第一章 神の御座す地 5
「ロザリア様。そろそろご起床頂かないと、猊下や殿下とのご朝食に遅れてしまいますよ」
そんな聞き覚えのない声に導かれ、ロザリアはゆっくりと浮上するように眠りから覚めた。
「おはようございます、聖女様」
先ほど間近からかけられた若い女性の声とは違う、年配の女性の声を聞きながら目を開けると、既に寝室のカーテンは開け放たれ、朝の明るい陽の光が室内に満ちていた。
まだ完全に覚醒していない少しぼんやりとした頭で、ぼうっと考える。ここはどこなのか。ややしばらくして聖地に来たことを思い出し、自分に与えられた部屋の寝台の上にいることに気づく。
随分とぐっすり寝入ってしまっていたようだった。転移陣を利用したとはいえ、さすがに馬車で6日の移動ともなれば、自覚のないままに疲れ切ってしまっていたらしい。
ロザリアはゆっくりと起き上がり、女性神官たちに笑みを向けた。
「おはようございます」
恭しく一礼するうちの一人は、副神官長のイザベラで、ベッド脇に立っているもう一人は、自分とあまり年の変わらない若い女性神官だった。
しかも、見覚えがある。
「貴女は……グレース・ルグラン侯爵令嬢? 学院の二年先輩でいらした……」
「まぁ。わたくしのような者を覚えていて下さったのですね、ありがとうございます。今後、わたくしのことは、グレースとお呼び下さいませ。今は俗世を離れた、一介の神官の身でございますので」
「そうなのですね……」
屈託のない明るい笑みを向けられて、思わず目を瞠る。
貴族社会では既に聖女として知れ渡っていたロザリアが学院に入学したばかりの頃、男女問わず信仰心の篤い生徒たちから跪かれたり拝まれたり、常にかしづくように取り囲まれて閉口させられたことがある。
ただでさえ皇子の婚約者と言う煩わしい肩書があると言うのに、学生としての行動すらままならない。
少しでも普通で平穏な学生生活を送りたかったロザリアは、気は引けたものの背に腹は代えられず、父に頼んで学院に圧力をかけてもらったのだった。
それ以降、教皇の命令で付けられた護衛の二人が目を光らせていたこともあり、直接の接触はかなり減ったが、それでも時々、思い余った生徒が頼ってくることがあった。
グレースもまた、そのうちの一人である。
『確か……幼馴染の婚約者が事故で亡くなられてしまい、何度も後を追おうとして死にきれずにいた時に、わたくしの入学を聞いて久しぶりに学院へ来たのだと……』
死にたい、死にたい──まるで呪詛のような感情が、黒い靄となって外に漏れ出している様に、さすがに放っては置けなかった。
ロザリアは迎えの馬車にグレースを連れ込み、その話を聞いた。
毒を飲んでも、首を吊ろうとしても、手首を切っても、入水しても──人気のない時間、場所。誰の邪魔も入らないタイミングを狙っているにも関わらず、まるで虫の知らせのように気づいた家族やメイドや見も知らない他人に助けられてしまう。
婚約者を愛していたのだと、一人では生きられないのだと、だから死なせてほしいと泣き続ける。
今よりずっと幼い頃ではあったが、レオンを恋い慕っていたロザリアには、その気持ちはあまりにも良く理解できてしまった。
もし自分がレオンを喪ったら、きっと同じようになる。そう思えた。
「婚約者の方の声は聞こえましたか?」
「……はい。あ、いいえ……直接ではないのですが、加護を下さった精霊の力を借りて」
「そう……」
「ロザリア様にはとても……とても感謝申し上げております。わたくしの心の闇を祓って下さって癒しをかけて下さった……哀しみは消えなかったけれど、でも、彼の存在を感じられるようになりました」
悲嘆のあまり闇に呑まれてしまったグレースには、一つの光が付かず離れず近くにあった。遺していく恋人の身を案じて離れることができず、なのに闇の力を宿した靄に阻まれて寄り添うこともできない。
その魂の哀しみを感じて、ロザリアはグレースに浄化と癒しをかけた。
無垢になったグレースに光が寄り添い、抱き締めるように押し包んでいく。その時、魂が囁いた言葉を聞いたが、グレースには聞こえなかった。
その言葉を代わりに告げた後、グレースははらはらと涙を零し、泣きながら微笑んでいた。
「ロザリア様が伝えて下さった『もっと生きていたかった、だから、そんな自分の代わりに生きてほしい』と言う彼の言葉……あの時、思ったのです。彼の言葉をもっともっと聞きたいと……それで、ここへ参りました」
「ご家族は……」
「毎日、死を願って自傷を試みられるよりはよほど良いと、両親は泣きそうな顔で笑っておりました。我が家は子だくさんで兄弟姉妹がおりますので、家の心配はございませんし、一人くらい神官がいても良かろうと皆、前向きに支援してくれております」
「そうなのね……それは良かったですわ」
心穏やかに暮らせていて、今は彼女なりに幸せなのだろうと思える。そんな笑みを浮かべていた。
「お顔なじみであれば、敢えてご紹介は必要ございませんね。グレースは、聖女様が聖地におられる間、専属でお世話をすることになっております。本日は朝食の後で、聖地の施設をご案内させましょう。さぁ、そろそろ寝台を出てお仕度をして頂かないと、殿下がお迎えに来られてしまいますよ」
話が一段落付くのを待っていたように、イザベラが声をかけてくる。急かすように言われて、ロザリアは寝台から降り、誘導されるままに洗面室へと向かった。
朝食で本日の予定の擦り合わせを行う。レオンはエクレイルを神樹の下へ連れて行き、その足で聖騎士団の詰め所へ向かい、引継ぎ業務をしてくるとのこと。
ロザリアは一番に、本聖堂併設の会堂に宿泊しているミカエルたちの所へ行くことに決めていた。
まずは近衛騎士たちに、聖宮に入れる資格を得させなければならない。ロザリアにとっては、何を置いても優先させなければならない事案だった。
いくらここが聖地の中であり、帝国最強の騎士であるとはいえ、英雄である皇子を護衛も付けずに居させる訳にはいかない。
儀礼的な問題などはどうでも良い。何が起こるか分からないのが世の常、出来る限りの安全策は取っておきたかった。何せ、あの英雄は一度ならず二度、生死の境を踏み越えているのだから。
最低限、ミカエルだけでもレオンの傍に付けておかなくてはと思う。元々神聖力の強いミカエルが、精霊の加護を受けられないはずはないのだから。
グレースの案内で、セシリアやアリステアの二人と十人ほどの聖騎士たちに伴われ、ロザリアは聖宮を出て本聖堂の方へと向かう。
昨日通った時はあまり余裕が無かったせいか、良く覚えていない。だが、改めて本聖堂を望むと、聖地の玄関口として相応しく、実に古式豊かな壮麗さが感じられた。
せっかく来たのだからと、その長い歴史を誇る本聖堂を良く見てみたいと思ってしまった。レオンや、公爵邸に滞在していたベテランの聖騎士たちが同行していれば、そんな軽はずみな行動を許すことはなかっただろう。
だが、聖騎士団でも重鎮である彼らは、教皇の帝都訪問に対する事後報告や、レオンが離職することによる体制の変更に追われて忙しい。
そうして今、禁域内での見学という前提もあって、ロザリアに付いているのは、経験の足りない若い聖騎士たちばかりだった。
信者が聖女に危害を加えることなどあり得ない。そんな油断があったのだろう。誰一人、諫める者がいなかった。
朝食を終えたばかりのまだ早い時間にも関わらず、既に本聖堂にはいつも以上に多くの巡礼者たちが訪れていた。
何も考えずに一般人の立ち入り禁止区域から出た途端、聖女の一行に目敏く気づいた者たちが声を上げたことにより、一瞬で辺りは騒然となった。
聖女を間近で見ようとする者、少しでも触れようと手を伸ばしてくる者。人々が雪崩を打つように押し寄せてくる。
セシリアやアリステア、聖騎士たちが周りを囲んで近づけないようにはしてくれているが、合間から伸びてくる幾つもの手に服や髪を掴まれ、強く引っ張られたロザリアは恐怖を感じた。
『叔父様っ! ブランッ!』
あれから神樹の所に行ったままだったブランが、血相を変えて転移してくる。もみくちゃにされて青くなっているロザリアを認めた瞬間、ブランは獣化して咆哮を上げた。
「もっ、猛獣!?」
「ひぃっ、食われるっ!」
怒りを湛えた顔で唸るブランに、詰め寄っていた人々が後ずさる。丁度その時、騒ぎに気付いたらしいミカエルが、隣の会堂から近衛騎士を率いて駆け付けてきた。
信者たちを押しのけ、力技で人ごみを掻き分けるようにして近づいてくる。
未熟な若い聖騎士たちと比べ、能力の高さを見込まれて選抜されている近衛騎士たちは、纏う覇気が全く違った。
儀礼に関しては聖騎士の方が練度は高く見えたが、要人警護や実戦となると近衛騎士に敵うはずもない。ミカエルたちは瞬く間に群衆の間に割って入り、ロザリアを保護してくれた。
「ミカエル兄様っ!」
「ったく、何やってるんだよ! こんな人数で囲まれたら動けなくなるに決まってるだろう?」
呆れたように言うや、ミカエルは有無を言わさずロザリアを抱え上げたかと思うと、すぐさま確保させていた退路から撤退した。
許可のない者は入れない会堂へと、近衛騎士に囲まれるようにして、並走する聖獣たちと共に全力疾走で駆け込む。少し遅れて、聖騎士たちが付いてきた。
会堂内のエントランスにあるベンチに降ろされ、安堵の溜め息を吐いていると、ミカエルから滾々と説教されてしまった。
「あのなぁ……今まで、多勢の騎士や兵士が整理してる場所でしか人前に出てないから、よく分かってないのかも知れないが、あんな少人数で群衆に交じるなんて自殺行為だぞ? 一体何考えてるんだ?」
「み、皆さん、信者の方たちですし……まさか、あんなことになるなんて……」
「信者だろうが関係ない。群衆ってのは怖いんだ。もみくちゃにされて怪我でもしたらどうする! レオンはどうした? なんでリアが本聖堂に行くのに、こんな少ない人数しか付けてないんだ?」
「あっ、あの……レオン…様は他に予定があって、その……わたくしは、ミカエル兄様にお話があって会堂へ来るつもりで、本当は本聖堂へ行く予定ではなかったのです。せっかく来たのだし、本聖堂を良く見たくなってしまって、つい……」
「つい、じゃない! もっと自分の立場を自覚しろ。ここは大勢の信者が集まる聖地なんだ。君は、全信者が崇める聖女なんだぞ? 聖女が近くにいたら、ご利益に与ろうとして少しでも傍に寄ろう、あわよくば触れたいと押し寄せてくるのが当たり前だろうが!」
普段の軽薄さが嘘のような剣幕での叱責に、ロザリアは身を縮めるようにして項垂れる。こういう苛烈なところは、やはりヴァネッサの実兄なのだと思えた。
「レオンにも言っておくが、絶対に禁域から出るな! ここに来た目的は、信者に会うことでも物見遊山でもないはずだろ」
「……はい。申し訳ありませんでした……」
やはり見かけ通りではない。絶対に怒らせてはいけない相手だった。助けを求めて、遠巻きにしているミカエルの部下たちを見たが、皆そっと目を逸らしている。
若い聖騎士たちは言わずもがな。引き攣った顔で、まるで自分が説教されているかのように、背筋を伸ばして壁際に並んでいた。
ブランを始め、聖獣たちまでもが顔をこわばらせて、毛を逆立てている。軍閥の次期当主の威圧感の凄まじさを前にしては、誰一人助けにはならない。
泣きたい気分で俯いていると、天の助けがあった。
「ミカエル? なんで、ロゼを威圧してるんだ」
徐に会堂の扉を開けて入ってきたレオンが、中を見回して、不快げに眉を顰めて問う。
「威圧なんてするかよ。説教してるんだ」
「説教? ロゼに?」
ミカエルを責めるように睨んでいたレオンは、虚を突かれたように目を丸くする。
「ああ、物見気分で不用意に禁域から出て、信者の集団に取り囲まれ、危なく怪我をするところだった」
「はぁ!?」
相当驚いたらしく、顔に似合わぬ素っ頓狂な声を上げたレオンは、次の瞬間には真顔になって怒気を湛えていた。
「どういうことだ、ロゼ?」
天の助けでは無かった──




