第七章 日常との決別 14
「ロゼ、入るぞ──」
入口の帳を払いのけながら、そう声をかけつつ中へと入ってきたレオンは、目を見開いて押し黙った。
テーブル脇でミカエルと向かい合い、手を握り合っていたロザリアもまた、同じように目を見開いて押し黙る。
今の状態に至る経緯をそのまま話しても良いものか判断が付かない。多少の戸惑いを浮かべて見上げると、ミカエルは頭をがしがしと掻いて、大きく溜め息を吐いた。
「くっそ、間が悪いったら……」
「何がだ?」
あからさまに不機嫌そうに、レオンが険のある口調で問う。それが、ロザリアにはとても意外だった。更に──
「いつまで握ってるんだ。いい加減、手を離せ!」
大股で近寄ってきたレオンがミカエルの手を払いのけ、ロザリアを引き寄せる。不愉快極まりないと言った感情が丸分かりなほどの、冷たいオーラを垂れ流しながら。
「お前な……婚約した途端、独占欲全開かよ」
呆れたように肩を竦めて文句を言うミカエルに、レオンは僅かに息を呑み、気まずげに目を泳がせている。
そんなレオンの表情の変遷を、ロザリアは目を丸くして見つめていた。
「……ロゼ、なんで笑ってるんだ?」
「リア~、いっくらこの朴念仁がヤキモチ焼いてくれたからって、そんな露骨に嬉しそうな顔するなよ~」
片や不可解そうに、片や呆れ果てたように指摘され、ロザリアは多分にやけてしまっているであろう顔を慌てて引き締めた。
真顔になったつもりではいるが、頬が熱い。
真っ赤になって目を伏せているのを見やって、ミカエルは盛大な溜め息を吐き、いきなりレオンの背を思いっきりどついて入口へと向かった。
「あ~あ、やってらんないっての。言っとくけど、さっきのは同盟の握手だからな。妙な誤解すんなよ? そんな暇あったら、初心な婚約者口説いて、逢引きでもしてきやがれ」
そんな捨て台詞を残して出て行った後、天幕の中はしんと静まり返る。聖獣たちは変わらず周りにいるが、口を噤んでいると全く気配を感じさせない。
引き寄せられたままの恰好、つまりは肩を抱かれてレオンにほぼ密着しているロザリアは、至近距離から赤くなっているはずの顔を覗き込まれて、ひたすら居たたまれない思いでいた。
「……逢引きか。実は、ロゼを連れて行きたいところがあって、誘いに来たんだ」
「今からですか?」
「多分、夜じゃないと会えない」
「?」
誰にと疑問を浮かべて、腕の中から見上げると、レオンは悪戯っぽく笑う。
「行ってみてのお楽しみ……かな。少し遠いけど、エクレイルの足なら大してかからないはずだ。それとも、疲れてるかい?」
「いいえ、大丈夫です。是非、連れて行って下さいませ」
疲れは確かにあるが、好奇心の方が勝る。何より、レオンの口ぶりからすると、ミカエルの言葉を受けて、逢引きのつもりで誘っているらしい。
断るわけも断れるわけもない。つい食い気味に返事をしてしまった。
三人の聖獣たちを天幕に残し、誰の供も付けず、二人だけで雷獣の背に乗って、僅かに覗く星明りだけを頼りに森の中を進む。
夜の森は本来危険な場所にも思えるが、雷獣が威圧しているせいなのか、しんと静まり返って獣どころか虫の気配すらない。
元より、英雄と雷獣がいて、危険などあるはずもなかった。そんな絶対的な安心感の中、雷獣の背で揺られながら、レオンに寄りかかっている。
ふと、いかに自分が幸せなのかを実感してしまった。
まだまだ自分が望む想いを返してもらえてはいないとはいえ、ずっと結ばれることを夢見てきた初恋の相手と、周囲にも一応は当の相手にも望まれて婚約した。
自分を押し包む逞しい腕や胸、ずっと慣れ親しんできた大好きな匂い、温かい体温。変わらず自分だけに向けられる優しい瞳、笑顔、声。
『この方は、わたくしのもの……』
そう実感する。例えそれを公言したとしても、もう誰からも文句は言われない。もちろん、当のレオンからも。それが、とても嬉しかった。
ロザリアは幸せに浸りながら、レオンの胸に頭を強く押し付ける。
ふっと微かに笑んだ声が聞こえたかと思うと、左手でそっと抑えられた頭に、やはりそっと唇が寄せられた。その感覚に、ロザリアの心音が跳ね上がる。
密着しているのが右半身であったことに思わず感謝するくらい、鼓動が激しい。
出会ってからずっと、何度も何度も数えきれないくらい抱き締められている。額や頬へ口付けされたことも当然数えきれない。
本当の口付けも自分から二度、儀式とはいえレオンからも一度経験している。なのに、この程度のことでと思うと不思議だった。
『わたくしも……この方のものだから……?』
ミカエルが言った、自分に対してのレオンの独占欲。女性としての自分への──それが実感できたからかもしれない。
「レオン……様」
「ん?」
ロザリアは火照る頬のまま、少し身を起こして、じっと愛しい男の顔を見上げる。
「先ほど、兄様に指摘されましたの……隙を見せてはいけないと」
「隙?」
唐突な言葉に、レオンはきょとんとした顔で不思議そうに、ロザリアの目を覗き込んでくる。
「ええ……周りの女性たちへ」
「……? 意味が分からないんだが」
「わたくし、まだお名前を呼ぶのに慣れていなくて……先ほども叔父様と言ったら、兄様に叱られましたの。レオン…様の周りには隙あらばと狙っている女性が沢山いるのに、叔父様なんて呼んでいたら婚約が政略だと思われて、愛人志願の方々が色仕掛けにくると……」
「あいつ……何を吹き込んで──」
「いいえ! 兄様の仰ることは正しいと思いました。帝国の貴族は皆、わたくしたちが義理とはいえ、叔父姪の間柄であったことは知っております。実質的にその関係のまま婚約したのであれば、皇室と筆頭公爵家の間での政略結婚にしか見えませんもの。そうならば……隙があると思われても不思議ではありません」
「……政略のつもりはないし、他の女性を近づけるつもりもないよ」
少し怒ったように言われて、それが逆に嬉しい。つくづく自分が恋する乙女なのだと実感してしまった。
「わたくしたち二人の思惑とは関係ないのです。周りにどう見えるかが問題なのですわ。ですから、その……練習にお付き合い下さいませ」
「練習……?」
「はい。わたくしが、長年の習慣で叔父様と言ってしまわないように……お名前を呼ぶ練習を」
「それは、構わないが……」
どこか納得していない風なのは、理由なのか、その効果に対してなのか。レオンは怪訝な顔のまま、とりあえずは承諾してくれた。
それを受けてロザリアは目を閉じ、小さく深呼吸を繰り返す。
『この方は、わたくしのもの。わたくしも、この方のもの……誰にも隙を狙わせたりなんてしない』
心に強く思って目を開け、愛しい男を見上げる。切羽詰まった心持ちのせいか、意図せず切なげな表情での上目遣いになってしまった。
「……レオン様」
見下ろしていたレオンが息を呑む。その顔に戸惑いが浮かび、目が泳ぐ。必死なロザリアは、そんな様子に全く気付かない。
「レオン様──レオン様──」
二度と間違えぬよう、自分に刻み付けるようにロザリアは、何度も何度もその名を繰り返す。恋い慕う男の名に、ありったけの愛しい思いを込めて。
相手が狼狽え、硬直してしまっていることには欠片も気づかずに──
「……!」
急に森が開けたところに、泉が現れた。苔むした大小様々な岩に囲まれ、夜目にも透き通った水を湛え、奥の方の水面が湧き出した水で盛り上がっている。
周囲を森に囲まれ、人の訪れなどなさそうな空間には、小さな精霊たちが群れるようにゆったりと飛びまわっていた。
「まるで、精霊の森のよう……」
雷獣の背の上で、その神秘的な様に目を瞠っていたロザリアは、先に降りたレオンに抱き下ろされながらも目が離せない。
しばらく公爵領へ足を運ぶ暇も与えられなかった上に、初めて見たよその聖樹の森である皇宮の森からは、精霊が去って久しく、ただの一体にも出会えなかった。
「精霊を見るのは、本当に久しぶり……」
身も心も洗われる想いで、清浄な気を大きく吸い込む。
「もしかして、ここには皇宮の森から逃げた精霊たちが集まっているのでしょうか……」
「そうかも知れないね」
「なんだか、とても懐かしい気持ちになります……」
聖女と認定される前まで、忙しい父に代わりレオンと共に定期的に公爵領を訪ねては、老いた祖父の手伝いで聖樹に神聖力を注いでいた。
滞在中は、日中のほとんどの時間を森の中で過ごしていたように思う。レオンと共に精霊と戯れながら。
「叔父様は、聖騎士になってからも、時々公爵領へは行かれていたのですよね?」
「……ああ、数か月置きくらいにね」
「これからはどうなるのでしょう……もう、叔父様は──」
ふいに唇が塞がれた。切ない気分になりかけていたのが一気に霧散してしまった。ロザリアの唇を塞いだのは、レオンの唇だったから。
「お、叔父様……?」
驚いて、唇が離れた途端にそう呼ぶと、また唇が塞がれた。唇を離し、至近距離でレオンが苦笑する。
「人の気も知らずに練習と称して、あれだけ私の名を連呼していたくせに、また“叔父様”に戻ってる……」
「……あ!」
レオンは屈めていた身を戻し、大仰に首を振って肩を竦めた。
「ロゼの言い分がもっともだと思ったから、あの苦行に耐えたのに……酷い話だ」
「え……あの、苦行って……あ、あの、叔父様……?」
唐突な行動と、言われた言葉の意味が分からず動揺し、また呼び名を間違える。次の瞬間、また唇を塞がれていた。
「これから、私を叔父様と呼ぶ度に、罰として唇を塞ぐことにする。いつでも、どこでも。もちろん人前でも、だ」
「な、な、何を仰って……」
「言ったろう? ロゼの言い分がもっともだと思ったって。人前で私を叔父様と呼んで隙ができるなら、そうすることで、少なくとも私が政略として婚約したわけではないと言うことが、誰の目にも一目瞭然になるだろう?」
「だっ、だからと言って──」
今度は指先で唇を塞がれた。
「口付けで黙らされたくなかったら、私の呼び名を間違えないことだ」
そう言ったレオンは、例えばミカエルに対して向けるような、とても意地の悪い笑みを浮かべていた。




