第六章 皇宮の大掃除 8
聖樹の結界は、本来は外からの悪しきものの侵入を阻むためのものだが、今は内の穢れを外に出さないために、残った力のすべてを使っているように思えた。
沈黙している聖樹にそんな意志を感じて、ロザリアは顔を引き締める。
清浄な空気、水鏡のような澄み切った湖水、神聖な純白に輝く平らかな島、そして生命力に満ちた青々とした聖樹──后妃教育が始まってからはあまり足を運べていないが、それまではレオンと共に公爵領へは頻繁に行っていた。
そこで目にしていた精霊の森の聖樹のある空間を頭に思い描き、穢れた空間に浄化と癒しをかける。
『あの、私たちの精霊の森のように……ここも、清らかな光と気が満ちて、瑞々しい生命の力が溢れるような場所へ……』
そう願いながらも、心の片隅では寂しい気持ちがあった。レオンが本当に守護すべき場所は、二人の思い出が沢山ある精霊の森ではなく、この皇宮の森なのだと分かってしまったから。
『叔父様はもう、あの場所へ入ることはできないのではないかしら……』
公爵家がそれぞれ護る聖樹の森へは、他家の者は入れない。もし、ここでレオンが雷獣の主となって、この森の守護者となってしまえば、ブランシュ家の聖樹の森へは入れなくなるはずだった。
──心配は要らぬ。其方は入れているではないか
ふいに、そんな声が脳裏に響く。
『聖樹……なのですか? でも……わたくしは、まだ精霊の森の守護者では……』
精霊の森の現在の守護者は父レナートである。宰相としての公務に忙しいため、代わりに守護している先代を、直系である自分やレオンが補佐してきたのが現状ではあるが。
ふと疑問に思った。
『ブランシュ家の直系ではない叔父様が、精霊の森に入って聖樹に力を注げていたのは何故……?』
──其方がここに入れているのと同じことだ。神の代理人と英雄と聖女は、全ての聖樹に触れられる。だから、悲しむことはない
慰めてくれているのだろうか。そんなことを思っていると、聖樹がざわりと葉擦れの音をたてた。この場は完全に浄化され、清浄な気が満ちて湖水は澄み切り、島も元の純白の色を取り戻している。
だが──
『癒えはしたけれど……長いこと地力が足りない状態が続いて、ここ数日の呪力への抵抗でもかなり力を使ってしまったみたいだから……』
恐らく神聖力がまるで足りていない。まだ不安はあるが、聖樹の言葉に嘘はないだろう。ロザリアはきっと顔を上げて、レオンに向き直った。
「叔父様……ここから先は、叔父様のお役目でございます」
「ロゼ?」
「聖樹に神力を注いで下さいませ」
レオンはちらりと本来の守護者である皇帝を見やって、困惑気味に問い返す。
「私が……?」
「ええ、叔父様は次代の守護者なのですから……」
「いや、しかし……」
次代の守護者という言葉に抵抗を感じているらしいレオンを、しばらくじっと見つめていた皇帝が、小さく息を吐ききっぱりと言った。
「私に構う必要はない。それが神に与えられた使命ならば、為すべきことを為すが良い」
そうしてから、厳しい表情で教皇に向き直る。
「猊下、いろいろと私の知らぬ事情がありそうだが……もちろん、包み隠さず話して頂けるのでしょうな?」
そんな圧力を感じさせる要求に、教皇はロザリアと目を合わせた後、苦笑を浮かべて言った。
「そうですな。もう話しても構いますまい……」
「お二人とも、とても大事なことではありますが、後にして下さいませ。今は、聖樹の回復が最優先でございます」
そうロザリアににべもなく言われて、二人はうっと口を噤む。
「さぁ、叔父様。お急ぎ下さいませ」
ロザリアは、相変わらず戸惑っている様子のレオンに委細構わず、その手を取って強引に島へと向かった。聖樹の元へと連れて行き、再度神力を注ぐよう要求する。
「神力……なのか?」
「ええ、地力が足りていないと叔父様も仰っていたでしょう? この帝国の屋台骨とも言える要の聖樹なのですから、神聖力では足りないと思うのです」
「……そうだな」
「はい」
「わかった」
厳しい顔で頷く。ようやく覚悟を決めたらしい。自分で促しておきながらも、ロザリアは複雑な気分でレオンの横顔を眺めた。
聖樹に両手を突き、きつく目を閉じたレオンの全身から、金と銀の光が入り交じった純白の光が迸る。両手から聖樹へと神力が流れ込んでいき、巨大な樹全体が光に包まれた。
七歳の頃、ロザリアが初めて精霊の森で聖樹を癒した時と同じように、レオンもまた聖樹と何やら語り合っているようだった。
やがて、燦然と輝き出した聖樹を中心に、波動のようなものが外へ外へと広がっていく。森全体が呼応したかと思うと、更に波動は森の外へと伝わっていった。
「これで……精霊たちも戻ってきますね、きっと」
「ああ、そうだな……」
聖樹を見上げて呟くロザリアに、ようやく木肌から手を離したレオンが振り返る。優しい笑みを浮かべて、間近で見下ろしてくるのを見上げ、ロザリアは決意を籠めて唇を固く引き結んだ。
徐にレオンの手を取って跪き、両手で推し頂きながら真剣な眼差しを向ける。
「ロゼ?」
「叔父様、わたくしはここに誓います。これから先、わたくしの命も身も心も貴方のために……わたくしは、貴方を護るためだけに生きます。もう二度と、あのような……あのような目に叔父様を遭わせたりは致しません」
目を瞠って言葉を失っているレオンの手に、ロザリアはそっと口付けた。はっと我に返ったレオンが、慌てたようにロザリアを立たせようと片膝を突く。
「ロゼ、女性の君がすることじゃない」
「わたくしは同じことを神に誓っております。どうしてもこの聖樹の前で、叔父様ご自身にも誓っておきたくなりましたの。以前、叔父様がして下さったように」
そう言って、ロザリアはにっこりと微笑んだ。
一方で、そんな二人を湖畔から遠目に眺めながら、皇帝に強く請われた教皇は、レオンの誕生にまつわる経緯を詳しく語っていた。
傍らで、回復した雷獣の番と子もその話を聞いていた。
真実を知った皇帝は、本宮に戻るや聖卓会議を招集するために、直ちにブランシュ公爵を呼び出した──




