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大西洋のタマ

作者: ねずみ

 船長は船の縁に腰掛けて、水平線の向こうにじっと目を凝らしていた。海は輝き、太陽は赤々と燃えていた。

 私が太平洋の島々を回り始めてから、もう十年が過ぎようとしていた。私にはもう、彼女が見つかるとは思えなかった。私ももう若くない。これで最後と決めていた。だが、一旦そう決めると、不安が湧き上がってくるのだったーこの旅を終えたら、私に何が残るだろう?

 暑さに耐えきれなくなって、日焼け止めにつけた木彫りのお面を外そうと、紐に手をのばした時だった。船長が「マスター」と私を呼び、北北西を指差した。海の果てにぽつねんと浮かぶその島を見た時、ひどい胸騒ぎに襲われた。長らく息を潜めていた第六感が、突然目を覚ましたような感じだった。船長も同じ心持ちだったのだろうか、一言も言わずに、粛然とした面持ちで、無言で舵をとっていた。私たちの船は、吸い寄せられるようにゆっくりと進んでいった。


 絶海の孤島だった。切り立った岩が、島を守るように取り囲んでいる。砂浜に船を乗り上げた。私はお面をつけ直し、背中に猟銃を背負うと、勢い良く飛び降りた。ブーツの底からでも、砂の熱さが伝わって来る。火のように赤い甲羅を持った大きなカニが、驚いて逃げ出して行くのが見えた。

 島は不気味に静まり返っていた。深く生い茂ったヤシの木は、何かを隠しているようだ。どこからか、低い声が聞こえてくる。私は身をすくめた。それは風の唸りのようでもあり、獣の雄叫びのようでもあった。すると船長が少し離れたところから、興奮気味に私を呼んだ。「マスター!マスター!」

 海亀を飛び越えて、声の方へ走った。船長は岩礁が始まっているところに立っていた。彼は黙ってそれを指差した。私は岩の間に挟まったその船の残骸の一部を、瞬きせずに見ようとした。目を閉じて開いたら、消えてしまうのではないかと恐れたのだ。だがそれは現実だった。無数のフナムシが這い回り、藤壺が付着したその板に、「リンカーン号」という文字を、消えかかってはいたが、認めることができた。

 私は船長に船の見張りを頼むと、一人ジャングルに分け入った。恐怖心は消え、私の胸は激しい興奮と、強い使命感に満ちていた。私には真実を知る権利がある。一人の妻として、そして一人の嫁として。


  挿絵(By みてみん)



 

 森の中は鬱蒼として、薄暗かった。足元には蛇が這い回り、頭上では極彩色のオウムがしきりに鳴いている。森の終わりに近づいた時、一羽のオウムの声を聞いて、私は思わず耳を疑った。そのオレンジ色のオウムが繰り返していたのは、こんな言葉だったのだ。「イチロー、ユルシテ。ママヲ、ユルシテ」

 私はこれ以上進むのが怖くなったー

 それでも見えない力に呼ばれるようにして、先へ先へと進んで行った。

        *

 森の終わりは草原の始まりだった。緑の芝が太陽の光を心置きなく浴びて、気持ち良さそうな絨毯を広げていた。風がそよいで、塩で硬くなった髪の束を撫でた。

 草原の中央に、円形に集っている焦げ茶色のヒヒたちの背中を遠目に見つけることができた。中央には、彼らより一回りほど大きな猿が、背中を丸めて、こちらに背を向けて座っている。猿の肩には先ほどの鸚鵡が我が物顔で陣取っていた。私は彼らに見つからないよう、身をかがめてそっと近づいていった…すると突然、中央の猿が振り向いた。私はハッとして息を止めた。無表情な顔が私を捉えた。

 それは猿ではなかった。茶色いボロ切れを纏った、一人の老婆であった。そしてその人こそ、私の探し求めていたその人、姑の春であった。間違いない。私はすぐに確信した。ヒヒたちは興奮に吠えながら地面を叩きだした。

 恐怖が私に、空へと一発、発砲させた。ヒヒたちは素早く四方へ散ってゆき、春も逃げ出そうとするそぶりを見せた。だが老いた体は言うことを聞かないらしい。春はもたついた。私は逃すまいとして、「お義母さん、待って、私です、夏子です」と叫び、震える手でお面をゆっくり外して見せた。春の顔に、一瞬、表情が戻ったように見えた。だがそれは、獲物を奪われはしないかと、警戒するような獣のそれだった。


                   *


 あっという間に日が暮れた。私たちはジャングルの中にテントを張り、焚き火を焚いて、ハムを焼いた。春は私たちと少し離れた岩の上に体育座りをして、じっと炎を見つめていた。私は恐ろしくて、花を直視することができなかった、尻まで伸びきった白い髪、落ちくぼんだ瞳、鋭く尖った犬歯、あばらの浮き出した胸、獣の匂い…。ただあの瞳の輝きだけが、かつてと同じにギラついていた。

 

 私は焼いたハムをそっと、彼女の眼の前に差し出した。だが、春は目玉すら動かそうとはしなかった。やがて彼女はおもむろに腰蓑から毒々しい色のキノコを取り出すと、それをむしって食べ始めた。私はあまりの哀れさに胸が詰まるのを感じ、こう切り出した。


「私、あれから10年間、ずっと、太平洋の島という島を、周り続けて、探し続けてきたんですよ。お義母さまと、一郎さんを」

 だが春は反応しなかった。私は身を乗り出して、骨と皮だけになったその腕を掴み、揺さ振った。「私のこと、覚えていますか?」

「…」

「一郎さんは、どこにいるんですか?お義母さまはどうしてそんな…」

「マスター」見かねた船長が口を挟んだ。

「ノーモアメモリー、ノーモア」だが私は諦められなかった。そう、正直に言えば…私が最も求めていたものは、夫である一郎の行方であったのだ。なんとか春の口から、真実を聞き出したかった。

 私は彼女の視界へ躍り出た。随分虚ろな瞳だった。私は幼かった頃の息子にかつてそうしたように、あの日の思い出を語り始めた。


                        *


  あの日ー

  十年前のあの日。

  お義父さまを1年前に亡くされてからというもの、お義母さまは家に引きこもってテレビを見るか猫の世話をするか寝てばかり。近所付き合いも減って、自分の殻に閉じこもっているかのようでした。私と一郎さんはそんなお義母さまを心配していました。

 だからこそあの日、私と一郎さんとは、「豪華客船リンカーン号で巡る太平洋横断の旅」のパンフレットを持って、家から電車で一時間ほど離れた、お義母さまの家を訪ねたのです。

 

 「ほら、近所の山田さんでも誘ってさ、行ってきたらどう」一郎さんはそう言って、青い海と白い客船の写真がたくさん乗った、パンフレットを差し出しました。「お金なら、俺達が出すからさ」

 私はそれまでにもずっと、どこかお義母さまが私に向ける態度の中に、針のような憎しみが混ざっているのを感じていましたが、その日ほど、露骨に冷たい敵意を感じたことはありませんでした。 


 私にはその理由がわかっていました。かつてお義母さまから提案された二世帯住宅を、私が拒否したこと、そしてそれを一郎さんの口から伝えさせたこと…

 私は無意識に一郎さんを、結婚指輪を互いの指にはめた時から、自分のものと考えていたに違いないのです。二世帯住宅なんて。まるで、お義母様と私とで、一郎さんを半分こするみたいなものじゃない。

 そのことがあってから、私はお義母さまの目を直視することができなくなっていたのです。きっと心のどこかで、罪悪感が募っていたのでしょう。


 「ほらね、タマ、こうやってこの方々は、老人に意地悪するんだよ」お義母さまは膝の上の猫を見ながらそう言いました。「きっと、異国の地に厄介払いするつもりだね」

「そう思うんなら、いいよ」一郎さんは声をトゲトゲさせて、パンフレットを私に返そうとしました。彼自身も普段から、どこかでお義母さまを軽んじていたように思います。するとお義母さまは拗ねた少女のように、こう言ったのです。

「山田さんと行ったって、楽しくありませんよ。それにタマの面倒は誰が見るんです」

 私はその時すぐに気がついたのです。お義母さまの心の底の願いに。お義母様は、一郎さんと行きたがっているのだ。私は今こそ自分の罪を払拭できるチャンスと思い、身を乗り出して言いました。

「お義母さま、そんなら一郎さんと行ってらしたら?タマの面倒なら私が見ます」

 

 その時、お義母さまの指先が、ぐっとタマの小さな富士額に食い込むのを、私は見逃しませんでした。タマは痛みに飛び上がり、居間の向こうへすっ飛んで逃げて行きました。

「勝手なこと言うな。仕事はどうするんだ」

「一週間くらいいいでしょ。ずっと働きづめだったのだから。ねえ、たまには親孝行してあげたら」

 お義母さまはその間中、ずっと黙っていましたが、その視線がパンフレットの写真を追いかけているのを、私は気づいていました。きっとその時、お義母さまの脳裏には、船上のダンスパーティや、どこまでも広がる海の絵が、次々に思い浮かんでいたことでしょう。

 一郎さんがしぶしぶうなづいた時、私はこれで罪滅ぼしができるのだと、ほっと安心していたのです。まさかそのリンカーン号が、太平洋で嵐に巻き込まれ、消息を断つことになるだなんて、夢にも思わずにー


                     *

  

 私は話し終えた時、自分が決して春のために話していたのではなかったことに気がついた。私は、自分のために、自分の罪を償うために、話していたのである。

 そうさせたのは他でもないー神々しいくらいに野生的な春その人自身であった。私は春のことを哀れに思いながら、同時に畏怖していたのだ。だが肝心の春は、私が話し終えても、ペッとキノコのカスを吐き出しただけだった。

「私、ずっと一人で探し続けてきたんです。みんなが諦めろって言いました…でも、信じていたんです」

 私は肌身離さず持ち歩いている、一枚の写真を取り出して、春に見せた。その写真に写っているのは、幸せそうに微笑む一組の若い新郎新婦ーそう、私の可愛い一人息子。

 「息子の太郎です…去年、結婚しましたよ。お義母さんの孫ですよ。覚えていますか?」

 春の目は動かなかった。その瞳はただ、鏡のように、私を映しているのみであった。私は半ば諦めかけて、付け加えるようにこう言った。

「そう、タマは五年前に死にましたよ。最後まで私には懐きませんでしたけど…」

 その時だった。突然春の瞳に生気が宿ったのは。春はすっくと立ち上がり、私の手を振り払うと、森の奥へ歩き出した。慌てて止めようとしたが、凄まじい力で振り払われた。私は混乱の中、ただ遠ざかる春の背中を見つめていた。

                

                       *


 翌朝、私は朝日が昇ると同時に起き出して、島を散策することにした。

 歩き回ってみると、想像よりも随分小さな島であることがわかった。一時間もあれば一周することができた。

 そうして、それを見つけたのだ。森の奥の洞穴の前に、それはひっそりとあった。いくつも小さな石が積み重ねられていて、「一郎、ここに眠る」という日本語が不器用に刻まれている。墓石の下には、乾いた血がこびりついた腕時計が置かれていた。そのベルトには、鋭い牙で食いちぎられたような跡があった。

 

 私はその場に崩れ落ちた。全て終わった。

 私は息子の写真を取り出して、じっと眺めた。だがその写真は、私を慰めるものではなかった。それは私に、孤独を思い知らせるものだった。かつて私が春から一郎を奪ったように、私も息子を知らない女に奪われたのだ。

 だから、私はー一人ぼっちになった私は、春を救うためでも、懺悔するためでもない。夫である一郎を取り戻すために、ここまでやってきたのだ。あげたんじゃない。貸したつもりだった。一週間だけのつもりで。それなのに。私は耐え切れずに大声をあげて泣いた。もう終わった。私にはもう何もない。

 

 その時、背後で低く、唸るような声が聞こえた。それは地獄から聞こえてくる風のようだったー脇から冷や汗が滲むのが感じられた。私はゆっくり、機械人形のように振り向いた。そこには大きな虎がいたー虎は爛々と目を光らせ、私を睨みつけていた。剥かれた牙から、ヌラヌラとよだれが垂れた。私は相手を刺激せぬよう、背中の猟銃にそっと手をかけた。手は汗ばみ、瞬きができないーひどく緊迫した状況の中で、私は自分を笑った。それでもまだ生きようとしている、自分の欲深さを。


 その時、私は写真を土の上に置きっ放しにしていることに気がついた。たった一瞬だった。私が視線を落とした瞬間に、虎は風のように飛び上がった。墓石が彼の足にぶつかって、崩れおちる音がした。だめだ、間に合わないーそう思った時、突然、頭上から叫び声がした。


 「こらあああタマああああ!」


 次の瞬間、春が木の上から降ってきて、虎の背中に飛び付いた。そうして虎の額に向かって、大きな石を振り下ろした。虎は嵐のような唸り声をあげ、必死に春に威嚇した。だが春も負けてはいなかった。虎はやがて観念し、一目散に森の奥へと逃げて行った。 

 私など目に入らないように、春は今の衝撃で崩れた墓石を、丁寧に積み上げ始めた。私は呆然と春を見つめていた。

 積み終わると春は、木々の隙間から海の方を見た。真っ青な海だった。私はその瞬間に全てを知った。

 一郎さんは死んだ。もう誰のものでもない。春が守っているのは幻だ。だけど、春が戦っているのは現実の虎なのだ。生きて、そこにいる虎。春を食べようとしている虎。

  私は春の小さな背中をじっと見つめた。その背中は不思議と、かつてよりも大きく見えた。春は森の奥へと姿を消した。彼女は決して振り向かなかった。

 

 私と船長は島を後にした。船長は何にも聞かなかった。私の虎はどこにいるだろう。と呟くと、うようよいるさ、と彼は答えた。










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