第一章 神の御座す地 10
普段は心の内を見せることなど滅多にないレオンだが、ミカエルを相手に酔った時には、誘導次第で割合と本音を漏らすことがあった。
人あしらいの得意なミカエルは、うまく酒杯を重ねさせて先に酔わせるコツを熟知している。ここまでで、自分の倍量以上を飲ませることに成功していた。
幼馴染の男同士でのごくごく私的な飲み会だと言うのに、ブランシュ家の教育の賜物か、レオンは姿勢を正したまま全く乱れた様子を見せない。
そんな風に一見、素面のようにも見えるのだが。実のところレオンはかなり酔って口が軽くなっている。おそらくミカエル以外には、他の誰も気付かないだろう。
「ロゼがあまりにも真剣だったから、必死で苦行に耐えたって言うのに、精霊を見た途端に元の木阿弥だぞ? さすがに私も我慢できなくて、なんだかその……やり込めてやりたい気分になったと言うか……気づいたら口付けていた」
「……お仕置きで口付けって……百歩譲って、最初の一回はそれで良いとしても、なんでずっとなんだよ」
「いや、だって……唇を離した途端、また叔父様と呼ぶもんだから、悪いのはこの口かと」
普段とても紳士的な男が、どこか人の悪い笑みを浮かべる。
「自分から二度も平然と口付けてきたくせに、私から口付けた途端、真っ赤になって狼狽えてる様子に溜飲が下がったと言うか……愉しかったと言うか」
「お前な……」
「実際、人前で呼び名を間違えられるのは困る訳だから、ちょうど良い罰じゃないか? まぁ、人前で失言したとしても、口付けが罰だと知らない者が見たら、政略相手だなんて思わないだろうから、余計に都合が良いかと思ったんだ」
「そりゃあ、そうだろうが……意外と黒いな、英雄サマのくせに」
「英雄も一応は聖人に列せられるが、別に清廉潔白さなんて求められてはいないよ。闇の輩と相対するのには狡猾さも必要だと思うが?」
「いやいやいや、今は闇の民は関係ないから。お前の相手は、宰相仕込みで随分と強かな面もあるが、根っこは純情可憐な聖女様だろうが! 腹黒さや狡猾さなんて引っ込めとけ!」
ミカエルは指を突き付けて言った。そのレオンは、杯に口を付けながら小首を傾げ、さも不思議そうに呟いている。
「何故だろうな……少し前まで、ロゼのすることは何でも許せていたはずなのにな。何をやっても何を言っても、ひたすら可愛いくて愛おしいと無条件で思えていたんだが……最近、不快に思ってしまうことが度々あるんだ」
「例えば? リアが何を言ったり、した時だった?」
「あのジュリアス皇子やトリスタンと、ロゼが結婚することを想像するよう言われた時は、本当にもの凄く嫌だった。そんなことを口にするロゼ自身にも、実のところ少し腹が立っていた」
「それ……何で嫌だと思ったんだ?」
「あんなクズが、ロゼの隣に立つなんてあり得ないだろ? 論外だ。ましてや口付けや新床だなんて……口にするのも悍ましい。トリスタンは……研究第一だと言う以外には、特に人間的に問題がある訳ではないし、尊敬できる男でもあるが、その……倍以上も年上だし、さすがにロゼの結婚相手には相応しくないだろう? なのに、まさか候補に上がっているなんて思いもしなかった。だから、その……寝耳に水って気がして面白くなかったと言うか……」
その感情がどこから来るものなのか、本当に分からないのかと訝しく思いつつ、ミカエルは更に問うた。
「他には?」
「……この前、ロゼがお前と手を握り合ってたのを見た時とか……」
「あれは、そう言うんじゃないと言ったろうが」
「分かってるよ。だが……」
「はいはい、要は俺の女に触るな、ってことだろ」
「……そう、なのかな? 確かに、ロゼは私にとって誰よりも大切な存在ではあるが……」
そう言いながら首を傾げている。傍から見れば、これ以上はないほどにあからさまなのに、やはり本人には全く自覚はないらしい。
何故こうも恋愛に関してだけ極端に疎いのかと、頭を抱えたい気分を抑えて、その理由をミカエルなりに考えてみた。
レオンがまだ帝都にいた幼い頃、義兄であるレナートは年の離れた義弟を大切にしていたし、その妻であるアナマリアも母親のように可愛がっていたのを良く覚えている。
そのまま帝都で義兄夫婦の傍にいれば、家族としての愛情は受けられたように思うのだが、唐突に先代公爵が五歳になったレオンを連れて領地へ行ってしまった。
それから十年、領地であの先代公爵と二人きりで過ごし、到底子供に必要な愛情が十分与えられていたとは思えない。
そのくらい、先代公爵はミカエルからすれば厳格な老人で、とても幼い子を可愛がるような御仁には見えなかった。事実、後々聞いたレオンの義父への評は、父に対すると言うよりも師匠に対するそれだった。
十五歳の学院入学前に戻ってきたレオンとは、幼馴染だったこともあってすぐに打ち解け、領地での話もロザリアとの話も全部聞かされている。
その中で、はっきりと口には出していなかったものの、家族に対する疎外感や孤独を抱いていたことは何となく感じられた。
十年前、幼いロザリアに救われて孤独を癒され、無償の愛情というものを初めて体感したのだ。そうしてロザリアは、レオンにとって唯一無二の存在となった。
レオンが認識できる愛情は、それが全てなのである。比べられる存在がないから、ロザリアに対する愛情がどういう種類のものなのかが分からないのだろう。
何か比較対象があれば良いのだが──そこまで考えて、ミカエルははっと思いついた。
「なぁ、お前さ……シャルローズ妃のことは、どう思ってるんだ?」
「ああ、最初……あの言葉を聞いて、もしやと思い、私の魂が借り腹へ移された経緯を猊下が話して下さった時、本当は自分が望まれて生まれてくるはずだったことを知って、とても嬉しかった。その、一番に私の誕生を望んでくれていたあの方を、本当の母だと思いたいと強く感じた。だが、実際には、私はあの方によって産み出された訳ではないし……私が勝手に思って良いものなのかと……」
「ほんっと、お前……こう言うことに関しては、とことん後ろ向きだな」
「仕方ないだろう? 肉親とのふれあいと言うものが、私には無かったんだから……だから、どう対応すべきかが分からなかった」
「過去形ってことは、今は分かってるってことか?」
意外に思ってレオンの顔を見ると、ロザリアに向けるのとはまた違う、優し気な笑みを浮かべていた。
「あの方が私を抱き締めて、わたくしの坊やと呼んでくれた時に、色々考えていたことなんてどうでも良くなってしまったんだ。ただ純粋に、我が子として慈しんでもらえていると思えたから……」
だから、自分も純粋に母として慕うことができている──そういうことなのだろう。ミカエルが期待した、立派な比較対象だと言えた。
「なぁ、分かってるか? お前がシャルローズ妃から与えられた慈しみと、お前が母親として慕う気持ち……それは愛情だってこと」
「そう……なんだろうな」
満たされた顔で頷くレオンに、ミカエルは更に畳みかけた。
「じゃあさ、お前が今まで唯一愛情を向けていたのはリアだっただろ? そのリアに対してと、シャルローズ妃に対して、お前が向ける愛情は同じものか?」
レオンは目を瞠って押し黙る。ややしばらくして、ゆっくりと首を振った。
「違うな……そうか、愛情にもいろいろな種類があると言うのは、こう言うことか」
そう呟いたレオンは、そのまま一人で考え込んでしまったが、気づいたら寝息を立てていた。本音をさらけ出させるために、かなりの量を飲ませたのだから仕方がない。
ミカエルは、全く気配を感じさせない聖獣の存在を思い出して目を向けると、エクレイルは既に寝台の用意を整えていた。
「ベテランの侍従顔負けだな……」
「そうだろうか……セシルやアリスに教えを乞うているが、なかなか思うようにはいかず、主の役に立てているのか自信がないのだが」
「妙なところで後ろ向きなのは、主人にそっくりだな。お前さんは、良くやってると思うぜ」
「そうか」
強面の顔を僅かばかり緩ませたエクレイルは、椅子に座ったまま眠ってしまったレオンを軽々と抱え上げ、寝台へと運んでいく。
「さっすが聖獣……腕力も半端ないな」
ミカエルは感嘆半分、呆れ半分で肩を竦め、杯に残った酒を一気に呷った。
「いや~、レオンの奴、かなり飲ませたせいで最後は潰れちまったから、頭に残ってないと思ってたんだが……しっかり覚えてたんだなぁ」
ぽりぽりと頭を掻いて、ミカエルがきまり悪そうに引き攣った笑みを浮かべる。
「俺もけっこう飲んじまったんで、すっかり忘れちまってた。うん、半分は俺のせいだったな」
「えっと……叔父…いえ、レオン様の意識改革ですか?」
「そうそう、それ。あの時、かなり頑張って誘導しまくったんだよなぁ。なんだ、意外と効果あったんじゃないか」
ロザリアは、ミカエルの回想を聞き終わって、予想外の内容にしばし現実逃避してしまった。
空が青い、風が心地よい、草花の匂いが優しい、時折り寄ってくる精霊たちが愛おしい──
「けど、リアの戦略は凄いな。俺の誘導より、そっちの方が効果絶大だったと思うぞ」
「……戦略ですか?」
「うん、レオンの男心にクリティカルヒットしてたじゃないか」
何のことだろうときょとんとしていると、ミカエルがとうとうと並べ立て始めた。
「まずは二年ぶりの再会で、大人になって綺麗になった姿を見せ付けて、あの朴念仁を見惚れさせる。次いで愛の告白をして玉砕するや、すぐさま方向転換し、唇を奪って宣戦布告。更には別の男との婚姻を想像させて嫉妬を煽った上で、自分との婚姻を想像させて女として意識させる。恋愛や結婚の対象と思えるようになったところで正式に婚約。深夜の逢引き中に、男心をそそる切なげな上目遣いで名を呼び続けて、理性を崩壊させて自ら唇を奪わせる──」
「え? え……ええっ?」
「どれも、実際にあった話だろ? こうやって経緯をすっとばして、事実だけを並べ立てると凄いな……。これ全部を意図してやったとしたら、もの凄い戦略家だぜ」
「そっ、そんな訳……!」
そんな訳はない。ロザリアは目を白黒させながら、慌てて否定した。それではまるで、経験豊富な悪女とか色事師のようではないか。
「なぁに焦ってんだよ。言ったろ? 経緯すっとばしてって。まぁ、それでも、半分はリアが実際にやったことだけどな」
「そっ、それはそうですが! でっ、でもっ……」
「偶然とか、他者の介入とか、うまいこと嚙み合ったんだろうなぁ。んで、最後に俺が駄目押し! レオンの朴念仁卒業と本人の自覚……多分、もうほぼ到達してる気がするんだよな」
「そうでしょうか……」
あのレオンである。そんなに簡単にいくのだろうかと思いつつも、ここまでの短期間での変化を思うと、ミカエルの予測は正しいようにも思えてくる。
急に胸がどきどきして、頬に血が昇ってきた。ロザリアは両手で顔を覆って、心が波打つ中で思った。
『本当に……? 叔父様が、わたくしと同じ気持ちを持って下さるようになる……? それが本当なら、とても嬉しい……』
そんなロザリアを見下ろして、ミカエルが苦笑しながら言った。
「まぁ、もう少し待ってやってくれよ。あいつも自分で気持ち整理してるとこなんじゃないかと思うんだよな……納得いったら、絶対あいつのことだから、きちんとリアに言葉にして伝えるはずだからさ。基本的に真面目な奴だしな」
「……はい」
それだけ言うのがやっとだった。




