27・羽の生えた魚
それから一週間が経ちました。今日は日曜日です。
一週間かけるということは、すぐに答えを聞きたくない夫の我儘でもあったのだと気づいたのは昨夜のことでした。では、わたしも一つ我儘を言ってみようと思い、朝食の席でこう切り出したのです。
「今日は水族館に行きたいです」
夫は返事をする代わりにいそいそと洗面所に向かうと髭を剃り始めました。私は自分の部屋に戻って鏡台の前に座ります。お下げ髪をきつめに編み直しながら、私は少し痩せたかもしれないと思いました。
車は北へと向かいます。海沿いをずっと進んでいくと、私でも名前だけは知っている大きな水族館がありました。
夫は入口で入場券を二枚買って、一枚を私に持たせます。エントランスを抜けると長い上りのエスカレーターがあり、天辺まで辿り着くと暗くて独特の臭いがする迷路が待っていました。
「来たことある?」
「ない、です」
私は記憶の中からそれらしいものを探しましたが、見つかりませんでした。他の家族でしたら、家族旅行などでも訪れるような場所なのかもしれません。ですが、私にとって旅行と言うと、小学校と中学校の修学旅行、そして夫と行った別府への旅ぐらいのものです。
「一度、来てみたかったんです」
実家の庭の池が好きだった私は、他の場所にいる魚も見てみたいと思っていました。私は狭い水の中にいる魚は閉じ込められているというよりかは、匿われているように見えていましたし、そんな魚に憧れていたのです。
水族館は、思っていた通りにたくさんの水槽があり、その中に数え切れない程の魚達が悠々と泳いでいました。
「魚は、私達のことをどう思ってると思う?」
私が尋ねると、夫は間髪開けずに答えました。
「馬鹿な奴らって思ってるかもね」
「なぜ馬鹿にされてしまうの?」
「魚は自由だ。狭い所にいるかもしれないけれど、その物理的なスペースはこれだけあれば十分。その中では好きなことを考えて、日がな踊ってるだけでいいんだから」
夫にかかれば、魚は泳ぐのではなく、踊るもののようです。おかしくって笑ってみると、夫は少し気分を害してしまったようで口をへの時に曲げました。
「たぶん魚から見れば、狭い檻に入って苦しんでるのは人間の方なんじゃないかな。いつでも酸素は吸い放題だし、地球っていう星の物理的スペースはとっても広い。でも、人間の野望や感情っていうものは、そんなものにも収まりきらないぐらい無限に膨張していくものだから。それで、自分で自分の首を締めてるのさ」
「そうかもしれない。だから、魚は素晴らしいのね」
私は何となく分かったような気がして、近づいてきた魚に手を伸ばしました。水槽のガラス壁に当てた私の指を餌だと思ったのかもしれません。二、三度、私の指をつつく真似のようなことをすると、その鈍色の魚は離れていってしまいました。
「千代子。少なくとも千代子は魚みたいに自由になればいいと思う」
では、あなたは? その言葉は出さずに、夫の次の言葉を待ちます。
「先生の墓参りに行きたければ行けばいいし、実家にももっと足繁く行ってもいい。いつかお母さんに会いたくなれば、結局また会えないにしろ、その近くまで行ってみればいい。どれが正解っていうのは無いし、今ならいくらでも可能性を書き換えることができる」
ガラスに私の顔が映りこみました。水槽から漏れる青い光に包まれて、血相が酷く悪い女でした。
「大丈夫。千代子が望めば、またちゃんと会えるんだ。誰にだってね」
私は夫が伸ばしてきた手を弱く握り返します。近くを小さな子ども達が走り抜けていきました。水槽から見える遥高みの水面の光。オーロラよりも禍々しく、細い光をこちらに向かって歪みながら投げかけています。絶えず変化する私の気持ちを代弁するかのように、絶えず水槽の中の灯りは変化し続けました。夫の瞳も小さな光が浮かんでは消え、を繰り返しています。
私は曖昧に頷きました。
「そうですね」
暗い迷路は下り坂になっています。建物の中央にある大きな水槽はよくあるホテルの吹き抜けのように一階から高層階まで貫いたもので、そこには一際大きな魚が口を半開きにして旋回していました。その横を手を握ったままの私達が、ゆっくりなテンポで歩いていきます。一歩一歩が重く、まるで水中散歩のよう。
熱帯魚のネオン街と弾丸のように水中を駆け回るペンギンの群れ。とろんと眠そうな瞳で会話するマンボウと海ガメ。そして銀の衣を翻すようにして泳ぐ小さな魚の集団も。
最後のエスカレーターを降りると、淡く光る行灯があちらこちらに浮かんで揺れている幻想的なファンタジーが広がっています。様々な種類のクラゲがそっと暗闇を彩っていました。
「楽しかった?」
「たぶん」
水族館を出て、尋ねる夫に答えます。が、慌てて付け足しました。
「楽しかったです」
後、もう一言。
「ありがとう」
思い出をありがとう。
大好きな水と魚の空間を堪能させてくれて、ありがとう。隣を歩いてくれて、ありがとう。あそこにいる間、私はとても贅沢な気持ちでいられました。魚になった気分と、夫の手の温もりと。理想を味わいながらも、現実と繋がっているという安心感が同居していました。これ以上に素敵なことなんて、思いつきようもありません。きっと今日は人生で一番良い日なのです。
私はもう、思い残すことは何も無いと思いました。
次の日、私は夫よりも早く出かける支度を済ませました。昨夜、丁寧に磨いたローファーの靴を履いて、玄関の鍵を開錠します。その音が聞こえたからなのか、すぐに夫がやってきました。
高校の制服に長いお下げ髪、そして薄い通学鞄。いつも通りすぎるその装いで夫の方へ振り向きます。
「いってきます」
夫は、何か言いたげな顔をしていましたが、じっとこちらを見つめたまま。ですが、互いの視線での会話は始まります。
(行くの?)
(行きます)
(どうしても?)
(どうしても)
しばらくして、夫は一人、頷きました。何度も、何度も。それが私の背中を後押しします。
「いってきます」
私は家を出ました。
振り向きません。朝の光が淡く照らす新しい真っ白い道をコツコツと靴音を立てて進みます。
私は左、右にあるお下げの髪ゴムをそっと引き抜きました。いわし雲が棚びく青空を背景に、緩やかに波打つ髪が風で高く舞い上がります。
今ならば、飛んでいける。
どこへでも。どこまでも。
私は、羽の生えた魚になる。