第一章 神の御座す地 1
白い岩壁にぐるりと周囲を囲われた地、聖地──内部にほぼ真円の大きな湖があって、湖岸には長期滞在する信者用の宿泊施設や、聖地で働く者たちの家屋が並ぶ。
巨大な水鏡のような湖の中心には、広大な白い平らな島がある。更にその中央にある森が、本当の意味での聖地だった。
湖岸から島までは、真っすぐな白い道が湖面を貫くように伸びている。その橋のような道を渡り切った所に建つ本聖堂までが、一般の信者の立ち入りが許される場所となっていた。
そこから更に奥は、聖職者と聖騎士以外の立ち入りは禁じられている。
その一般人の立ち入りが禁止された区域には、真の聖地への入り口に面して壮大な聖宮があった。そこは神聖教会の中枢で、神殿や教皇の住いたる殿舎や庁舎が並ぶ。
本聖堂と聖宮の間には、聖職者や聖騎士が一堂に会せる規模の広場があった。
教皇と英雄と聖女の行列は、沿道の信者たちの熱烈な歓迎を受けながら、中心の島へと続く白い道を渡った。
パレードの数時間前から島への通路は閉ざされ、本来なら一般信者の立ち入りが許されている本聖堂にも部外者は一人もいない。
聖地に所属する聖職者や聖騎士の全てが聖宮前の広場に集まっていた。聖宮の正門へと続く通路の左右に、全ての者が跪いて頭を深く垂れている。
千人近い者が会しているとは思えぬほど、しんと静まり返り、誰もがまるで物言わぬ石像のように身動き一つしない。
そんな広場の中央を行列は真っすぐに進み、やがて聖宮の正門前で教皇の馬車と二人を乗せた雷獣が留まった。
公爵邸へも同行していた聖騎士二十名が馬車から降りる教皇を囲み、第一皇子の近衛騎士三十名が、雷獣から降りたレオンとロザリアの背後に控える。
直接の警護以外の同行者たちは、跪く者たちに倣って左右に並び、同じように跪く。
「予定より長く帝都に留まる次第になってしまったが、儂がおらずともしっかりと留守を守ってくれたようじゃの。皆、それぞれ己が役割を全うしてくれて、ありがとうな」
広場に集まる聖職者や聖騎士を見回して、教皇は満足げな笑みを浮かべて言った。そうしてから顔を引き締めて背筋を伸ばし、手にしていた聖杖を地にどんと突き立てる。
居合わせた者たちは、跪いたまま一斉に顔だけを上げて、教皇を注視した。
「さて、皆も大筋は聞いておろう。此度の帝都への滞在中に、闇の使徒どもが災いを呼ぶべく皇宮で行動を起こした。最大の“枝”たる聖樹が穢され、守護者である皇帝までもが穢れによる病に倒れた。その穢れを一掃し、皇宮に巣食っていた闇の使徒どもを倒したのが、五百年ぶりに現れた英雄と聖女である!」
教皇は、傍らに立つ二人を指し示しながら高らかに告げる。レオンに手を取られたまま、じっと拝聴していたロザリアは、淑女の礼を取るべきかと一瞬迷ったが、必要ないと言うように握られた手に力を篭められたので、そのままの姿勢を保つことにした。
「聖女様はその御力で皇宮全体を浄め、全てを癒し、聖樹と皇帝をお救いになられた! この御方こそが、紛うことなき今代の聖女、ロザリア様である!!」
途中から聖女崇拝の色が混じり始めたが、もう諦めているロザリアは、ただ黙って微笑んでいた。
「本来ならば、学院を卒業される一年後まで帝都で過ごされるご予定であったが、聖女様ご自身が闇の使徒との戦いに早めに備えるべきと仰せられ、すぐにも修練に励まれたいと我らの帰還に同行されることとなった。まだまだ年若くておられるにも関わらず、聖女様の御志の何と素晴らしいことか! これから、しばらくの間、聖女様は神の御許たるここ聖地で過ごされる。皆、聖女様が快適に過ごされるよう、この老骨に向ける以上に細心の気を配りお尽くしして欲しい!!」
后妃教育で仕込まれた淑女の微笑が引き攣りそうになった。思わずレオンに握られている指先に力が入ってしまい、隣で微かに苦笑する気配が感じられる。
そうして、付け足しのように教皇はレオンの紹介をした。
「……ああ、我が聖騎士団長だが、闇の使徒の目を欺くために、今まで本来の身分と二つ名を伏せていた。彼の本名はレオン・アーカンシェル。今代の英雄であり、現皇帝の第一皇子である。今回の騒動にあたり、人心の安定のために皇帝は彼の素性を明らかにし、聖女様の出現と共に英雄であることを広く知らしめた。よって、聖騎士団長の職を解き、今後は英雄である神聖帝国第一皇子として聖地に滞在することになる」
教皇は事もなげに言ったが、この場に居合わせた者たちにとっては、こちらの方が大ごとだったようだ。特に、留守居であった聖騎士たちの動揺が激しい。
今の今まで微動だにせず聞き入っていた者たちが、一斉に驚きと戸惑いを露わにして、周囲の者と顔を見合わせている。
そうして騒めいている者たちへ、教皇は相変わらず事もなげに、いや愉しげに笑いながら更に宣った。
「おお、もう一つ……その英雄と聖女様の出現を公表する披露目の場でのう、ついでに儂の祭祀で婚約の儀を行っておる。つまりは、この二人は婚約者同士と言うことだ。皆も、そのつもりでな。聖女様のお美しさに釣られて、間違っても懸想などすることのないように。英雄の悋気は怖ろしいからのう。気を付けるが良いぞ」
騒めきは更に高まり、この場にいる者たちの目が一斉にロザリアへ向けられる。そのあまりの圧力に狼狽えたロザリアは、つい苦情混じりに呟いてしまった。
「ま、また猊下はあのような……叔父様が悋気なんて……」
すぐ後ろに控えていた近衛騎士たちが皆、思わずと言った素振りで片手で目を覆ったり、額を抑えて下を向く。率いるミカエルもまた、額を指先で抑えたまま深々と息を吐いた。
その呆れたような溜め息を聞いて、ロザリアははっと我に返り、焦って見上げた途端、屈み込むように顔を近づけたレオンに唇を奪われていた。
「……!」
瞬間的に首筋まで真っ赤に染まる。慌てて背けた顔を両手で覆ったが、頬が燃えるように熱い。
理由を説明できる距離感にある旅の同行者でもなく、もう顔を合わせることもないだろう通りすがりの民衆でもなく、これからしばらく身を置く場で暮らす者たちの前での口付けに、ただただ居たたまれない。
自業自得ではあるのだが、ついつい恨みがましい思いでレオンを睨み上げると、やたらと上機嫌な笑みが返されてしまった。
ここ最近見かけたような、意地悪な笑みでも、からかいを含んだ笑みでもない。訳が分からずに赤い顔のまま目を瞠っていると、笑いながら耳元で囁かれた。
「政略結婚じゃないってことを一瞬で全体周知できたし、手間が省けたんで、今回は良しとするよ」
甘い雰囲気を漂わせ、優しげな顔で美しく年若い聖女に寄り添う英雄である皇子。ずっと朴念仁と評されていたにも関わらず、聖騎士団長でなくなった途端の変貌と所業に、聖地の者たちはひたすら呆気に取られていた。
やたらと愉しげな高笑いで集会を締めくくった教皇に促され、ロザリアはレオンのエスコートで聖宮へと足を踏み入れた。
聖人を護る役目を負った聖騎士は聖宮へ立ち入る資格があるため、最前列に控えていた者たち数十名がそのまま付き従ってくる。
だが、第一皇子としてのレオンの警護である近衛騎士たちは、これ以上奥へ入ることは許されない。
そもそも、この広場までレオンに従って来られたこと自体が、教皇の許可による特例中の特例だった。門前で待機を命じられたミカエルは、不本意そうに部下たちと留まっていた。
聖宮は皇宮の内宮よりもずっと古い時代の建造物だが、少しも損なわれることなく、美しい造形を保ったまま今のこの時代に存在している。
本来ならあり得ないのだろうが、この地であれば少しも不思議はない。全ては神の御業──そう素直に受け入れられた。
「聖女様、まずは神樹へご挨拶を。レオン、聖女様を神樹の御許へお連れしなさい」
「猊下は行かれないのですか?」
「うむ、神は愛し子たる聖女様との相見を、殊の外楽しみにしておられるようじゃ。案内人は伴侶となる其方の方が良かろうて。儂は後からゆっくりとご報告に伺うとしよう」
「分かりました」
教皇へと恭しく礼を取って、レオンは再びロザリアに向き直り、手を差し出してくる。手を嵩ね、導かれるままにロザリアは聖宮の奥へと進み、正面の神殿へと向かう。
従ってきた聖騎士の半数は教皇の警護に残り、後の半数が二人に付いてきていた。
神殿の奥深くへと進むと、その最奥部に大きく重厚な扉があった。扉には精密な樹木のレリーフがあり、何故かその前に立派な祭壇が設けられている。
まるで御神体の前に設けられる祭壇のようにしか見えない。不思議に思って、レオンに尋ねた。
「何故、扉の前に祭壇が?」
「神の御許へ繋がる扉だからだ。あの扉から先は本来、教皇猊下しか入れない。だが──」
「英雄と聖女は別……と言うことでしょうか」
「一応、私たちは聖人になるらしいからね」
どこか苦笑気味に言ってから、レオンは背後の聖騎士に待機を命じ、ロザリアを連れて祭壇を回り込んで扉へと向かう。
「ロゼ、レリーフに手を当てて──」
言われるままにレリーフへと、左手を押し当てる。ロザリアと手を繋いだレオンもまた、空いた右手を同じようにレリーフへと押し当てた。
「──そのまま神聖力を流してごらん」
同時に力を流し込んだ途端、二人は扉へ吸い込まれるようにして、その場から消え失せた。




