第五章 平穏の綻び 5
「えっ……?」
いきなり、レオンだけが呼ぶ愛称が皇帝の口から出て、ロザリアは驚いた。自分が呼ばれたのかと思ったが、そうではないらしい。
皇帝は飛びつくように向かった扉の鍵をもどかしげに開けながらも、同じ名を再度口にしている。
やがて寝所の奥にある扉が開け放たれ、皇帝がまたも名を呼びながら駆け込んでいく。
怪訝な顔で一瞬振り返った後で、すぐさまレオンが追いかけ、ロザリアと教皇も少し遅れて続いた。
そこは続き部屋だった。本来は、皇后が本宮に伺候する際に滞在する部屋で、調度や室礼も十分に格が高い。
当然ながら皇帝には皇后がいないため、使用が許される者はいないはずだった。
皇帝を追って足を踏み入れた三人は、部屋の様子に息を呑んだ。
皇帝の私室とはまた趣の違う、瀟洒で華美な女性らしい部屋の奥に天蓋付きの寝台が置かれている。
その上に何かを抱えている女性が座り込んでいた。
ぼうっとした様子のまま、女性は顔を上げない。人が踏み込んできたことに気づいた様子もなく、ただただ抱えた物に何やらずっと囁きかけている。
女性の様子も異様だが、問題はその身体から黒い靄が絶えず滲みだしていることだった。
「ロゼ! 其方は何ともないのか? ロゼ!」
駆け寄った皇帝は寝台に身を乗り上げ、女性の肩を掴んで揺さぶり、性急に問い質している。
揺さぶられるままに力の抜けた身体が揺れ、その顔が垣間見えた。中年に達していて整った顔だちではあるが、生気というものが全く感じられない。
「良かった、其方には影響はなかったのだな……」
そう言って安堵した様子の皇帝が、思わずと言った素振りで女性を抱き締めた。ふいに空気が変わった。
レオンが険しい顔でロザリアを庇うように動き、教皇が聖杖を握る手に力を籠める。
女性の身体から一気に漆黒の濃密な靄が噴き出す。噴き出した靄は渦を巻いて膨れ上がる。
女性は、強い力でいきなり皇帝の身体を突き放した。
「気安く妾に触れるでないわ!!」
そう吐き捨てるように言った言葉は冷たく、力強く、鋭い。生気の無かった顔が別人のように、冷ややかで意志の強い禍々しい表情に変わっていた。
「ロゼ……?」
突き飛ばされた皇帝は戸惑いを顕わに呼びかける。それを見下すように一瞥し、女は強く眉を顰めて怒りの籠った声で言った。
「貴様、何故そのように無事でおる? もう死にかけていてもおかしくはないはずじゃ」
ロザリアの目には、女性の顔の上に別の女の顔が重なって見えた。美しいが毒々しい、そして般若のように歪む顔が──
その恐ろしい顔が、その場に集う者を睥睨したかと思うと、ぴたりとロザリアを射貫くように見据えた。
「そこな娘……聖女じゃな? またも、妾の邪魔をするか!!」
怒りを叩きつけるような叫びと共に、ロザリアに殺気の籠った禍々しい力が向けられる。
レオンが抜き放った剣に神聖力を纏わせて呪力を斬り祓い、同時に転移してきたブランがロザリアに結界を張った。
俊敏な動きで詰め寄ってくるのを、レオンは剣を向けて押し留める。その背の向こうに見え隠れする女は、一瞬も目を逸らすことなく、ずっとロザリアを見据えていた。
背筋に悪寒が走り、経験したことのない恐怖を感じながらも、ロザリアはひたすら考えていた。
皇帝がロゼと呼んだ女性。それに別の女が取り憑いているように、ロザリアの目には視えた。
今、目の前で自分に悪意を向けてくる女は何者なのか。
『猊下が仰っていた呪術師だと思うけど……またってどういうことなのかしら? 陛下に対して、わたくしが何かしたことが前にもあった?』
身に覚えがない。考え込んでいるうちにも、女とロザリアを護ろうとするレオンの対峙は激しさを増していく。
黒く禍々しい呪力をロザリアに向けて次々と放ってくるのを、レオンが全て斬り祓っている。そうして一気に間合いを詰め、女に上段から切りかかる──
「駄目っ、叔父様っ!!」
ロザリアは慌てて制止しようと、その背にしがみついた。虚を突かれたレオンを強力な呪力が襲う。
跳ね飛ばされかけながらも踏みとどまったが、レオンの口の端から血が伝い落ちていた。
それを見た瞬間、ロザリアは切れた。理性が完全に吹き飛び、怒りに任せて神聖力を女に叩き付けていた。
怒涛のような白銀の光の奔流が女を襲い、灼きつくす。
「おのれっ!! 覚えておれっ、絶対に貴様は許さぬっ!!」
悔しげな呪詛めいた叫びを上げながら、女は消し去られていった。後に残ったのは憑代とされていた女性。
女性の身体からがくんと力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「ロゼ!」
皇帝が慌てたように駆け寄って女性を抱き起し、息があるのを確かめている。次いで、ほっとしたように強く抱き締めながら、その場に座り込んでしまった。
ようやくにして我に返ったロザリアは、はっとしてレオンに向き直り、口元の血を指先で拭う。
「申し訳ありません、叔父様……あの方は取り憑かれていただけでしたから、その……」
「ああ、分かってた。本体を斬るつもりは無かったよ。取り憑いていた化け物だけ祓うつもりだったんだが……」
苦笑されて、ロザリアは慌てふためく。自分に視えていたものが、レオンに視えていないわけはなかった。
「ごっ、ごめんなさいっ……!」
頬を赤く染めながら、大慌てで癒しをかけた。




