第五章 平穏の綻び 2
ブランが言った通り、内宮の三方に蔓延る黒い靄は、決して強力なものではない。だからこそ、ここで生活する者たちは気づかないのだろう。
せいぜいが、何となく体が重だるいとか、肩が凝って辛いとか、気分が晴れないとか、普通に暮らしていれば誰しも感じたことがあるような、深く気にしない程度の不調を与える程度のもの。
黒い靄──穢れや呪力、闇の力などと称され、神聖力の対極にある悪しきもののように言われるが、元を糺せば怒りや哀しみ、憎しみなどの人の負の感情から生じるもので、人間が存在する以上は決して無くならない。
だが、基本的に人は忘れる。いつまでも同じ感情に囚われることは稀で、生活の上での喜びや楽しみ、希望や慈愛など正の感情から生じる光で払拭され、極端に負の力に傾くことはない。
この場に蔓延っているものも、一つ一つは吹けば飛ぶくらいの弱々しいものだった。だが、明らかに量がおかしい。
本来なら人間が持つ自浄力で消滅する程度のものが、消えずに残って積み上がっているように見える。
何より問題なのは、人が自浄できない分を補足し払拭するはずの力が、この地には足りていないと言うことだった。
帝国内で最大の聖樹を擁し、聖地に次いで神聖な力が満ちているはずの皇宮だと言うのに。
「猊下……セシルとアリスを呼んで下さいませ。この量が三か所もあるのでは、ブランだけでは手に余るでしょうから……」
「うん……確かに僕一人じゃ、三か所全部の分は食べきれないよ」
そう苦々しい顔で頷くブランを見やって、教皇はすぐさま聖杖を二度地面に打ち付ける。白い大きな繭が現れて霧散した後に、二頭の金色の聖獣が現れた。
「お呼びでございますか?」
教皇の前で畏まる二頭の獣が言葉を発するのを、本宮の者たちだけが驚いて見ている。
出迎えに集まっていた者たちは、その対象である教皇を含めた三人が自分たちを完全に無視し、先ほどから奇妙な様子を見せている上、立て続けに不可思議な獣を呼び出したことに戸惑いを顕わにしていた。
指示を受けてセシリアが皇妃の宮殿、アリステアが塔へと向かい、ブランが再び本宮の最も高い屋根に飛び上がる。
その後で、初老の侍従長が最敬礼をして、おずおずと声をかけてきた。
「教皇猊下、一体何ごとでございましょうか? 恐れながら、先ほどから何をされているのか、私どもには全く……何か不備でもございましたか?」
教皇はロザリアをちらりと見やり、少し考える様子を見せた後で重々しく応えた。
「うむ……陛下をお見舞いさせて頂くにあたり、聖女様にご同行を願ったことは知らせてあったはずじゃが」
「もちろん窺っております」
侍従長はロザリアに恭しく一礼してみせる。
「其方らには分かるまいが、聖女様をお迎えするのに相応しくない穢れが、この内宮の方々に満ちておるのじゃ……」
「なんと……まことでございますか」
僅かに顔を蒼褪めさせた侍従長は強く眉を顰め、背後に控えている者たちは不安そうに周囲を見回している。
「聖獣らを浄めに向かわせたが、何故このような仕儀になっておるのか……」
馬車のすぐ側でレオンに護られながら、ロザリアは本宮をじっと見上げていた。
『ブラン、どう? 何とかなりそう?』
『うーん……さっきから外のを食べてるんだけど、全然減らないんだよね。これ、建物の中から溢れてくるみたいで、食べても食べてもキリがないよ』
『中から? 本宮の?』
ブランとの思念でのやり取りの後、ロザリアは目線を下げて本宮に意識を向けてみた。確かに建物の中に大量の靄が渦巻き、外へと溢れているようだった。
「叔父様、本宮を“神域”で外と隔離できますか?」
「隔離?」
「ええ……本宮を取り巻いている靄をいくら食べても、中から溢れてくるのでキリがないとブランが」
「分かった」
短く応えるや、レオンはロザリアから離れ、抜き放った剣を石畳に突き立てた。その身から迸った白銀の光が本宮を押し包んでいく。
キーンと言う金属音に似た音が響いて、本宮が結界により隔離されたのが分かる。
『ブラン、これでもう中からは出ないと思うから、外に出ている分を片付けてしまって』
『うん、分かった。中に入るの? 気を付けて! レオンから離れないようにね。外のを食べ終わったら、僕も行くから!』
『ええ』
ロザリアは教皇に向き直り、他の聖獣たちにも建物を隔離させる指示を出すように請うた。その上で、三人連れ立って本宮内へと足を踏み入れる。
聖騎士たちは当然のように従ってきたが、呪力の察知ができない以上、役に立つかどうかは怪しい。
内部は予想以上に靄状のものが蔓延していた。弱く色も薄い靄が、煙のように空間に充満しているように見える。
神聖力の強い三人には、見えて存在を感じる以外に影響は全くないが、付き従ってきた聖騎士たちはさすがに渋い顔となっていた。
「なるほど……何やら重苦しいような、息苦しいような……」
「……聖地や公爵邸の清浄な空気とは全く違いますな」
「確かに、これは……最大の聖樹がある地としてはおかしいかと」
おそらくは徐々に徐々に穢れが深まっていったために、本宮に住まう者たちは気づかなかったのだろう。
頑健なものならば、今のところは多少の不調で済むのだろうが、心身の衰えた者ならば相当に堪えるに違いない。
例えば、今の皇帝のような──




