エピローグ
かつてこの大地に人外の力を有した魔物が跋扈し、人間の命を喰らっていた混近とした時代があった。
人々は明日の我が身も知れぬ恐怖に怯えながら日々を過ごしていたが、ある時、神の力―魔力を授かった娘が誕生した。森羅万象を司る人智を超越したその力は魔物を退け、人々に安寧をもたらす希望の光となった。
やがて娘は聖女と崇められ、聖女も安息の地を開墾するべく奮闘したが、魔獣と聖女の戦いは混迷を極めていた。
しかし、その自らを顧みない聖女の純真な心に感銘を受けた魔獣がいた。
彼らは火・水・地・風・光を司り、自然の秩序を守っていた偉大な存在であり、強大な力を持つがゆえに他の魔獣からも人間たちからも畏怖されていた存在だった。
聖女と彼らは大陸の平穏のために共に闘い、五匹の魔獣はいつしか聖獣と呼ばれた。
いくつもの夜が明け、彼らは見事に魔獣を打ち払い、平和を取り戻した。
だが喜びも束の間、長い戦いにおいて聖女はその力のほとんどを使い果たし、身体は弱り果て、最後は血族に己の魔力を授け、戦いから数年後に命を落とした。
聖女と共にその信念のために闘った聖獣たちはその死を嘆き悲しんだが、聖女の願いを叶えるべく、人の姿を得て生きることを決めた。彼らは聖女に敬意を表し、彼女が愛したこの地と人々を守るべく、賢者となって人を導き、それぞれの国を築いたのであった。
大陸の西に位置し、太陽が輝くソレイユ帝国を建国したのは聖獣ユニコーンであり、国を導くはその血筋と光を司る魔力を継ぐ末裔の一族であった。
ソレイユ帝国にいくつかある都市の中で、王都をも凌いで最も古く、情緒を感じさせる歴史のある『プルエミ』という街がある。
『プルエミ』の街は聖女とユニコーンが初めて出逢った場所であり、街を望む小丘に存在する大神殿は国に数ある神殿の中でも、聖女の力を継ぐ末裔がいる大陸の中心、エイレーネ公国に最も近い場所に建てられていることから、ユニコーンの聖女に対する忠誠心や想いの深さが窺える。
街は美しく、観光地としても発展し、常に人々の活気に溢れていた。
この私、アリシア・リコルヌが代々受け継がれてきたユニコーンの力を暴走させ、街を滅ぼした時までは―。
ひと気のない山の中にいるような深い静寂を破るのは神殿の鐘。その音が厳かに鳴り響くと様々な模様に彫刻された重厚な扉が重々しく開かれる。
目の前に現れた赤い絨毯は神官とこれから新郎となる者が待つ祭壇へと続いていた。予想通り会衆席に賓客は誰もおらず、歩みを進めると靴音だけが虚しく高い天井まで届いた。
無駄に幅広く、長い主廊を通って祭壇の前に辿り着く。こんなに誰からも祝福されない婚儀など今まで見たことがなかったのだろう。神官が経験したことのない異様な雰囲気に視線をうろたえさせていた。それに加えて、新郎新婦が身にまとっている衣装にも驚いているに違いない。婚礼衣装に相応しいとされる華やかな白い燕尾服やドレスではなく、二人とも騎士の正装で婚儀の場に臨んでいたのだから。
春の麗らかな陽光が射し込み、アリシアはその眩さに目を細めながら俯けていた顔を上げた。
(あなたは一体…何を考えているの?)
互いの利害が一致しているとしてこちらから提案した一年限りの契約結婚。少し考えれば目の前にいる男―リュシアン・ジラードがアリシアの持ちかけた婚姻によって得られる利益は少ない。
他国との数多の戦を勝利に導き、国を侵略の危機から救った英雄。その功績から【軍神】と称されている若き侯爵。民と国の信頼が厚いこの男にとって、かたや国のとある街一帯を暴走した魔力で滅ぼし、国を追われ、【災厄】と蔑まれている自分と結婚するのは輝かしい名声に傷をつける。本人曰く、求婚してくる女避けにもなるし、あの時の借りを返すことができると快諾していたが、何か裏があるのではないかという疑念がアリシアの中で膨らんでいた。
疑いの目で睨まれていることなど知る由もなく、天窓からの光でリュシアンの端正な顔立ちが暗がりから浮かび上がる。ふっと目が合うとリュシアンがにこりと口元に笑みをたたえ、そっとアリシアの手を取り、そのまま二人揃って神官に向き直った。
神官が一つ咳払いをした後に、婚儀における決まり文句の口上を述べる。
「汝、この者を妻に迎え、健やかなる時も病める時も、共に支え合い、慈しみ、生きていくことを誓いますか」
神官の言葉に隣でリュシアンが頷く。
「はい。誓います」
「では」
神官の目がアリシアに向けられる。
「汝、この者を夫とし、健やかなる時も病める時も、共に支え合い、慈しみ、生きていくことを誓いますか」
アリシアは一考の後、深く息を吸う。堂々と嘘をつくのは苦手だったからだ。
「はい。誓います」
二人の返答を聞き届けた神官は未だにこの空気についていけていないようで、次の言葉を詰まらせていた。それは神官という聖職に従事している者として、型破りともいえる異例だらけの婚儀を続けてもいいものか迷っているのだろう。
無理もないとアリシアは神官の気持ちの整理がつくまで待つ姿勢でいたが、一方のリュシアンは痺れを切らしたのか、神官の様子を見兼ねて飄々とした口調で語りだした。
「神官殿は何か、勘違いをしておられるようだ。そもそもこの教会がある『プルエミ』という都市一帯は過去の悲劇によって一度は焦土と化した地であり、近隣では戦が絶えなかったゆえに安全に人が集まる場所とは言い難い」
気のせいだろうか。アリシアの手を握るリュシアンの力がわずかに強くなった。過去の悲劇について触れたことで気を遣っているのかもしれない。
アリシアは感情を表に出さぬように努めながら、リュシアンの話の続きに耳を傾けていた。
「それに我々としても静かな儀式を望んでいるので結婚式を見守られる必要もない。加えて、我が国は度重なる戦で疲弊し、決して裕福といえる財政状況ではない。我々はその事情も考慮して、最大限この場に相応しい服装を選んできたつもりなのだが…。それでも教会は、格式を重んじていると言うのですか」
有無を言わさぬ圧を感じた神官がたじたじとなり、リュシアンの言葉に全力で頭を下げて謝罪の礼をとる。
「なら何も問題はないということで。さあ、続きをどうぞ」
含みのある笑顔に、神官が慌てて続きの言葉を並べはじめた。それを右から左へと聞き流しながらアリシアはぼそっと呟く。
「脅迫と変わらないのでは」
戦場という血生臭く、過酷な環境で生きてきた彼には歳に似合わぬ貫禄がすでに備わっていた。
「事実を述べただけですよ。それに皇城であのような啖呵を切ったあなたに言われるとは心外です。お互い様では?」
何を言っても言い返されそうで、アリシアは黙り込むことにした。リュシアンはその反応を面白がっているのか、顔を覆った手の内側で笑いを堪えている。
(最初の厳格な印象とは随分と違うわね)
その意外性も周囲に愛されている秘訣なのかもしれないが。
そうこうしている間に、儀式は終盤に差し掛かっていたようで神官が聖書を閉じる音で現実に戻ってくる。
「ここにリュシアン・ジラードとアリシア・リコルヌが夫婦になったことを認める。では最後に、誓いのキスを」
神官に促されて再びリュシアンと向き合いながら、そういえばそんなことをする場面があったなとアリシアが自分が取るべき行動に頭を悩ませる。幸せに満ちた結婚なら何も迷うことはないのだが、これは利害を重視した期限付きの愛のない契約結婚だ。円満な夫婦を演じる必要があるとはいえ、一年の後に別の道を歩むことになる。アリシアは気持ちを偽ってでもリュシアンに付き合ってもらう気はさらさらなかった。
(適当にごまかしてやり過ごすしか…)
そんなことを考えていると、突然目の前でリュシアンが跪いた。
驚いて目を丸くしていると、リュシアンが満更でもない表情で取り合っていたアリシアの手の甲に優しい口づけを落とす。光沢のある黒髪の隙間から綺麗な硝子玉のような琥珀色の瞳がすっとアリシアを捉える。
「あまりの美しさに言うのを忘れておりましたが、その騎士の正装、あなたらしさがあっていいと思います。よくお似合いです」
リュシアンの瞳と仕草、艶のある声に思わず見惚れてしまっていたことに気付いたアリシアがはっと我にかえる。
侯爵という高い地位にいるにも関わらず、驕らず、飾らない性格。【軍神】という名声。加えて生まれ持った整った顔となると貴族の娘たちがこぞって求婚するのも理解できる。
余裕の笑みでこちらの様子をうかがっているリュシアンを見下ろしながら、アリシアは内心焦りを感じていた。
あの時、公国にて彼を助けたことは決して間違った判断ではなかった。だがもう少し、リュシアン・ジラードという男について慎重に調べるべきだったのかもしれないと後悔の念が募る。
(ひょっとして私はとんでもない男と契約をしてしまったかもしれない)
しかし今にして思えば、この婚姻こそが人生を大きく変える運命の曲がり角を曲がった瞬間でもあった。