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9・可哀想な人

『しばらく夕飯はいい。僕がつくる。』


 このご時世、トークアプリではなく電話番号のSMSで連絡する人なんて夫以外に知りません。私のスマホに届いたのは五時四分で、既にコンソメスープとローズマリーポテトが温かな湯気を立てていたのでした。


 夕飯を作ると買って出る夫は、普通褒められるべきなのでしょう。世の中には、人間である以上やればできるはずなのに、料理と名のつくものには絶対に挑戦しない男性がたくさんいます。だからと言って、私は決して恵まれた妻だとは思えませんでした。


 むしろ、また私のことを傷つけ、ないがしろにし、お役目を取り上げることで私の居場所を無くすのだと感じてしまいます。ですが、幼少の頃からの父の教育の賜物なのか、今回はこの感情をそのまま夫にぶつけようとは考えつきませんでした。私本来がもつ性格や素地を無視して仕組まれた『女は貞淑で従順でなければならない』という刷り込みがプログラム通り正常に実行され、父が好む出力結果をこの世に吐き出す人形マシンと成り下がるのです。


 私は、部屋の電気もつけずにダイニングの椅子に腰をかけると、外の世界がひたひたと夜へと向かっていくのを他人事のように眺めて過ごしました。手足はぶらんと地面に垂れ下がり、このまま指先の先端から身体が腐っていくのも良いかもしれないと思い始めた頃、夫は帰ってきてしまいました。夜の八時でした。私はもう、お腹が空いていませんでした。







 私は、包丁を振り上げました。昨夜のことです。私は狂人でしたし、今もそうかもしれません。なのに、夫は何事も無かったかのように家にあがり、片手でネクタイを緩めるとその先をワイシャツのボタンとボタンの間から服の中に押し込んで、腕まくりをします。私を怖がっているそぶりは微塵も感じられません。今朝、私の身体を見て、所詮女だと甘く考えたのでしょうか。それにしても違和感が強すぎました。


「食べよう」


 しばらくして夫が私に差し出した皿には、鮭のムニエルがありました。バターの香ばしい香りが目の前に広がります。彩りを考えたのか、私が使い残していたローズマリーも添えられていました。皮目は箸をつけなくても分かるぐらいにパリッと焼き上げられています。素人目に見て、それは完璧な料理でした。


 だからこそ、私は箸をつけません。


 夫は、キッと眉を上げてこちらを睨みました。昨夜でさえこんな顔をしなかったのに。そして何かを言うのです。もちろんいつも通りの音量なので、聞こえるはずもありません。


 私は許しません。

 私をこのように醜い女にした人は夫。私の人生は何も考えずともメトロノームのように静かに一定のリズムを刻みながら進み、終わるはずだったのに。こうも衝動的に、刹那的に、狂気的にさせるのは全て。


 別に刃物を使わなくても良いのです。私を殴ればいい。私を突き落とせばいい。もっともっと貶めて、この罪深い私を裁けば良いのです。何しろ、夫は大人なのですから。こんな妻をもったにも関わらず、嘆くでもなく悲しむでもなく、なぜか私のところに帰ってきてしまう馬鹿な人。


 ですから、夫が発信する何かを無視することもできました。けれど、もし私に私が納得する形で何かを謝罪しているのならば、聞いてみても良いかと思ったのです。一縷いちるの望みというものです。


 テレビのリモコンは夫の手元にありました。わざわざそれに手を伸ばすのも億劫です。私はスカートのポケットに入っているスマホの再度ボタンに指を滑らせました。ここには音量ボタンがあるのです。


 ピという電子音が鳴りました。人間らしい生活さえしていれば、一日に何度も聞くことになるありふれた小さな音。けれど、今はあまりにも異質です。夫は「メール?」と呟いたように見えました。私は気まずくなって目を逸らすと首を横に振りました。


 だいたい、この不思議な超常現象はなぜ継続的に私の身に起こっているのでしょうか。

 そうです。私が私なりの『幸せ』を感じなくなったのは、この力が手に入ってからのことでした。


 その時、ふと視界が暗くなります。いつの間にか夫が席を立って私の横におりました。


「千代子は痩せた。それが辛い」


 なるほど。近くに寄れば特別な力無くとも声は聞こえるのですね。

 夫はしゃがみこむと私の顔を大きな手で挟み込みました。じんわりと直接的に浸透してくる生温さには、おそらく凶悪な病原菌が潜んでいて、細胞越しに私の中へ侵入すると脳のシナプスをことごとく攻撃しながら妙なホルモンを発生させているにちがいありません。


 気持ちとは裏腹に、自分の顔がりんご飴のようになっていくのを感じます。鼓動が高鳴り、いつもの『私』は背を向けて、とてとてと少し離れたところへ歩いて行ってしまいました。そして振り向くと、九鬼くんを模したお面を被り、魂の宿らない瞳からこちらを眺めて嗤うのです。裏切り者、と罵って。


 夫はふと私の頬を押さえる手から力を抜きました。その手が離れていく瞬間、私の中にある情報が大量に流れ込みます。零と空白スペースで表現された長い長い暗号のような文字列。瞬間的でしたが嵐のようなうねりを以てして私に押し寄せ、一つの言葉が頭の中に音声として残りました。


(可哀想に)


 これは夫の心の中の言葉であることは、すぐに理解できました。私が、勝手に夫の心の中を想像して読んだわけではなく、確かに私の中へ流入してきたのです。新たな現象でしたが、もう私は驚きません。こんなことが些細に思える程に、何もかもが変わり、何もかもが初めから私の認識とは違ったことが明らかになったのです。


 夫は手を離してからも、しばらく私の目の前にいました。手が離れると、もう心の声もこちらには入ってこないようです。



 私は孤独だと思いました。



 実家にいた頃も、おそらく孤独でしたし、自らは孤独なのだろうと考えていました。一人でいる時間が長すぎましたから。けれど、あれは本物ではありません。本当の孤独とは、誰かの気配を感じた上で一人きりになることなのです。


 誰かの気配も街中のように多すぎる場合はこの限りではありません。そう、今のように狭い家に男が一人いて、私という女も一人いる。二人は同じ箱の中に入っているのに、別の景色を見ていて別のことを考えている。それがずっと続く、のだと思われる。こういった状況のことを指すのでしょう。


 同級生でもなければ友達でもない。知り合いというよりかは親しすぎるけれど、何も知らないと言っても過言ではない程に謎の男性。それが目の前の夫です。


 あなたは、誰。


 まだ、彼の正体は見極められそうにありませんでした。

 なぜなら、私のことを可哀想と憐れむ当人こそ、最も可哀想に思えてならないのですから。











 朝方目を覚ますと、トークアプリに二件のメッセージが届いていました。一つは東さんから。お店のイベントは盛況で、私のお陰だと書いてありました。あまりにも大袈裟です。


 もう一つは、九鬼くんからです。短く『駅前十時』と書かれてありました。


 今日は土曜日。夫は大学でオープンキャンバスがあるとかで出勤日らしく、間もなく起き出してきて出勤してしまうでしょう。そして、私が別の男性と出かけることなんて知らずに、今日もあくせく働くのでしょう。



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