20
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夜の帳が下り、窓の向こうに三日月が浮かぶ。
夜会の準備を終えた今、後は殿下の迎えを待つだけだ。
約束の時間が近づき、玄関ホールで待っているとお父様がお母様と連れ立ってやってきた。
「レフィーリア」
「はい、お父様」
「今夜は殿下がエスコートしてくださるそうだな。殿下はとても優しい方だ。お前に無理強いすることはないと思うが、婚約発表の場になるかもしれないぞ。本当にいいのか?」
今ならまだ引き返せる、と私を案じるお父様に凛とした笑みを向ける。
「覚悟の上ですわ」
「そうか。
先日殿下に呼び止められてな。マリアの台本通り、殿下相手にも名演技を披露したぞ。お前にも見せたかったくらいだ」
わざとらしくおどけて見せた後、お父様は真面目な顔で真っ直ぐと私を見据える。
「お前さえ、了承すれば婚約は認めると伝えてある。
……父様の頑張りがお前の力になることを祈っている」
そっと私の両手を握り、自分の額へ近づける。
神への祈りのように。静謐な空気を纏わせて。
「ありがとうございます。お父様。
ですが、この世の終わりじゃあるまいし、大袈裟ですわよ。全部失敗したら平民として楽しく生きてけばいいのですわ」
「れ、レフィーリア、最後の大詰めを前に失敗とか言わないでくれ」
「まあまあ、縁起担ぎですの? 相変わらず小心者ですわね」
「れ、レフィーリア!」
縋るような目で叫ぶお父様の背をお母様が宥めるように優しく撫でる。
「あなた、落ち着いてくださいませ。レフィーリアの言う通りよ。むしろこのくらいの度胸がないと王子妃なんて務まらないわ」
「お母様のおっしゃる通りですわ」
「でもレフィーリア……あなたの結婚なのよ。メリットだけで決めて後悔しない?」
「ああ、そうだ。ユーリディアの言う通りだ。お前の気持ちはどうなのだ」
「私は……」
「旦那様。ご安心を。万事恙無く」
いい淀む私が返答するよりも早くマリアが答える。
何を安心して、何が万事恙無いのかはわからないがマリアが言うならそうなのだろう。
「そうか! そうなのか⁉︎ それはめでたい!」
「まあっ、レフィーリアが……ああ、ライオネル殿下感謝いたします……」
マリアの言葉で二人は察したようで手を取り合って涙ぐむ。
「それならもう心配要らないな。レフィーリア、あとは好きにするといい。応援している」
なんとも清々しい顔で背を押される。
先ほどまでの悲壮な覚悟を背負ったような顔はすっかり消え失せている。
執事が王宮の馬車が到着したことを告げると、お父様は嬉しそうに私の背を押す。
「ああ、レフィーリア。殿下がいらっしゃったぞ。行ってくるといい。会場で会おう」
「はい、最高の舞台をお見せいたしますわ」
振り返りカーテシーをすると、満面の笑みを浮かべた。
*****
カツン、とヒールの音が鳴る。
この扉を潜れば私の運命は確定するだろう。
殿下の右腕に添えた手に微かに力を込める。
お父様にはああ言ったが、やはり総仕上げは多少は緊張する。
一つ深呼吸して表情作ると殿下を見上げた。
私を見つめる穏やかなその笑顔に釣られたように表情を和らげる。
「行こうか」
「ええ」
大丈夫だわ。今夜を乗り越えましょう。
入場者を告げる声に合わせて殿下のエスコートで足を進めていく。
会場に入ると周りの視線が痛いくらいに突き刺さった。
「シェルゼン侯爵令嬢?」
「ライオネル王子とレフィーリア様だわ。なんて素敵なのかしら。お似合いだわ」
「なぜ殿下と? まさかーー」
「レフィーリア嬢、まだ誰のものにもならないと思っていたのに」
「ライオネル殿下はやはりシェルゼン侯の令嬢と婚約するのか」
口々に囁き合う声は悲喜交々のようだ。
「ははっ、今日の話題は私たちで持ちきりのようだ」
「そのようですわね」
殿下は嬉しそうに周囲の声に耳を傾けつつ、一部の声に仄暗い光を宿して嗤う。
「……やはり早めに外堀を埋めて正解だったか」
私たちの後に続いて第二王子殿下と王太子殿下が婚約者と共に、最後に両陛下が入場した。
陛下はすれ違いざまに私に一瞬含みを持たせた笑みを向ける。
その目は「覚悟は決まったか」と問いかけているようでいて、「逃す気はない」と獲物を捉えたような鋭い眼差しだった。
陛下の挨拶が終わると程なくして王族の皆様のダンスが始まった。
つまり殿下と私もダンスをしたわけだけれど、心配したような大きな失敗もなく、無難に終わり拍子抜けした。
終わった時に「ほら、踏まなかっただろう?」と殿下が得意げに胸を反らした。
殿下の挨拶回りでは、会話の最中に私に意味ありげな視線を向けてくる不躾な相手から殿下が庇ってくれたり、婚約したのかと仄めかしてくる相手をさらりと流して終わらせる。
さあ、後はお待ちかねのご飯タイムだわ。
殿下の腕をぐいぐい引いて足早に移動する。
急がなければ、人気の料理がなくなってしまうわ!
並んだ料理にざっと目を通して、近くに立つシェフに取り分けを頼む。
鴨のロースト、ローストビーフ、子羊のカツレツ、鮭のジェノバソースがけ。
目当てのお料理を手にしてご機嫌なまま壁際に寄ると、口の中に料理をそっと運ぶ。
「んんっ、これは美味しいですわ」
「それはよかった」
殿下は自分が食べたわけでも無いのに子供のように顔を綻ばせている。
殿下も料理を取れば良いのに、「先ほど少し口にした」といって何も料理をとらなかったのだ。
少し悩んだ末に、鴨のローストをフォークに刺して殿下の口元に運ぶ。
「食べます?」
「〜〜〜〜っ! 食べるに決まっている!」
殿下がだらしなくにやけた顔で口を開く。
そこにフォークを差し込む。
「幸せすぎて味がしない……」
うっすらと涙目の殿下に小さく笑う。
「では、もう一口差し上げますわ」
今度は子羊のカツレツを口元に近づける。
「うぅ、今日が終わらないでほしい……」
「何を仰ってるんですの。さあ、これを食べたら次はデザートですわ! 全て制覇しますので手伝ってくださいませ」
「貴女の望むままに」
蕩けるような瞳で見つめられ、少しの間目が逸らせなかった。
デザートの並ぶスペースに移動すると、殿下が令嬢方に取り囲まれた。
その隙にいくつかデザートをお皿に乗せてもらう。
「殿下ぁ、あちらでケーキを食べながらお話ししませんかぁ?」
「すまないが今日はレフィーリア嬢のそばにいたい」
このラズベリームース最高ね。
「ねぇ、殿下。こちらのワインとても美味しかったのですがふたりっきりで一緒に頂きませんか?」
「今日の私のパートナーはレフィーリア嬢だ。彼女と二人で頂こう」
こちらのスフレチーズのレシピ教えてもらえないかしら。侯爵家でも作ってほしいわ。
「ライオネル殿下、少しお時間いただけませんか」
「申し訳ないが、今日の私の時間は全てレフィーリア嬢のためにある。」
女性からのアプローチに殿下はにこやかに躊躇なくお断りしていく。
クラシックショコラを飲み込んだ後に殿下に声をかける。
「殿下、少しくらいお話ししてきていただいても構いませんわよ? 私ケーキ食べてますもの」
「私がどんな思いで貴女のエスコート役を獲得したと思っているんだ。ケーキを食べる愛らしいレフィーリア嬢に他の男が寄りつかないわけがないだろう。貴女の隣は誰にも譲る気はない」
殿下を宥めようとポンポンと腕を叩くが勢いは止まらず、私たちを取り囲む女性達に厳しい目を向ける。
「君たちもだ。先ほどから伝えている通り私はレフィーリア嬢のそばを離れるつもりは毛頭ない。わかったのなら、レフィーリア嬢と二人にしてくれないか」
普段穏やかな殿下の剣幕に令嬢方は怯えて萎縮している。
「殿下を慕ってくださってるご令嬢方にそんな言い方をしてはいけませんわ」
「そ、そうだな。すまない。
だが、私の言いたいことは理解したな?」
私に対する甘々な態度と自分達に対する態度の差に周囲の令嬢方はわなわなと身を震わせて殿下にカーテシーをすると、即座に踵を返した。
「少し風に当たろう。頭を冷やしたい」
「いってらっしゃいませ」
「レフィーリア嬢も一緒に来てくれるな?」
「でしたら、少々お待ちになって。お化粧を直して参ります。それから、あと一つ食べたいケーキがあるのでそれも取って来たいですわ」
「一緒に行こう。王家だけが使う控え室がある。そちらに案内しよう」
「嫌ですわ。王家でも無いのに使えませんわ。一人で大丈夫ですので待ってらして」
「寄り道せず、声をかけられても相手を無視して帰ってきてくれ」
「ふふっ、がんばりますわ」
と、約束したのだけれどーー
「貴女、婚約者候補だからって調子に乗ってませんこと?」
「完璧だとか言われてますけど、その程度でよく言えたものですわね」
化粧室からの帰りに、先ほど殿下を取り囲んでいた令嬢たちに道を塞がれていた。
「まあっ。これが所謂、女の陰湿な虐めね! 感激だわ! まさかこの目で見れるなんてっ」
「聞いてらっしゃるの⁉︎」
「ええ、ええ。勿論ですわ。それでなんですの?」
「聞いてないんじゃないの!」
「あ、要点だけ話してくださらない? まだ食べていないケーキがあるから早く戻りたいのだけど」
「ケーキですって⁉︎ 馬鹿にしてますのっ⁉︎」
カッとなり私に手を振り上げる令嬢を冷静に見つめて口元に手を遣る。
「暴力はいけませんわ。そんなことしたらーー」
「うちのお嬢様に何をしていらっしゃるのでしょうか」
「痛いっ……!」
急に後ろに現れたマリアに腕を捻りあげられ、令嬢が痛みに呻く。
「マリア、離して差し上げて」
「はい」
腕を押さえてこちらを睨む令嬢に哀れむような目を向ける。
「侍女がついてないわけないでしょう?」
「じ、侍女? でも、ドレス着てるじゃない。それに会場に侍女同伴なんて……」
「マリアも貴族だもの。これでも子爵家の令嬢よ。殆ど社交してないから侍女としてしか知らない方も多いでしょうけど」
「お嬢様、そんなことよりも最後に見た時点でお目当てのケーキが残り3個でございました。急げばまだ間に合うかと」
「それはいけないわ! では今は急いでますので、何かご用があれば侯爵家に手紙でも送ってくださいな。それではみなさんご機嫌よう」
くるりと背を向けるとマリアがその後に続く。
「それで、あの方達何を言いたかったのかしら?」
「牽制でしょう」
「牽制?」
「お嬢様が王子殿下と婚約しないようにです。さっきのが最後のチャンスでしたので何の計画もなく引き留めたのでしょう」
「そんなことして何になるのかしらね?」
「令嬢とはそういうものですので」
「そうね、『ラピス』でも王女が虐められるんだもの。侯爵令嬢なら当然よね。つまりあれが嫉妬なのね」
「左様でございます」
「『内から燃えるようなドス黒い渦が身を焼き尽くすように』だったかしら。見舞いの品でも贈って差し上げた方がいいかしら」
「不要です。むしろ逆効果かと」
「あら、そうなの?」
小首を傾げてマリアを振り返ると「瑣末なことはどうでもいいのです。王子殿下がお待ちです。前を向いてさっさと歩いてくださいませ」と冷たく言われ、唇を尖らせた。




