第一章 神の御座す地 8
レオンの様子が変わったことについて、ミカエルが知っているのではなく、そもそもミカエルが原因かも知れない。
そう言われて、ロザリアは目を丸くしながらも、じっと話の続きを待った。
だが、ミカエルは口を閉ざしたまま、ロザリアから少しだけ離れて立っているグレースを見やり、次いで泉の周囲で精霊に囲まれている部下たちを見やった。
しばし考え込む様子を見せた後、言いにくそうに口を開く。
「皇室の極秘事項にも踏み込んだ話になりそうだから……他に聞かれる訳にはいかない」
「わたくしなら構わないのですか?」
「リアは知ってるって聞いてる。知らなかったとしても、第一皇子の婚約者なら皇室の一員みたいなもんだしな」
「では、風の精霊に頼んで、声が外に漏れないようにしてもらいましょう。わたくしはまだ、そう言った結界が張れないので」
少々情けない思いでそう言うと、ミカエルが首を振った。
「ん~、それだけじゃ足りない。唇読める奴がいるかも知れないし。少し、泉から離れよう」
「……唇を読む? 諜報部門の者でもないのに?」
「俺は読めるぞ? だからさ、公言してないってだけで、そんな特技のある奴が他にもいるかも知れないだろ?」
あっけらかんと言われて、ロザリアは目を瞠る。
「で、では、先ほどのレオン様との会話も……」
「まぁ……気にするな」
「気にしますっ! まさか、叔父様も兄様が唇を読めることを知っているのですか?」
「うん、まぁ……長い付き合いだし」
眩暈がしそうだった。
「叔父様まで酷い……」
「あー、あいつの場合は、そう言うことを気にしないって言うか、図太い奴だから仕方ない。悪意はカケラもないはずだからさ」
「……そういう問題では……」
最後の口付けの衝撃が大きすぎて、実際のところ会話の全てを覚えているわけではなかった。だが、やたらと甘い口調でいろいろ言われたのは間違いない。
レオンが最初に言い放った通り、内容はどうあれ、口説かれていたのだと思う。結局、抗うことも出来ずに意のままにされてしまった。
そんな様子を間近でつぶさに見られていた上、会話の内容も筒抜けだったと思うと、居たたまれないどころではない。
涙目でしばらく唸っていたが、せっかくの機会をふいにする訳にもいかず、ロザリアは無理やり自分を落ち着かせた。
「……泉から離れましょう……」
グレースにはその場に留まるように言って、二人で鬱蒼とした木々の近くまで行き、念のために声が漏れないよう風の精霊に頼んだ。
ミカエルが草の上に敷いてくれたマントの上に腰を降ろし、ロザリアは小さく息を吐く。
「それで……ミカエル兄様がきっかけかも知れないと仰るのは、どういうことなのでしょう?」
「さすが、切り替え早いな。ヴィーなら小一時間はプリプリ文句言ってるところだ」
肩を竦めて笑いながら、ミカエルは一人分ほどの間を開けて、隣に腰を降ろした。
「聖地に着いて変わってたって言うなら、多分、前の夜にしてた話が原因じゃないかと思うんだよな。あいつが猊下のお供で帝都に帰って来てから、中々機会がなくてさ。あの夜、やっと二人きりになれたんで、結構遅くまで腹割って色々と話し込んだんだ───」
明日はいよいよ聖地入りと言った地点まで辿り着き、最後の野営となった夜──
交代で食事を済ませ、護衛対象であるレオンの天幕に向かったミカエルは、入口前で立番をしている部下に声をかけて、一人で中へ入った。
「殿下〜、入りますよっと」
一応声は掛けたものの、ほとんど同時に入り込んだため、レオンの守護聖獣であるエクレイルに警戒され、思いっきり威圧されてしまった。
「悪かったって。そんな怖い顔すんなよ、エクレイル」
「いくら幼い頃からの友人だからと言って、無礼が過ぎる。返事も聞かずに入ってくるなど──」
「良いよ、エクレイル。そいつは、昔からそう言う奴なんだ」
若干の溜め息混じりにレオンが言う。そう言いながらも全く不快に思っていないのは、ミカエルから見れば明らかだった。
公爵の義弟から現皇帝の第一皇子へと立場が変わり、当人を取り巻く何もかもが変わってしまった中で、プライベートでは全く態度を変えない自分に、安心しているらしいのは見て取れていた。
「主がそうやって大目に見るから、この者は──」
「エクレイル、良いんだ」
強い口調で主人に窘められ、エクレイルは不満げながらも口を閉ざす。ミカエルは、若干の謝意を篭めてその背を軽く叩いた。
立ちはだかっていたエクレイルが仕方なさそうに一歩引いたので、ようやくにして中を見通すことができた。
レオンは、盥の湯で身を拭っていたらしく、上衣を脱いでこちらに背を向けている。その背の中央には、紛うことなき聖印があった。
自分の聖印は背中の右肩寄りだが、ロザリアは背中の左肩寄りにあるのは、三歳の披露目の時に見ている。
「ああ……なるほどね。俺が右腕で、彼女は左腕か」
「何の話だ?」
「何でもない、ただの独り言だ」
エクレイルに背を拭われながら、レオンが小首を傾げる。それを横目にミカエルは、盥の乗る簡易テーブルの反対側に向かった。
程よく筋肉が付いて均整の取れた肉体美だが、男の裸を見ても楽しくはない。ミカエルは、椅子に斜めに腰かけ、テーブルに頬杖を突いて別方向へ顔を向ける。
「それで? 何かあったのか?」
「いいや。久々に会ったってのに、サシで話せる機会が無かったろ? 偶には、腹割って話すのも良いかと思ってさ」
「……そうか」
短い返事だったが、声には嬉しそうな響きがあった。やがて水音が止み、何か命じられたエクレイルが、盥を抱えて外へ出て行く。
レオンに目を向けると、ちょうど身支度を整え終わったところで、向かい側の椅子に腰を降ろしている。
「それにしても、第一皇子殿下とはなぁ。まぁ、お前が英雄だって聞いた時から、いずれこうなることは分かっちゃいたが……」
ミカエルがそう言った途端、レオンがいきなり結界を張った。
「なんだ……?」
「遮音の結界だ。こうでもしないと、腹を割って話すこともできない」
「まぁ、今のお前の立場ならそうだろうな」
肩を竦めて見せると、同じように肩を竦めたレオンは、本当に面倒くさそうに言う。
「正直、私だってこう言う立場にはなりたくなかったさ」
「そうだろうなぁ……お前、リアのことしか考えてなかったもんな。聖騎士になったのだって、リアのためだし」
「英雄は自分の使命だと小さい頃から分かっていたから、特に何とも思わなかったし、ロゼが聖女だと分かった時には、自分が英雄で良かったとまで思ったが……さすがに第一皇子はな」
「英雄の使命を全うするのを待って、立太子されるのが目に見えてるしな。けど、俺が思うに使命が無けりゃあ、すぐさま皇太子にされてたぜ?」
「あの皇子がまともだったら良かったんだが……」
二人して苦笑いを交わし合う。
「そういやぁ、親父殿から聞いたんだが……神の采配のこと。陛下の即位前に、皇太子妃の腹にいた子が殺されて、その魂が神の手で仮腹に移されたって話。その魂がお前だって……何とも不思議な話だが、さすがに自分じゃ分からないよな?」
「いや……腹を撫でながら、優しい声で子に呼びかけ続けていた母親の言葉……それを私は覚えている。前に話したよな? 私を産んだ女性がどう言う経緯で子を孕んだのか……そんな人が言うはずのない言葉だ。だから……私は願望を夢に見たのだと思い込んでいた。だが、心を病んで何も分らなくなってしまっているシャルローズ妃が、全く同じ言葉を繰り返し繰り返し呟いていたんだ」
「そいつはまた……」
ミカエルは絶句した。淡々としているように見えていたレオンが、どれほど肉親の愛情に飢えていたかは良く知っている。
依存とも思えるロザリアへの強い執着も、それが理由ではないかと思っていた。
レオンは、出自を知って闇落ちしかけたことがある。その時に、まだ七歳だったロザリアが大好きなレオンを護るために、闇の中に飛び込んで全力で浄化し癒した。
その時に受けた無償の愛情が、レオンにとっては唯一無二の大切な宝となっている。
そんなレオンに、愛情を向け合う存在が増えるかも知れない。例え、ロザリアに並ぶべくもないとしても、それは喜ばしいことだと思えた。
「なぁ、シャルローズ妃は、やっぱりその……何も分からないのか? お前のことも……」
「いや……それが、どうも私のことは分かっているようなんだ」
「そうなのか?」
レオンは穏やかな笑みを浮かべて頷く。
「陛下がロゼに癒しをかけてほしいと願って、私も同行したんだが……まっすぐ私の所へ来て、“坊や”と呼びながら私の背や頭を撫でてくれた」
「それって……お前を我が子だと認識してるってことじゃないのか?」
「……そうだな」
なんだか我が事のように嬉しくなってくる。
「それきりか?」
「いや……帝都を出る前夜、ロゼは家に帰したが、私は猊下と本宮に留まった。その時に、陛下から面会するよう頼まれて──」
「どうだったんだ?」
つい勢い込んで聞いていた。ミカエルの気持ちが分かるのか、レオンは照れたような笑みを浮かべ、優しい顔優しい口調で話してくれた。
「ロゼがかけた癒しが効いたのかも知れない……夢遊病者のように頼りない感じだったのが、まるで芯が通ったように変わっていて、意思の疎通が少しできるようになっていた」
「凄いな、聖女の癒しは! それで?」
「私の名前を憶えてくれた……わたくしの子と言って抱き締めながら」
「そうなのか? 母親の愛情ってのは凄いもんだな……いきなり二十五になった息子が分かるなんてさ。そうか、そうかぁ……良かったなぁ」
「……ああ」
ミカエルは目の奥が熱くなった気がしていたが、嬉しそうに微笑むレオンの目も潤んでいるように見える。
いつ如何なる時も冷静で、氷のように冷徹と言われ、ロザリア以外には感情の起伏や笑みすらほとんど見せない男が、別人のようでさえあった。
「主よ、こちらで宜しいですか?」
戻ってきたエクレイルの手には、上物の葡萄酒と杯、ツマミの載った皿がある。それにちらりと目を走らせてレオンが頷くと、丁寧な所作でテーブルに並べていった。
そうして瓶を開けて二つの杯に酒を注いでから、侍従らしく一礼して下がり、入り口を護るように直立不動で佇んでいる。
「随分と覚えが早いな。侍従の仕事を習い始めてから、まだ十日も経っていないだろうに」
思わず感心しつつ、ミカエルは杯に口を付けた。レオンもまた、無言のまま酒を口にしている。そのまま一杯目を空けても何も言わない。
二杯目を手酌で注ぎ終わったのを取り上げて、ミカエルもまた飲み干した杯に酒を注いでから、話題を変えた。