8 狂化
「ナケア、あいつを治してやってくれ」
「は~い!」
ナケアは倒れた冒険者の男に駆け寄って、その体に触れる。するとナケアの体が輝きだし、その光は男の体まで包み込んだ。
【癒しの光】
光に包まれていた男の体から、見る見るうちに消えて行く。やがて光が収まると、傷だらけだった男の体からは完全に傷が癒えていた。
「なに……今のは、魔法なの……? でも、詠唱が無かった筈……?」
ナタリアがナケアの魔法を見て唖然としている。今のはただの初級魔法なので、特に詠唱は必要ない。男の傷は数こそ多かったが、深い傷は殆どなかったようなので初級魔法でも完治させることが出来たのだ。
「ううっ……ここは!?」
「おい、大丈夫か?」
傷の癒えた男は、目が覚めると同時に跳ねる様に飛び起きた。
「森に災害級の魔物が出たんだ! 直ぐに王都の騎士団に要請して、討伐隊を呼ばないと!」
「少し落ち着け、水だ、飲め。落ち着いてから細かく説明しろ」
男はグロウの差し出した水を飲むと、少し冷静になったのか、男が見てきたことを事細かく話し出した。
「俺たちは、いつもの様にパーティーで依頼を受けて森に行ったんだ。依頼も半分くらい終わって、俺たちは少し早めに昼食を食べていたら、突然奴が現れた……」
「奴とは?」
「かなり大きな、猪みたいな魔物だった。でも普通の魔物じゃなくて、体毛が黒色に染まっていて」
その時、ギルドの外からいくつもの悲鳴が上がった――
「何だっ!?」
その後に少し遅れて、建物の倒壊音が響いてくる。グロウは直ぐに探知魔法を発動させると、街の様子を調べ始めた。
「奴がっ! 奴が来たんだっ! 早く騎士団に連絡を‼」
先程の男が酷く怯えて、ギルドの受付に駆け寄って行く。そしてグロウの近くにはエリカとナケアが集まっていた。
「グロウさん、これは一体!?」
「『狂化』した魔物が街の出入り口付近に出現した様だな」
「『狂化』ですか?」
魔物は魔素と呼ばれる、魔物の元となる物質から発生していると言われている。そして魔物は、魔素を取り込めば取り込むほど強力な力を持った魔物に生まれるのだ。だが稀に、魔素を取り込み過ぎた魔物が狂暴化し、暴れまわる場合があった。それが『狂化』だ。
本来、ダンジョンで発生した魔物は縄張り意識が強く、ダンジョンから出てくることは無いとされている。だが、『狂化』した魔物はダンジョンから街に出てくる事件も過去に度々起きていた。
今回も恐らくそのケースだろう。『狂化』した魔物はその性質上、本来の魔物とは比べ物にならない程強力になる。探知した限り、この『狂化』した魔物に勝てる冒険者はこの街にいない。
「ランクはCって所か……このまま放っておけば、この街は壊滅するな」
グロウが何気なく言った言葉を聞き、エリカの顔から血の気が引いて行った。それはそうだろう。この街はエリカにとって、特別な場所だというのはここにいた全員が良く知っている。
「私、行かないと!」
「待て、エリカが行っても奴は倒せない」
「それでも! 私はこの街を見捨てる事なんて出来ません!」
そう言うとエリカはグロウの静止の声を振り切り、ギルドの外へ出て行ってしまった。『狂化』した魔物は今のエリカでは絶対に倒すことは出来ない。このままではエリカも、この街と共に亡くなってしまうだろう。
「お兄ちゃん! お姉ちゃんを追いかけよう!」
「当然だ!」
そしてグロウとナケアもエリカを追って、悲鳴と倒壊音の聞こえる方向へ走って行った。
◇
街の出入り口付近、グロウが魔物のいる場所を探知してその場所に向かうと、そこには何人かの冒険者と戦っている魔物の姿が見えた。
四足歩行で見た目は猪に近いが、その体毛は魔素の影響なのか黒く変色しており、理性の宿っていない瞳は怪しい赤色の光を放っている。
冒険者と魔物は睨み合い、膠着状態になっていた。だがその膠着状態も長くは続かない。先に動いたのは冒険者の方だった。
『赤き魔力よ、我が手に集い、炎となりて焼き払え! 火炎球!』
『蠢く風よ、害意持つ者の周りを舞い、刃となりて切り刻め! 刃の旋風』
『暗く怒れる雷よ、我が意思に従い敵を穿て! 黒色の落雷』
全く聞き覚えの無い掛け声と共に、魔術師と思われる冒険者達から様々な魔法が放たれる。放たれた魔法は真っ直ぐ、とは言えないが一応軌道は魔物の方向へ飛んで行った。
魔物の目の前まで魔法が飛んで行く。だが魔物はその魔法を避けようともせず、鼻から大きく息を吹いただけで全ての魔法を霧散させてしまった。
「なっ!? 中級の魔法を一斉に放っても、傷一つ付かないだと……!?」
魔法を放った冒険者の一人が、信じられないといった様子で魔物を見つめる。そして魔物に睨め付けられ、腰を抜かしてその場に倒れこんでしまった。
だがその光景を見ていたグロウとナケアは、そろって首を傾げて冒険者達を見ている。冒険者たちは絶望に打ちひしがれる者、腰を抜かして起き上がれない者、震えながらも剣を握り、腰の抜けた仲間の前に立つ者などそれぞれだったが、総じて嘘や冗談では無い事は分かった。
それ故に、グロウ達は益々深く首を傾げる。
「お兄ちゃん、今の魔法が中級の魔法なの? ボクが初めて魔法を使った時でも、もっと上手に魔力を込められたよ?」
その問いにグロウは答えることが出来ず、只々首を傾げていた。そう言うのも、冒険者たちの放った魔法はグロウ達の知る魔法の何よりも威力が弱かった為、そもそもあれが魔法なのか判断できなかったからだ。
確かに、集まっていた魔力自体はグロウの知っている中級魔法くらいあった。だがその制御が全く出来ていなかった為、集まった魔力の殆どを魔法に変換することが出来ず、子供の遊びでももう少しマシだと思える程度の威力にしかなっていない。
子供の遊びを魔法と言って良いのか、そもそもどうしてこの程度の魔法を防がれただけで腰を抜かしているのか、グロウの疑問は尽きる事無く、ナケアと一緒に首を傾げ続けた。
「あの魔物普通じゃないぞ! にっ、逃げろぉぉーー‼」
一人の冒険者が逃げたのをきっかけに、次々と集まっていた冒険者が逃げて行く。その行動は最もとってはいけない行動だという事くらい、殆どの冒険者なら知っていそうなものだが、パニックに陥った冒険者たちがそれに気づいている様子は無い。
魔物は基本的に、多くの動物と同じような習性がある。夜行性の魔物もいるし、昼行性の魔物もいる。基本的には雑食だが、魔物の中には肉を食わない穏やかな気性の魔物だっていた。
だが気性の荒い魔物の方が圧倒的に多く、その魔物たちはある共通した習性を持っている。それは、弱そうな者から襲うと言うもの。
背中を見せて逃げ惑う人々など、魔物にとっては絶好の標的になってしまうのだ。
魔物はその習性通り、逃げ惑う冒険者の人たちに突進していく。最初の標的にされたのは、最初に腰が抜けてうまく逃げることが出来ず、背中を見せて藻掻いている魔術師の男だった。
「うわぁぁーっ‼ くっ、来るなぁー‼」
男は泣き叫びながら、手に持っていた杖を出鱈目に振り回す。それでも魔物はそんな事お構いなしに、男へ距離を詰めていた。
周囲の冒険者たちは自分の事に精一杯で、男を助けようとしない。その判断だけはある意味正しいだろう。助けに入ったとしても、この街の冒険者達では死体を一つ増やすだけだ。
それでも、そんな男と魔物の前に一人の少女が剣を構えて立ち塞がった。エリカだ。
「これ以上、この街の皆を傷つける事は許しません!」
その背中はあまりに頼りなく、腰は引けて剣を持つ腕はガタガタと震えている。ただその場から逃げ出そうとはせず、視線だけは鋭く魔物に向けられていた。
魔物はエリカの出現を意に介さずに、エリカ達に向けて突進していく。エリカはその突進を剣で受け止めようとしたが、勢いを殺し切ることは出来ずに大きく後方へ吹き飛ばされてしまった。
エリカは後方にあった建物にぶつかり、衝撃で胃の中の空気を口から全て吐き出す。背中に感じる焼けつく様な痛みに顔を歪め、その場で盛大にむせ返るも、エリカは剣を杖代わりにして立ち上がり、魔物を睨み続けていた。
魔物はそんなエリカを完全に無視して、先に腰を抜かしている魔術師の男に再度突進する。そして魔物が男の目の前に来たところで、突然目の前に現れた大剣に衝突して辺りに甲高い金属音が響き渡った。
「全く、誰も放っておくとは言っていないだろ?」
「お姉ちゃん大丈夫?」
顔を歪めるエリカの顔を、ナケアが心配そうに覗き込む。そしてナケアがエリカの体に触れると、エリカの怪我を全て治療した。
「どう、して……お二人がここに……?」
「追ってきたからに決まっているだろ? 途中で何度か道を間違えて大変だったぞ……」
「人間の体って動き辛くて大変だった~!」
探知魔法で分かるのは魔物や魔力を持っている者の場所だけで、地形まで分かる訳では無い。普段は空を飛んで行く二人にとって、街の道は少し複雑だった様だ。因みにグロウは元々方向音痴だった。
「そうでは無くて、お二人にはこの街がどうなろうと関係無いですよね?」
「流石の俺でも、知り合いの大切な街が壊滅しそうになっていたら助けるぞ……俺たちを何だと思っているんだ……?」
「お兄ちゃんは強いんだから、こういうのは全部任せちゃえば良いんだよ! お姉ちゃんの大切な街ならボク達にとっても大切なんだから!」
エリカは二人を見つめてまだ何か言おうとしたが、攻撃を邪魔された魔物の咆哮によってその言葉は遮られた。
「取り合えずあいつをどうにかするか」
「気を付けてくださいグロウさん! あの魔物はとっても強いです!」
人間の姿だがドラゴンであるグロウの方が圧倒的に強い魔物だという事を、エリカはすっかり忘れていた。グロウは体感では数十年ぶりに心配された事に懐かしさを感じつつも、悠然と魔物の前に歩み出る。
そして次の瞬間、グロウは地面を勢いよく蹴って跳躍すると、エリカの目では見えない速度にまで加速して地面から大剣を引き抜き、そのまま大剣で魔物を斬りつけた。
「えっ、消えた……?」
エリカは何が起きたのか分からずに、悠然と歩いたと思えば次の瞬間には消えていたグロウの姿を探す。その頃には斬りつけられていた魔物は断末魔を上げる事すらできず、縦に真っ二つとなって絶命した。