第一章 解放への道 2
在校生の入場が終わり大扉が閉められる。壇上の貴賓たちの様子を慮り、学院の運営側も右往左往しているようで、誰も進行の音頭を取ろうとしない。
そんな収まらない騒めきに、ようやく気付いたらしい皇子が不審な顔で周囲を見回してから、進行役に目を向け声を張り上げる。
「どうした! 入場が終わったのに何故開会の宣言をしない? 早く始めぬか!」
相変わらず戸惑いを顕にしている貴族たちを見遣り、皇子が不思議そうに首を傾げた直後、一旦閉じられていた大扉が再び重々しく開かれ、遅れてきた出席者の名が高らかに告げられた。
「ロザリア・ブランシュ公爵令嬢! 並びに――」
騒めき続けていた会場中の貴族たちが一瞬で口を噤み、その全ての目が開かれた扉の合間に立つ者たちへ、音がしそうな勢いで一斉に注がれる。
「――神聖教会聖騎士団長、レオン・ブランシュ閣下!」
帝国の白薔薇と称される白皙の美貌の令嬢が頬を微かに染め、傍に寄り添う青年をそっと見上げて嫋やかに微笑む。その視線を受けて愛しげに笑み返した青年もまた、白銀の獅子と称えられる帝国一の騎士だった。
「おおっ!」
「まぁ、ロザリア様ですわ。おいでになりましたのね、良かったこと」
「レオン殿のエスコートとは……これはまた眼福ですな。ロザリア様もお心強かろう」
本来の婚約者よりもずっと似合いに見える二人の姿に、年配の貴族たちは安堵と感嘆の声を漏らし、妙齢の貴婦人たちからは華やいだ歓声が上がる。
「ああ、レオン様のお姿を拝見できるなんて……何年振りかしら」
「ええ、聖騎士団に入られてからは社交の場にはお見えにならなくなりましたものね。ああ……聖騎士団長の礼装がなんてお似合いなのかしら。素敵ですわ……」
「わたくし実は、実家の弟に請われて渋々出席したのですけれど、弟に感謝しなくては。以前とお変わりなく、いいえ益々凛々しくなられていらっしゃって、目の保養になりますわ」
「あの方の隣に立てばどんな美女も霞んでしまうと思っていましたけれど、さすがはロザリア様ですわね。こんなにお似合いのお二人はそうそういらっしゃいませんでしょうに……叔父と姪のご関係が残念ですこと」
「あら、レオン様はご縁戚からのご養子でしょう? 何も問題はないのでは?」
「そうですわよね……このような仕儀となったわけですし……」
「正直、あのような殿下よりも――」
小声で交わされていた淑女たちの密やかな会話を、近くにいた老境の紳士が聞きかねたのか、わざとらしく咳をして遮った。慌てて口を噤んだ若い貴婦人たちは、何事もなかったように扇で口元を隠して取り繕う。
合い間もなく流れ作業のように、順に壇上への礼を取っていた卒業生や在校生たちとは異なり、遅れてきたことによって、返って場の注目と歓心を一切合切攫ってしまった二人は、たった二人だけで中央の花道をゆったりと進んでいく。まるで婚礼のために神前へと進む新郎新婦のようでさえあった。
場の主役を奪われた体の皇子はしばらく呆けていたが、不満をあからさまに浮かべるパートナーに腕を強く引かれて睨まれ、慌てたように顔を引き締めた。
件の二人はちょうどひな壇の前に到着し、それはそれは優雅な所作でロザリアがカーテンシーでの礼を取り、レオンは神の代理人たる教皇が皇帝と共に座すため、胸に片手を当てて両膝を突く。
「其方、どういうつもりだ!」
二人が姿勢を戻したところへ、皇子がツカツカと歩み寄り、声を荒げながらロザリアに掴みかかろうとする。だが、その手は空を切った。流れるような仕草でロザリアの腰を引き寄せて自分の陰に移動させ、レオンが立ちはだかって皇子と対峙する。
「他人のパートナーに手を出そうなどと、殿下こそどう言うおつもりで?」
長身のレオンから冷ややかに見下ろされ、皇子は気圧されて僅かに身を引く。
「そっ、其方のパートナーだと? もっ、元々は私の婚約者ではないかっ。そっ、其方こそ、ぶっ、無礼であろう!?」
声を上擦らせて吃りながら必死に喚く皇子の主張に、貴族たちが呆れ返った目を向ける。
「我が家門の掌中の珠たる大事な姫を辱めようとしたのは誰だ。どの口がそのような戯言を言う」
絶対零度の低い声が皇子に向けられる。もはやレオンは敬語すら使おうとしない。そんな皇族に対するにはあるまじき無礼な態度に、皇子が切れたように喚き散らす。
「皇子である私の婚約者でありながら、他の男をパートナーとして出席するなど何という不貞! こんなことが許されると思うのか!?」
くすりとロザリアが笑みを浮かべる。
「なっ、何が可笑しい!?」
「何を仰るかと思えば……不貞などと。この方はわたくしの叔父でございます。本日の午後、殿下が使者を介して仰ったのではありませんか。『顔も見たくないぐらい嫌いだが、義務で娶らなければならない其方とは、この先ずっとどんなに嫌でも一緒に居なければならないのだから、一生に一度の卒業の時くらい好きな女性と出席する。其方のエスコートなど絶対にお断りだ』と」
何でもないことのように、自分に向けられた言葉を一字一句違えることなく淡々と口にして、微笑を浮かべながらロザリアはついっと小首を傾げる。
「殿下のお言葉こそ、あからさまな不貞の宣言だと思うのですけれど?」
壇上も会場も驚愕に満ち満ちているが、気にするでもなく続けた。
「この舞踏会は、全生徒の参加が義務付けられております。他の女性を伴うからと、仮にも婚約者である方にエスコートを拒否されたならば、身内の者に付き添いを請うしかないではありませんか。わたくし、非難されるようなことはしておりませんわよね?」
敢えて、目の前の皇子ではなく、壇上の面々を見上げて問う。苦渋に満ちた顔でずっと俯いている皇帝以外、まず教皇が強く眉を顰めたまま大きく頷き、次いで他家の公爵たちが厳しい目で皇子を見据えながら、口々に同意した。
「当然だ。ロザリア嬢には何ら非はない」
「よくもまた、仮にも婚約者である令嬢に対して、厚かましくもそのような非道なことが言えたものだ」
「全く……恥知らずにも程がある。学院を卒業すると言うのに、未だそのような道理すら弁えてもいないとは」
一つ一つ頷きながら聞いていたブランシュ公爵が、最後に父親の心境を苦々しげに述べる。
「殿下のお言葉を娘と共に使者から聞かされて、父として私がどれだけ悲憤に駆られたか、この場におられる親の立場にある諸兄にはお分かり頂けよう」
会場中で老若問わず紳士たちが怒りを露わに頷く。
「だからこそ、教皇猊下にお許しを頂いて、護衛に就くはずだった我が弟レオンをお借りし、ロザリアのエスコートを依頼したのだ。父である私が、な」