第二章 聖女の初恋 8
しばらくの間、東屋で取り止めのない話をしていると、精霊が何やらレオンの耳に囁いて離れていった。レオンは精霊が去った方をしばし見遣っていたかと思うと、徐に立ち上がり、ロザリアに手を伸ばした。
「ロゼ、聖樹が呼んでるみたいだ……。行こう」
「聖樹……?」
不思議に思って尋ね返しながら、ロザリアは差し出された手を取り立ち上がる。
「この森の主みたいなものだ」
「主……?」
「ああ、森の中心に生えてる巨木だよ」
この公爵領に来てから一ヶ月──今まで一度も、この東屋より奥へは行ったことがない。レオンに手を引かれて、ロザリアは森の奥へと初めて足を踏み入れた。
細い道だったが、途中までは石畳で舗装されていた。それが途絶え、踏み固められただけの土の道を歩いていくと、不意に立ち止まったレオンがロザリアを抱き上げた。
「きゃっ……!」
「ここからは少し、道が険しくなるからね。ロゼには無理だろうから」
にっと笑いながらレオンは、幼いとはいえ七歳にもなる少女を抱えているとは思えないほど、危なげなく入り組んだ道を進んでいく。
大きな岩が張り出していたり、大木の根が道を横切っていたり、斜面を登ったり降ったり。
途中で目に見えない壁のようなものを感じたが、レオンは全く意に介した様子もなく足を進める。
それを突き抜けると、やがて──ぽっかりと開けた広い空間に出た。
「わぁ……!」
思わずロザリアの口から感嘆の声が漏れた。そこは異質な空間だった。森の中であって、森の中ではない。空気が全く違う。
時間が止まっているかのように錯覚するほど、静謐な空間だった。
波一つ立っていない水鏡のような小さな湖の中に、白い小さな島のような平らな地があり、そこに驚くほど巨大な樹が悠然と聳え立っていた。
それを見上げてレオンが言う、
「聖樹だ。ブランシュ家が代々護ってる。ここに入れるのは、私の他は父上と兄上だけだった。多分、ロゼも入れると思ったんだ。さっき……結界を抜けたのは、気づいたかい?」
あの目に見えない壁のようなもののことだろうと、ロザリアは頷く。じっと聖樹とレオンが言った大樹を見上げていると、不意に呼ばれた気がした。
「呼んでる……」
「ああ、やっぱりロゼには分かるんだな」
小さく頷いたレオンは、ロザリアを抱えたまま湖へと足を進めていく。どうするつもりかと思っていると、進む先に聖樹への真っ直ぐな白い道が現れた。
それを渡りきってから、ロザリアはそっと白い地に下ろされた。
レオンから離れて、ロザリアは引き寄せられるように聖樹へと向かう。辿り着いた木肌に、そっと左手を添えた──
手に温かいものが伝わってくる。清らかな光の波動のように感じた。光の波動は、意外と雄弁だった。
悲しみ、怒り、不快感、焦燥、恐怖。そして安心、喜び、快さ、様々な感情が伝わってくる。
「……そう、穢れてしまったのね」
眉を寄せて、額をそっと樹に押し当てる。
「……ごめんなさい。わたくしの力が足りなくて……」
聖樹が発する神聖な気の中に、少しだけ黒い穢れのようなものが混じっているのが感じられた。
「……これで、良い?」
あの時、闇に呑み込まれる寸前のレオンにありったけの神聖力を叩きつけた。だが、そこまでは必要ないと思えた。
だから、優しく押し流すように、洗い流すように、穢れに向けて神聖力を流し込んでいく。
自分では意識していなかったが、ロザリアの幼い身体は金色に淡く光り出し、更に身の内から白銀の光が迸る。
緩やかにうねる白銀の髪はふわりと浮き上がっていた。
しばらくの間そうしていると、いつの間にか異物の存在が感じられなくなった。
「……もう、大丈夫ね?」
額を離して微笑むと、身体を押し包んでいた光が収束を始め、やがてその小さな背中に翼のような残滓を見せた後で消え去った。
そんな聖樹と幼い少女とのやり取りを黙って見ていたレオンは、満足げに笑って、元来た道を振り返る。
すると、外で待ち構えていた精霊たちが一斉に、この空間へと流れ込んできた。
精霊たちが嬉しげに乱舞する中、聖樹が金色に光り出した。その波動のようなものが、聖樹を中心として外へ外へと広がっていく。
やがて、森全体が呼応したかと思うと、更に波動は森の外へと伝わっていった。
目を閉じて、天を仰ぐようにずっと上を向いていたレオンが、ややしばらくしてから細く長く息を吐き出す。それから、ゆっくりと辺りを見回して自嘲気味に言った。
「私のせいだ……。もう少しで私は、この森を死なせてしまうところだった。聖樹も、精霊たちも、森に生きる獣や木々、あらゆるものたちを……」
聖樹から手を離し、振り返ったロザリアは、自分を責めているレオンの傍へと急いで戻った。何と声をかけようかと悩んでいると、不意にレオンがロザリアの前に跪いた。
そして──恭しく推し頂くようにロザリアの手を取るや、痛いほどに真剣な目を向けてきた。
「ロゼ、私はここに誓う。これから先、私の命は君のために……私は君を護るためにだけ生きる。もう二度と、あんな闇に呑まれたりはしない。私には、君と言う光があるんだから」
そう誓いの言葉を真摯に述べ、ロザリアの手に口付ける。そんな、騎士の忠誠を捧げる儀式のような誓いを、聖樹と精霊たちが静かに見届けていた。




