やり過ぎたかもしれないから?」
「我々の杞憂かもしれんがな。そういう可能性もあるということじゃ」
エクトルの疑問に、トマソンが優しく答えた。
アリシアは元老院を前にしても、仲間である聖騎士団の糾弾を厭わなかった。民からの信頼と憧れもあり、外交を司る第三騎士団の団長と副団長の非を責めるのは、エイレーネ公国の沽券に関わりかねないからだ。絶大な権力を持つ元老院によって内密に処理できたであろうに、どこまでも真っ直ぐな彼女は、あえて険しい修羅の道を選んだ。
もちろん、彼女のおかげでソレイユ帝国とノルフェン王国は対等な立場で調停に望むことができ、長年の戦争の理由であった根本的問題も解決することができた。元老院が成果を素直に認めてくれれば何の問題もないのだが。
エクトルが納得できない複雑な心の内を表すかのように、口先を尖らせてながらも黙り込んだことで、しばらくは静かに宮廷内を進んでいたが、やがてリュシアンは思い立ったようにくるりと踵を返し、書状をトマソンに預けた。
「先に部屋に戻って休んでいてくれ。俺は様子を見てくる」
そう簡単に言い置いて、来た道を戻るリュシアンの後をエクトルが慌てて追いかける。
「あ、俺も……っ!」
言葉が遮られたのはジャオが無言でエクトルの口を塞ぎ、腕を掴んで無理やり引き戻したからだった。何をするんだというような怒りの目でエクトルがジャオを睨む。
だが自分とは違って、ジラード軍の軍部長を務めるほど実戦経験も豊富で身体つきも丈夫なジャオに敵う気が起きなくて、エクトルは抵抗を諦めた。
「我々が全員で押しかけたら、アリシア殿も驚かれるだろう。気にはなるが、後は侯爵様に任せて、言われた通りに部屋で休もうとするかのう。他の仲間にも結果を伝えんとな」
託された書状でぽんぽんと不満気な顔のエクトルの頭を叩き、トマソンが部屋に戻るように促す。
しぶしぶと歩みだしたエクトルを見て、トマソンとジャンは顔を見合わせて苦笑した。
エイレーネ公国の宮廷はソレイユ帝国の皇城よりも広かった。議会場までこんなに離れているものだろうかとため息をついていると、どこかからひそひそとした声を耳にして、リュシアンは立ち止まった。最初は宮廷の侍女やメイドの噂話や些細な会話だろうと思い、そのまま素通りしようとしたが、聞こえてきた声色は男のものだった。
直感で嫌な予感がしたリュシアンは足音を殺して、壁を伝うようにして声の方へと近付いた。
そろりと顔を覗かせると、聖騎士団の装いをした者たちが複数人、使用人も通らない廊下に集っていた。
「悪女のせいで、オリエン団長が降格処分、レヴァン副団長が除名処分になった!」
「あの女め…!仲間の聖騎士団を非難するとは一体どういう了見だ!あんなやつ、聖女様と元老院の庇護がなければ…、第一騎士団長という地位にさえいなければ…!」
「慈悲も感情も持たない悪女!我らを第三騎士団を愚弄してただで済むとは思うなよ!」
リュシアンはこの会話から状況を察した。
第三騎士団の者たちが此度の停戦調停の結果を不服として、アリシア卿を逆恨みしているのだろう。穏やかな内容ではなかったため、諌めようかとも考えたが、自分がしゃしゃり出たところで余計に事態をややこしくするだけのような気がした。
この場は何事もなかったように去って、アリシアに忠告するという形を取るのが最良かもしれないと離れようとした時。
「あいつの乗る馬に飲ませる薬は用意できたのか?」
不穏な言葉にリュシアンは息を止める。
もう一度様子を見てみると、一人の男が小瓶を手のひらで弄んでいた。
「ああ、神経を刺激する薬だ。人を乗せた途端に暴れ馬にさせるんだ。宮廷から出る時は厩番が手綱を引いて門の外まで連れ出すから、宮廷内の聖女様や元老院には迷惑はかからない。あいつが外で馬に乗った瞬間、馬は制御も聞かずに暴れ出して街に飛び出す」
「そりゃいいな。民衆はあいつのことなんて誰も信じちゃいねえ。街で被害が出ようものなら、あいつを庇う奴なんかいねえし、言い逃れはできねえ。調子に乗ったこと後悔させてやる」
心臓を掴まれるような感覚に、リュシアンは身を縮こませた。
常に堂々とし、職務に全うしていた姿を見ていたから忘れそうになっていたが、彼女はこの国でも、その存在を疎まれているのだ。プルエミの悲劇によって母国に恨まれ、追われた生きてきた哀れな娘。聖女や元老院の保護下にあるといえど、エイレーネ公国でも彼女はこのような過酷な環境で生きねばならなかったのだ。現在の地位に至るまでにきっと想像もつかないような苦しみを味わったに違いない。その苦悩が目に見えるようだった。
(そもそも、プルエミの悲劇が起こった発端は彼女の母親であって、彼女自身は何も悪くない)
ソレイユ帝国の国民である以上、民を導くはずのユニコーンの血を受け継ぐ賢者がかつて道を踏み誤り、帝国を危機に陥れたという話は嫌でも耳にする。
リュシアン自身もプルエミの悲劇によって両親を失った当事者であり、国を追われて、母国が戦争の渦中にあるにも関わらず、平和なエイレーネ公国に保護されて暮らす賢者に思うことも色々とあったことは否定しない。
しかしこの停戦調停を通し、アリシアの誰に対しても、どんな事態に対しても真摯に向き合う姿勢にを目の当たりにして考えは変わっていた。
(彼女の積み上げてきた努力を、くだらない思惑のために潰すわけにはいかないな)
騎士団の者たちが計画のために宮廷の厩舎に向かう。
リュシアンは密かに、その後を追ったのであった。