25・海へ
車が何か小石にでも乗り上げたのか、ガタンと大きく揺れました。私の身体は助手席のドアにぶつかって跳ね返ります。頭は窓に預けたまま。いつの間にか雲が増えて、サイドミラーの中はオフホワイトに染まっていました。
あの後、九鬼くんは消えました。文字通り、煙のように。私は、図らずも彼の思惑を最高の形で踏みにじり、打ち砕くことに成功してしまったからでしょう。
消える直前、九鬼くんは大きな声を出しました。それが消えるための呪文だったのかもしれません。
「アンタなんて大っ嫌いだ」
初めて、九鬼くんが人間らしく見えました。年相応の男の子でした。そして、私は頷くのです。同感だと。私も私が嫌いです。
嫌いだったら、嫌いだと言えば良いのですね。九鬼くんを見るとそう思えました。嫌いなのに好きなフリをし続けることには無理があります。無理を重ねると壊れます。そもそも生きとし生けるもの、全てが壊れ物。年が経つと心も身体もじわじわとヒビ割れが広がって、いつか死を迎えます。そうなる時期を少しでも先延ばしにしようと、世の人間は様々な努力を重ねて足掻きますが、私はそれを虚しいと考えていました。死ぬならば、できるだけみすぼらしくないうちに死にたいと。ですから、ついつい急いでしまいます。いつが、私にとって時なのかを探して過ごします。そうこうしながら、この症状が強くなってもう数ヶ月経つというのに、私は未だに存命でした。
「白崎さんに、あなたが来たことは伝えておくわね。何も反応が無いように見えるけれど、きっと彼女の心の目は開いている。きっとあなたがここまで来てくれたことに感謝しているわ」
背中に悪寒が走ります。
職員さんがそう言って、水色のカーテンを少しだけ開けた瞬間、私は部屋から飛び出しました。植物状態の母だった人を置いて、私は駆け出すのです。私はこれ以上囚われたくありませんでした。私は、次の世界に行きます。行くのです。
車は山を下っていきました。途中、尾根の谷間から、遠くに光る海を見ました。
夫は海沿いの古いガードレール脇を進みます。対向車線をやってきた地元の人のものと思しき車は、唸り声を上げて勢いよく走り抜けていきました。しばらく進むと白看板の標識が現れます。景勝地があるようで、夫はそこで一休みしようと言いました。
一応観光地の一つなのかもしれませんが、何もありません。細かな砂の浜と狭い駐車場、手入れが粗雑なお手洗いぐらいでしょうか。私はふらふらと東さんに手を引かれて自販機の前へ行き、夫が入れた硬貨でレモン水を買います。陽は陰っていて暑くはありませんが、強い乾きを感じていました。
「ワラビー」
駐車場の輪止めの上に座った東さんが、棒立ちの私を見上げます。
「ある意味、あいつの言う通りかもしれないね」
「言う通り?」
「うん。これで良かったんだよ。だってワラビーの顔が変わったから」
私は自分の頬に手を当てました。あれだけ強かった顔の表面の違和感がすっかり無くなっています。洗い流さねばならないという強迫観念も。
「あたしさ、あの学校であたし以上に事情がある人なんていないと思ってた」
「今時、東さんみたいにお母さんがいないお家はたくさんあるものね」
「かもね。でも、いつまでも馬鹿正直に帰りを待ってる家庭はそうそう無いだろうさ。あの店も、ママの手がかりをつかむためにパパが始めたようなものだしね」
東さんは、近くのベンチに浅く腰掛けている夫の方を見ました。
「あぁ、もう、ほんと自分がちっぽけに思えてくるよ。結局のところ、皆いろいろあるんだよね。あたしだけだと思ってたなんて、ピエロだった。でもね、そうでも思わなきゃやってられなかったんだよ。ゼロさんはどう思う?」
夫は落ちていた煙草の吸殻を靴で強く踏み潰します。吸殻は灰になって、アスファルトの地面とほぼ同化してしまいました。そしてこちらを見るのです。
夫の母も消えた人の一人です。捨てられたということ。その後親がいないことでかなり苦労したということ。運が良いのか悪いのか、教科書を一度熟読するだけでほぼ満点を取ってしまうタイプの彼は、家庭の事情が無くても周囲から奇異な目で見られる少年時代を過ごし、本当の意味で家庭というものを知りません。けれど、何か確信めいたものをその瞳に宿していました。
「たぶん本当は、普通なんてものは無いのかもしれないね。だから普通っぽくなくてもいいし、もし明らかに周りより変だったとしてもちゃんと生きていける。僕達はたまたま与えられてきたものが少なかったり、時に過剰だったりした。だけど、それが要らないのならば拒めばいいし、欲しければ自分から相手に与えればいい」
夫が近寄ってきました。私の隣に経つ彼は、何故か急に背が伸びたように見えます。私は、そこから伸ばされた手が、私の肩に触れた温もりを感じました。
彼から伝わってくるゼロとスペースでできた暗号。それは彼の叫びや嘆き、主張。ぽかりと空いたスペース部分にポトリとイチが降ってきてカチリと音を立て、少しずつ隙間が埋まっていきます。私の身体から僅かながらも生み出されたイチは、その暗号を完璧なものへと導いていくのです。これは、最近すっかりご無沙汰になっていた夫とのキスに似ていました。互いが分泌する液体の中にある遺伝子の螺旋が絡み合って、その存在を確かめ合う行為。ずっと短い触手を伸ばして探し続けてきたものが、ようやく見つかって、かみ合う時、噛み合う時の心地良さは身体に変化を及ぼします。触れた場所から扇状に広がっていく温もりをできるだけ留めておきたくて、私は軽く目を瞑りました。
でも、視界が暗くなるともう駄目。また降って湧いたように醜い猜疑の虫が地面から這い出てくるのです。
夫は虚勢を張っているだけではないか、東さんはただ赤子をあやすように私を宥めているだけなのではないかと。それに騙されるのも一手かもしれませんが、対処療法的なものなんてすぐに効果が無くなってしまうでしょう。
「ワラビー、とりあえず座りなよ」
東さんが私の腕を下に引っ張って、彼女の隣にある車の輪止めに座らせました。夏の名残りを閉じ込めているコンクリートのそれは、ほんのりと温かくあります。
「これは、あたしの持論だよ? だから、ワラビーからすれば、めちゃくちゃな理論かもしれない。あたし、頭悪いしね。でも、聞いてほしいんだ」
東さんは黒いサンダルを脱ぎ捨てて白い脚を投げ出しました。
「あたし、高校を二回留年してるんだよ。どちらも、苛められたから。一回目はね、私の顔。日本人ぽくないとは、私も思う。二回目は、ママがいないし、パパもあんな商売だから、娘もなんとなく胡散臭いだってさ」
そんなことがあったなんて、全く知りませんでした。東さんはいつも笑顔だし、他のクラスメイトとは一線を画す凛々しさにずっと憧れていたのです。
「ワラビー、そんな顔しないでよ。大丈夫。ちゃんと立ち直ったよ。一回目はね、パパがあたしに言ったんだ。あたしがいたら、ママといた時間が本物だったって信じられるし、あたしはパパの自慢の娘だって。ほんと親バカだよね」
私は父にそんなことを言われたことはありません。もちろん、母親からも。
「二回目はね、ある人にこう言われたんだ。苦しいこと、辛いことはたくさんあるし、世の中思い通りにいかないことばかりだけれど、もうそれは仕方がない。降り掛かったものは事実だし、過去は変えようがないんだ。じゃぁ、どうすれば良いかっていうと、乗り越えるためには幸せになるしかない。誰よりも何よりも、めいっぱい幸せになるしかないんだよ」
東さんと目が合います。透き通るような茶色。
「だからね、私は、私のために、幸せになることに決めたんだ」
あの言葉の同じ。と一瞬思いました。けれど、全然違います。自分のために幸せになる。誰よりも幸せになる。あぁ。
私は、立ち上がります。
雲の切れ間から白い光が差して、私の身体を照らしました。神様か天使が降りてきそうな、神話の挿絵に出てきそうな荘厳な空。海からふわっと祝福の風が吹き寄せました。
母の言葉が嘘でなくて良かった。その気持ちで胸がいっぱいになります。本当に私に必要な言葉はこれで正解だったのです。私は、私が幸せだと母が感じたり、父の対面を繕うためだけに幸せらしくならなければならないと信じてきました。違うのですね。
白い光に照らされて、凪いだ海の水面がチラチラと輝きます。すっとその場の空気を吸い込むと塩味がしました。ずっとずっとどこかへトリップしていて、今しがた現実の世界に帰ってきたかのような新鮮さ。自分が大自然の一部として認められたかのような。そういった優しいものが潮風には含まれているのです。
これ以上母を恨まなくて良いという安心感。父のように胸を張って生きられるかもしれないというささやかな希望。寄せては返す小波のように、じわじわと実感が膨らんでいきます。
そろそろ私は、私のために生きてもいいのかもしれません。誰のせいにもしない。誰のためにでもなく。あの実家にある狭く美しい池から、魑魅魍魎が跋扈する大海へと漕ぎ出すのです。決して美しくはありません。目に届く範囲にだけでも数多の危険があり、それらは今にも私に襲いかからんとその鋭い牙を磨き上げて涎を垂らして待っている。だけど、行かなくては。今こそ。
私はゆっくりと歩き始めました。後ろから、二人の靴音が追ってきます。
夕方の海。お盆を過ぎると入ってはいけないと誰かが言っていました。それでも吸い込まれるようにして、私は波打ち際に向かって進みます。
歩きながらサンダルを脱いで、そのまま足を水につけます。心地良い冷たさに包み込まれました。
「ワラビー、あたしも行く!」
振り向くと、サンダルを浜に投げ捨てて走り寄ってくる東さんの姿がありました。夫は久方ぶりに自然な笑みをこちらへ向けています。
「今年はまだ海来てなかったんだよ。誰かさんが心配すぎて、それどころじゃなかったんだよね」
そう言って、東さんは、足元の水を少し両手で掬います。
「それっ!」
冷たい。きっとこれは清めの水。私は東さんが振りまいた煌めく雫のシャワーの中へ自ら入り込んでいきました。
「ワラビー?」
東さんは一瞬不思議そうな声を出しましたが、その目元は面白そうに笑っています。
「えいっ」
私も東さんを真似て、水をばらまきました。東さんは顔を半分背けて、身体をくねらせます。
「やったな?」
そこからは水掛け合戦でした。ぐしょ濡れになって、途中で何度もスカートを絞ります。足元が砂地に半分埋もれて転けました。髪まで濡れたのに、理由もなく楽しくなったのです。起き上がる直前、視線が水面と同じ高さになった時、水平線がそのまま空と繋がっているのが見えました。やっと私はゼロの位置に辿り着いたのだと思いました。
身体がすっかり冷えて、空がほとんど藍色に染まり、道路沿いの岸壁の陰影もほとんど闇の中になった頃。夫が私の手を取ります。
「千代子、帰ろう」
私は、その手を握り返しました。




