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第二章 聖女の初恋 3

「ひっ!!」


 不意に生臭い異臭を感じて振り返ったロザリアは、すぐ傍まで迫ってきていた不気味な獣の姿にぎょっとした。


 犬に似ているが、明らかに普通の獣ではない。頭部は犬のようだが爛々と光る赤い目は四つあり、何より二足歩行で大人の男性の倍くらいの背がある。

 大きく裂けた口からは鋭い牙が覗いており、ダラダラと地面に垂れた涎は草や土を焼いて悪臭を放っていた。


 恐怖のあまり腰が抜けかけ、その場にへたり込んでしまいそうだった。ロザリアは、声を発することもできずにがくがくと震えながら、今にも振り下ろされんとする長く赤黒い爪を茫然と見ているしかなかった。


 そうして振り下ろされた鋭い爪によって引き裂かれる寸前、いきなりロザリアの身体は後方へと押しやられた。

 自分と獣の間を遮るように、誰かが背を向けて立っている。その抜き放った剣を握る右腕は、袖が大きく裂けて血を滴らせていた。


「あ……」


 その流れる赤い血を見て、ようやくロザリアは我に返った。先ほど東屋にいた少年が、自分を庇って獣と対峙している。


『どうしよう……。どうしたら……このままじゃ……』


 どう考えても、少年の手に負える相手とは思えない。今度は腕だけではなく、自分の代わりに、その身までもが引き裂かれる未来しか見えなかった。


「逃げ……て……」


 それだけを必死に絞り出すように言うと、少年は微かに笑った。


「大丈夫だ」


 そう安心させるように言った途端、少年の身体から強い光が迸った。


『神聖力……?』


 その光を見て獣が僅かに後ずさる。次の瞬間、少年が手にした剣を一閃――長い爪のついた獣の腕が途中から切断され、血飛沫を上げながらあらぬ方向へと飛んでいく。


「お前だろう? 私の友達の仲間を食べたのは」


 どこか怯えているように見える獣に、底冷えのするような低い声をかけ少年が詰め寄る。

 更に後ずさった獣に対し二閃目が飛んだと思うや、巨体は一気に霧散し、ごろりと大きな石が転がり落ちた。


『……もしかして魔石? あれが魔獣……?』


 赤黒く光る石を凝視しながら、知識として知っていただけの存在に目を瞠る。剣を鞘に戻した少年が徐に振り返った。

 自分とほぼ同じ色合いの白銀の髪と、青紫の瞳をした十代半ばくらいの少年は、驚くほど端正な顔をしていた。


 緩やかにうねるロザリアの長い髪と違い、真っ直ぐでサラサラとした短めの髪が、優しい風に靡いてきらきらと輝いている。

 きりっとした眉と意志の強そうな切れ長の目が、整った美しい顔を精悍に見せていた。


「怪我はないか? こんな所に勝手に入っちゃ駄目じゃないか。この森は、力のない者には危険なんだ」


 そう言って少年は屈んで右手を差し伸べようとして、魔獣に裂かれた腕に痛みが走ったらしく、小さく呻いて整った顔を歪めた。


「あっ、怪我!! 手当てをしないと!」


 ロザリアは慌てて腰が抜けかけていたことも忘れて身を乗り出し、少年の腕を掴んで引いた。

 痛そうに更に顔を歪めながらも身を離そうとするのを許さず、小さな手を傷口に押し当てる。


「君、何を……!」


 困惑する少年の顔も目に入らず、ロザリアは必死に神に祈った。


『神様、どうかこの傷が癒えますように……!』


 自分の左肩近くの背には聖印があり、神聖力を身に宿していることは父から教えられていたが、実際に使うのは初めてである。

 無意識のうちに祈っていたものの、自分に治癒の力があることさえ知らなかった。


 ロザリアの身体が金色に輝き、押し当てた小さな手の下の傷がみるみる塞がっていく。そんな光景を、少年は呆気に取られた様子で見つめていた。


「驚いたな……。君は、ロザリア?」


 完全に傷が癒えた後、大きく溜め息を吐いた少年は、自分の腕を凝視したまま動かない幼い少女に尋ねる。

 名を呼ばれて顔を上げ、間近で見つめてくる少年を見た途端、ロザリアの意識は霧に包まれるように途絶え、体から力が抜けていった。




 森で倒れたロザリアが目を覚ましたのは、自室として当てがわれたばかりの部屋の寝台の上だった。

 見慣れない天蓋を不思議な思いで見上げ、公爵夫妻の呼び掛けに目を横に向けて、ようやく自分が多勢に囲まれていることに気づいて驚いた。


「お父様、お母様……? わたくし……?」

「レオンがお前を連れ帰ってくれたんだ」

「レオン……?」


 知らない名に小首を傾げて問うと、父が壁際に立っている少年を目で示す。その姿を認めて、ようやく現状が理解できた。


「あ……わたくし、森で……」

「ああ、そうだ。全く! お前はなんで、一人で森などにいたのだ?」


 今までに見たこともないような厳しい顔で問い詰められ、ロザリアは項垂れてぼそぼそと魔獣に襲われるまでの経緯を話した。

 散々父に説教された後で、ようやく少年を紹介してもらえた。


「彼はレオン、私の弟だ」

「弟……なのですか? お父様の?」

「ああ、かなり歳が離れているがな。今年で十五歳になる。先代の意向でずっとこちらで育ったが、帝国貴族学院に通うため、これから帝都の館で一緒に暮らすことになる。それもあって、領地の視察を兼ねてレオンを迎えがてら避暑に来たのだ」

「レオン叔父様……これから家族になるのですね、嬉しいです。ロザリアと申します、よろしくお願い致します」


 一人娘で寂しい思いをしていたロザリアは顔を輝かせたが、いきなり叔父様と呼ばれ、レオンは複雑そうに眉を寄せた。




 初めての旅行、初めての公爵領での避暑、初めて出来た年若い叔父との親しい交流。ひと月ほどの間、ロザリアは数え切れないほどの初めての体験をし、かつてないほど楽しい日々を過ごした。


 公爵領を家族で訪れた目的は、これから学院に入学するレオンを迎えがてらの避暑の他に、当主の座を引き継いで隠居したのち、領地に引き篭もっていた祖父が体調を崩しがちになったことに対する見舞いもあった。


 偶に帝都に来た時に先代公爵である祖父は、たった一人の孫娘に様々なことを面白おかしく話してくれた。

 若い頃の冒険譚や失敗談、今は亡き祖母との出会いや共に過ごした大切な思い出、帝都の館の秘密や領地のあれこれ――だが、何故かレオンのことだけは一度も聞いたことが無かった。


 先代とレオンは、親子と言うよりは祖父と孫のような年周りだが、どちらかと言うと師と弟子のようでもあった。

 幼いながらもロザリアには、レオンが祖父に向ける目に込められたものが肉親への愛情というよりは、尊敬とか敬愛のようなものに感じられた。


 実際、祖父は学究肌で物語に出てくる老師や魔法使いのような、高い識見と深い叡智を感じさせる老人だった。

 そんな祖父が年若い息子を距離を取って注意深く見守り、それでいて細やかに導く様子を不思議に感じたが、それがこの二人の関係なのだと自然に受け入れてもいた。

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