第二章 聖天の霹靂 3
聖獣の二人が用意しかけていたティーセットをテーブルまで運び、グレースが選んだハーブティを淹れて、なるべく見ないようにしてレオンの前にカップを置いた。
「……詳細を教えて下さいませ」
そう言って、自分の分のハーブティを口にする。
「……会堂警固の聖騎士経由で、会って詫びたいと伝えて来たんだ」
口を挟まずに黙って聞く。
「ミカエルが戻るまで待つべきだった。油断だった……反省している。まさか、あんな……」
悔しそうに吐き出すように言って、レオンは大きく溜め息を吐いた。そうして、身を改めたのか声音が変わった。
「会堂の小会議室で対面した。王女に人前で詫びるのは辛いと懇願されたので、あの性格では仕方ないかと二人だけで会うのを了承した」
「油断と言うよりは、軽率でございますね」
「軽率?」
「ええ。今回のような謀が無かったとしても、女性と二人で密室に入るのは悪手でございます。ご自分の立場をご自覚下さいませ。女性から手籠めにされたと訴えられたらどうなさるのです?」
「私は、そんなことは──」
「ええ、分かっておりますわ。でも、叔父様がどんなに高潔でも関係ないのです。女性側に悪意があれば、いくらでも既成事実として捏造出来るのですから。人々は、恥を忍んで訴えた女性に同情こそすれ、疑いを抱くことはないでしょう」
「…………」
以前、父に言われたことを、もう少し分かりやすいように言葉を変えて告げると、レオンは眉を顰めて項垂れた。
「……ロゼの言う通りだな。君が、近衛の禁域立入りを急がせた訳が分かったよ。私は、義兄上の言う通り浮世離れしてしまっているのかも知れない」
「はい。これからは必ず、近衛騎士を同行させて下さいませね」
「分かった」
「では、続きをお願い致します」
レオンは、ハーブティを一口飲んで、先を続けた。
「最初は丁重な態度で、大変な非礼をして申し訳なかった、自分の無知が恥ずかしいと謝っていたんだ。そのうち、それまで気にならなかった香の匂いが気になり出して……甘ったるいような、纏わりつくような……何となく頭がぼうっとしてきて、気づいたら王女が隣に座っていた。しな垂れかかられて、身体を撫でられて……頭では、謝ったばかりのくせに不敬だと不快に感じているのに、身体がどんどん熱くなって、その……」
「欲情…してしまったのですね」
「……ああ」
もの凄く嫌そうに頷く。それを微笑ましく思いながら、ロザリアは先を促した。
「……振り払いたいのに、力が入らなくて……王女は煽るように触ってくるし……身体が熱くて辛くて、段々と欲を満たすことしか考えられなくなっていった。その時、王女が私の手を取って、自分の胸に触らせて言ったんだ。欲しいだろうと……あんな小娘の聖女より、自分の方がその……豊満だからそそられるだろうと……」
確かに、王女は胸も腰も過剰に立派に育ち切った、女性として魅力のある肢体だった。あのような豊満な肉体は、大抵の男性が好むのだろうと思う。
思わず自分の胸に目を落として、品の良い大きさであることを自覚し、少々落胆しながら顔を上げると、レオンが真顔で言った。
「私は、ロゼくらいの方が良いと思う」
何となく複雑な気分になりながら、引き攣った笑みを返して先を促した。
「それで……王女に言われてロゼの顔が頭に浮かんだ途端、これが火傷するかと思うくらい熱くなったんだ」
レオンがこれと示したのは、ずっと左手首に嵌めている護符だった。
「え……?」
遠い昔、初めて出会った頃に、幼いロザリアが精霊や祖父の力を借りて、手作りしてレオンに贈った護符のブレスレット。
舞踏会の日に、随分と古びて傷んでいるのが気になって、新しく作り直そうと思っていたが、あまりにもいろんなことがあり過ぎて、失念してしまっていた。
「あ……内宮での騒ぎで酷く傷んでしまっていたが、やはりもう限界だったみたいだ」
とても残念そうに、哀しそうにレオンが呟く。言われて覗き込むと、まるで役目を果たしたと言わんばかりに、たった今壊れて外れ落ちてしまった護符が、その手に載っていた。
うっかり忘れていたが、あのランファとの対峙で少しでも助けになっていたのであれば、作った甲斐があると言うもの。
だが、さすがにあの呪力に対抗するには、幼い子供の手作りではさして効果は無かっただろう。今回、役に立ってくれたのなら十分である。
「また作りますわ。今度は、もっと強力なお護りを。本当は、舞踏会の日に気づいて、新しく作り直してお渡しするつもりでいたのですけれど……先に壊れてしまいましたわね。でも、神樹のお傍なら良い材料が沢山ありそうなので、今度はすぐに作れそうです」
「新しく作ってくれるのは嬉しいが、ロゼが初めて贈ってくれたものなのに、残念だな……」
「そんなに惜しんで頂けるのでしたら……まだ使えそうな希少な素材は残して、新しい素材に組み込んで作りましょうか?」
「そうだね、それなら……」
「では、それは、わたくしが預かっておきますね」
そう手を出すと、レオンは仕方なさそうに護符を差し出した。受け取った護符を見つめながら、ロザリアは問う。
「これが熱くなったのですか?」
「ああ……そうだ。それで一瞬我に返って、あんな女に触れるのも触れられるのも絶対に嫌だと思ったんだ。だから……また情欲に呑み込まれる前にと、短剣で自分の足を刺した。痛みで何とか理性を保って、王女を突き飛ばして逃げて来た。ロゼの浄化は薬物にも効くんだろう? だから、ロゼのところへ行かなくてはと必死だった。会堂からここまでの間も、何度か理性が飛びかけて……」
「それで、腕にも刺し傷があったのですね」
袖の血の付いた裂け目を見やって、沈痛な思いで呟く。足の傷も腕の傷も、かなり深かった。我を失いそうになるのを恐れて、手加減なしに自らを切り刻んで、必死にここまで来たのかと思うと胸が痛かった。
レオンを気遣って空けていた間を、詰めるように座り直したロザリアは、心の赴くままにぎゅっと強く抱き締めた。
「わたくしのところへ戻って来て下さって、ありがとうございます。痛かったでしょうに……良く頑張って下さいました」
その言葉に息を詰めたレオンは、ロザリアの首元に顔を押し当て、縋るように強く抱き締め返してきた。
「陛下のお気持ちが良く分かったよ。薬物で自分の意志を捻じ曲げられて、子を為させられたなんて……皇妃を嫌悪するのは当然だ。結局、私はロゼに無体なことをしてしまったが……もし逃げ遅れて相手があの王女だったらと思うと吐き気がする。君とだって、あんな風に結ばれるのは絶対に嫌だ。本当に申し訳ない。だが、それでも……君が相手の方が良いと心底思う……」
「そうですわね……わたくしも、そう思いますわ。あんな風に結ばれるのは確かに嫌です……でも、他の女性を相手にされるくらいなら、わたくしで良いと心から思います」
「ロゼ……」
「貴方は、わたくしだけのものですから」
そう更に強く抱き締めると、レオンは嬉しそうに笑った。
伝令に出したセシリアとアリステアが戻ってくるまでの間に、真の聖地に居ずっぱりのブランを呼び出し、中間報告にはなるが急いで書いた手紙を帝都の父へ届けさせた。
さっと目を走らせたレナートは無言で頷いて、すぐさま他の公爵たちを呼び出し、各所に指示を飛ばし始めたと言う。
そして、本来なら晩餐のはずの時間を過ぎた頃、ミカエルが教皇の指示を受けた聖騎士と共に現れた。
戻ってきていたセシリアたちが扉を開け、中へと入ってきたミカエルは、既に苛烈状態になっていた。
ロザリアとレオンが座っているソファに、テーブル越しに対峙する位置に立ち、聖騎士と並んで共に騎士の略礼をする。
顔を上げた途端、ミカエルは素早くレオンの様子に目を走らせ、更に怒気を深めた。
「殿下、どういうおつもりですか」
「ミカエル……」
後々のことを考えて、着替えに行こうとするレオンを止めた。つまりは、血塗れの衣装のままなのである。
傷は完全に治癒させたとはいえ、かなりの量の出血があったのは間違いない。
この後、王女と再度相対する機会があると踏んで、レオンの方が被害者であると強く印象付けるために、敢えてそうしたのだが──
ミカエルに対しては仇となったのは否めない。
ロザリアは朝方、背筋が凍るような怖ろしい思いをさせられたことを思い出し、唇を引き結んだ。とりあえず口を挟んではいけないと、心に強く刻む。
「まさか、未だに自分の立場を自覚されていないなどとは、間違っても言われないでしょうね? 聖印を有する唯一の皇子であり、何よりも神より使命を賜った唯一無二の英雄という存在なのだと、本当に自覚しておられますか?」
淡々と言っているように見えて、その実、並の人間なら卒倒してしまうような威圧を、紡ぐ言葉に載せている。
正直、朝方初めて目にした時の、苛烈に感じた怒りなど比ではない。
傍で聞いているだけでも身体が勝手に震え、血の気が引いていく気がしてくる。ミカエルに並んで立っている聖騎士などは、蒼褪めて硬直してしまっていた。
ロザリアは、恐る恐る隣に座るレオンの様子を窺った。
「ああ……私は油断したと反省していたが、先ほどロゼに言われて、自分がどれほど軽率だったか理解した」
「そうですか。油断だったのは当然ですが、軽率な行動については、聖女様に指摘されるまで気づかれなかったと」
「すまない、私はどうもいろいろ考えが足りないようだ」
「これから闇の使徒どもを一掃し、闇そのものと対峙していくには、あらゆるものを警戒し、様々な事態を想定し対処していかなくてはなりません。殿下は、考えではなく、覚悟が足りない。ついでに、考えが足りないのではなく、甘すぎるのです」
「そうだな」
レオンの顔色は全く変わっていなかった。これほどの威圧を向けられても、ただ苦笑いしている。まるで年の近い兄に、軽く説教されているかのようにしか見えない。
図太いというミカエルの評は確かだと思えた。
「今回の場合、殿下が対応する必要は全くなかった。属国の王女の嘆願など無視して構わない。貴方は、そういう立場にあるのです。今後も老若男女問わず同情を引いたり色仕掛けで来たりと、隙を狙ってくることは十分考えられます。良いですか? いずれ聖女様を娶って、国を統べていくならば、重要なものと切り捨てるべきものを、非情に峻別できなくてはならない。それが出来なければ、殿下にとって最も重要で必要なものを喪う羽目になりますよ」
そう言ってミカエルは、ロザリアを目で示す。それまで真剣ではあるものの、ゆったり構えていたレオンは、その視線を目で追った途端に顔を引き締めた。
「肝に銘じるよ、ミカエルの言う通りだ。陛下が仕掛けられた罠を知っていたのに、警戒が足りなさ過ぎた」
「分かって頂けて何よりです」
ふいに重々しい空気が緩んだ。ミカエルが威圧を解いたらしい。ロザリアは思わず息を吐いた。聖騎士も、壁際に控えている聖獣の二人も同様だった。
軽く礼をして姿勢を正したミカエルは、ここへ来た本来の目的を口にする。
「さて……聖女様がご指示されたことは、全て完了しております。全員拘束して、聖騎士団詰め所の地下に留置致しました。所持品は全て押収し、近衛と聖騎士の十名ほどで検分している最中です」
「聖地の閉鎖は解いておりませんわよね?」
肝心なことなので、即座に確かめた。ミカエルと聖騎士が頷く。それを見やって、ロザリアはほっとして顔を緩ませた。